大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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犬飼の名所めぐり その4(犬飼町)

 今回は大字田原の名所を紹介します。たった2か所ですが興味深い石造物がたくさんあるので、やや長い記事になります。どちらも簡単に行ける場所ですから、犬飼石仏と同時に訪れてはいかがでしょうか。

 

12 済松寺の石造物

 上重(うえじゅう)部落の済松寺は、今は堂様の様相を呈しています。その坪にお観音様、庚申塔、宝篋印塔、一字一石塔など多種多様な石造文化財がたくさんあります。特に十一面観音様の立像は近隣在郷はおろか大野地方随一といってもよいほどの優秀作です。みなさんに参拝・見学をお勧めいたします。

 道順を申します。犬飼インターを下りたら国道326号を三重方面に進みます。トンネルを抜けて、左側にローソン犬飼店のあるところを右折します。道なりに掘割の坂道を上り、台地上に出たら最初の角を右折します。辻に出たら左側に広いスペースがあるので車を停めて、左に歩けばすぐ到着します。冒頭の写真は振り返って撮影した写真です。駐車場所からだと、道路の右側に堂宇と2基の庚申塔(文字塔)があり、左側に残りの石造物があります。堂様の坪を突っ切るように市道が開通したのでしょう。

大乗妙典
為 父母 之

 左のお地蔵様は基壇が4重にもなっており、たいへん立派にお祀りされています。最上段には「大乗妙典」と彫ってあり、県南で盛んに見かけるタイプの供養塔(銘を彫った矩形の台座の上に丸彫りの仏様)の類型と見てよいでしょう。側面の銘から、お父さんとお母さんの追善供養のために造立したと思われます。基壇の最上段上面は平面ではなく、若干山なりになっておりますので、その上の蓮台の下部のカーブとようマッチしています。お地蔵様にはおちょうちょをかけ、色も鮮やかな毛糸の帽子をかぶせてありますのは、地域の方の素朴な信仰心が感じられまして心温まる光景です。個人の造立でこれだけ立派な供養塔は稀な事例であると存じます。

 隣の宝篋印塔は、隅飾りの一部などを少し破損しているほかは概ね良好な状態です。この塔は長谷地区で見かけたたくさんの宝篋印塔とはまた異なる特徴を有することにすぐ気付きました。特に笠の違いが目立ちます。この塔では隅飾りがごく小さく、その上の段々を省いて傾斜のごく緩やかな斜面になっています。露盤は各面2区に分かち連子を彫り、その上の蓮台の直径に比して断面積が広いので接合部の段違いが目立ちます。相輪は徐々にすぼまり、宝珠下の蓮坐は二重花弁です。火焔の文様もくっきりと残っています。

 また、塔身の1面には大きな縦孔が見られます。この種の塔では、お経を書いた紙を筒状に巻いたものを入れられる程度の孔をときどき見かけます。ところが、これほど孔が目立ち、しかも塔身の中央に位置しているのは初めて見かけました。これは納経のためというよりは、この孔にちょうど嵌まる程度の仏像を安置していたのではあるまいかと推量いたします。

 隣の覆い屋の中には3体の石仏がお祀りされています。

 参拝しまして、仏様の素晴らしい造形にため息がでました。特に中央の十一面観音様はお見事というよりほかありません。3枚の写真で詳しく紹介します。

 緻密な彫りが碑面いっぱいに施されています。何から何までよう整い、少しの瑕疵もない見事な彫刻ではありませんか。お観音様はにっこりと優しそうな笑まいで、赤いおつばがよう映えます。頭には左右に5面ずつ、丸いお顔を螺髪に見代えにて、めいめいのお顔も丁寧に表現されおつばには紅をさしています。中央には立像を髷に見代えとは、ほんに立派なことでございます。衣紋の細やかな曲線も見事で、ドレープ感が違和感なく表現されています。裳裾からチラリと覗く足の指も、小さな皺まで表現されています。

 余白には一面の蓮の花を唐草模様に施して、めいめいの実には全部梵字を彫ってあります。左右対称になっているところとそうでないところを塩梅ようちりばめるなど、非常に手の込んだ手法であると存じます。しかもこの部分ですら細かい前後差をつけて、レリーフ状の彫り方でありながらも立体感に富んだ処理がなされています。

 蓮台にも注目してください。花びらのふっくらとした感じや、先の方が僅かに外向きに沿っている点など、本物の蓮の花びらにそっくりです。これは彫りの技術はもちろんのこと、デザインのセンスに富んだ石工さんでなければ無理でしょう。『犬飼町誌』によれば、その石工は後藤郷兵衛さんで、弘化3年の造立です。180年近くもの間、近隣地域の方々の信仰を集めてきた、ありがたいお観音様でございます。

(正面)
奉納經
西國三十三箇所
四國八十八箇所 基
信濃善光寺

(右面)
大和國長谷寺
幾度茂まいる心ハはつせでら山茂ちか井茂ふかきたにかわ

 銘に、西国三十三所四国八十八所善光寺長谷寺と彫ってあります。江戸時代のことにて、遠方の霊場を巡ることは容易なことではありませんでした。いわば写し霊場的な存在として、地域の方の信仰を集めてきたと推察されます。長谷寺の御詠歌は「いくたびも 参る心は はつせ寺 山もちかいも  深き谷川」です。これを変体仮名を取り混ぜて彫ってあります。

(左面)
善光寺御詠歌
わかくと茂末をはるかとおもふなよむ志よふの風も時ハきらわし
身ハこゝにこゝろ信濃のせんこふしみちひきたまへ彌陀の志よふとに

 変体仮名が混じっていますがどうにか読み取れました。一般的な表記に直すと「若くとも 末を遥かと 思うなよ 無常の風も 時はきらわじ」「身はここに 心は信濃善光寺 導き給え 弥陀の浄土に」です。夫々、善光寺御詠歌のうち8番と3番ですが、一般に知られている文句とはやや異なります。参考までに一般に歌われている文句を記して、銘の文句と異なる箇所を太字にしておきます。

(8番)若きとて 末を長きと 思うなよ 無常の風嫌わ
(3番)身はここに 心は信濃善光寺 導き給え 弥陀の浄土

 銘にある8番の文句の「無常の風も時はきらわじ」について補足しますと、この主語は「時」ではなく「無常の風」です。ですから全体としての意味は、一般に知られている文句とほぼ同じです。

青面金剛6臂、ショケラ

 この庚申様は地衣類の侵蝕が著しく、碑面が荒れています。苔のついていないところは今のところ細かい彫りまで見えますけれども、コンディションはよろしくありません。全体的に彫りが細かく、丁寧に表現されているようです。無理に苔を取り除けようとすると石材の破損を招く虞があります。かといって文化財に指定されていないので専門職による除去の可能性も低いでしょう。このままでは傷みが進んでしまいそうで、残念でなりません。

 主尊のお顔は左半分がほとんど分からなくなっています。右眼は薄く開けている様子が見てとれまして、なんとなく威厳があって、かつありがたい感じがいたしました。ショオケラは横向きで合掌しています。矢の大きさに対して弓が小さすぎるような気がしますけれども、それ以外は概ね適正なバランスで彫ってあるように思います。

 この仏様は頭を別石ですげ替えてあります。ぱっちりとしたどんぐり眼のお顔をごらんください、愛嬌の感じられる味わい深いお顔立ちではありませんか。これとそっくりのお顔の羅漢様を、真玉町(重野の岩窟)で見たことがあります。もちろん偶然に過ぎませんけれども、一見してあの羅漢様をすぐに思い出しました。

青面金剛6臂、ショケラ

 この庚申塔は石祠の中に納まっているためか、彩色がよう残ります。しかも赤のみならで黒、黄色と3色も使い、丁寧に塗り分けているようです。残念ながら経年の色褪せは致し方ないものの、今のところ色味はよう分かります。

 上端が大きく破損していますが、主尊の御髪にぎりぎりでかからなかったのはこれ幸いです。しかしながらお顔立ちはまったく分かりません。腕の長さはまちまちで曲がり方もやや不自然ですし、足を真横に向けて開くなど自由奔放な表現が目立ちます。ショケラはごく小さいうえに彫りが浅く、やっと見える程度にまで傷んでいます。

寛保元辛酉天
奉需青面金剛 ※需と面は異体字
十月廿九日

 銘の「奉需」は初めて見た気がします。「需」の字には、「まつ」の訓があります。すなわち「奉需」は「奉待」とほぼ同義ですが、「需」の原義として「雨乞い」の意がありますので、何らかの意図があって「待」ではなく「需」の用字を採用した可能性も考えられましょう。上部左右の日輪・月輪には瑞雲ではなく蓮の花を伴い、「奉」の上にもこれと相似形の輪と蓮を彫り梵字を彫ってあります。「剛」の下にも蓮の花があります。文字塔で、蓮の花を4つも彫ってある例は初めてみました。銘の彫ってあるところの上端の枠線が二重になっていて、美しいカーブを描いているところにも注目してください。これが塔身上端の形状と相似をなし、造形美が感じられます。最下部には数人のお名前を彫った痕跡があるものの、この部分は傷みが激しく読み取り困難でした。

(左)
奉石書醍醐味經全部

(右)
普門品塔

 左の一字一石塔の銘にある「醍醐味経」と申しますのは、お経の中でも最上位のものを指すようです。この塔の場合は、おそらく法華経の一字一石でありましょう。

 右の「普門品塔」と申しますのは「普門品読誦供養塔」の意で、観音経(観世音菩薩普門品)を決まった回数読誦した記念の塔です。地域内の観音講による造立かもしれません。なお、観音経は法華経の一部です。

 これは宝塔なのか石殿なのか、判断に迷います。写真には3体の仏様が写っています。写真に写っていない面にも同様に2体・1体で、合計6体、六地蔵様かなとも思うたのですが、確認したところ裏側になっている面には何も彫っていません。もし三尊形式であれば1つの面に3対彫るか、3つの面に1体ずつ彫りそうな気がします。或いは、元々はこれと同じ形で左右対称になった塔が本来もう1基あって、2基の塔で六地蔵様をお祀りしたのではあるまいかと推量いたします。お寺の参道の入口などで両側に左右対称の石殿を安置し、夫々に5体ずつの十王様とか3体ずつのお地蔵様を彫って十王様や六地蔵様を表現したものを稀に見かけますので、その類かなと思いました。でも現地にはこの1基しか残っていないので、確証はありません。

愛宕地蔵大菩薩

 愛宕様の本地仏はお地蔵様です。昔から火伏の霊験あらたかと申しまして、広く信仰されてきました。後ろにはのどかな田園風景が広がります。今年は大きな台風の襲来がなく、どこもかしこも豊年満作のようです。

(左)
大乗妙(以下埋没)

(右)
田原山 開基(以下略)

 石塔はずいぶん厚みがあります。半ばより埋没しており、銘を全部読み取ることはできません。石版は、全部の読み取りは省きますが冒頭には「田原山 開基」とあります。「田原山」と申しますのは蓋し済松寺の山号でありましょう。

 さて、道路の反対側には堂宇があり、その左奥にも2基の庚申塔があります。こちらは見逃しやすいかもしれません。

奉供養庚申塔 ※養は異体字

 この庚申塔は形がよう整うておりますもの、下部が埋もれて少し傾いています。上端中央には月輪の中に梵字を彫っています。全体的に地衣類が目立ちますが、主たる銘は容易に読み取れました。紀年銘は読み取り困難です。

奉待青面(以下読み取り不能

 この塔は後ろに倒れており、碑面が荒れています。上部には大きく梵字を彫り、その下は「奉待青面」まで辛うじて読み取れました。「奉待青面金剛」であることは明白ですが、その下に「尊」などがつくのかどうかは分かりません。下部に、基壇に差し込むための突起が見て取れます。さて、基壇はどこに行ったのでしょう。土に埋もれているのでしょうか。

 以上、済松寺の石造物を一通り紹介しました。多種多様な文化財がたくさんありました。指定文化財は宝篋印塔とお観音様の立像のみですが、ほかにも興味深いものがたくさんあります。未指定のものは各種書籍やウェブサイト上ではどうしても等閑視されておりますが、本来的な価値に上下はないと信じています。指定・未指定によらで、この場所は文化財の宝庫であると感じました。

 

13 石井の釈迦堂跡

 車に乗って、済松寺を過ぎて先へと進みます。角々にカーブミラーの立つ辻を右折して、突き当りを左折します。ほどなく広域農道に出ますので、これを左に進みます。しばらく下り、最初の角(左にカーブミラーあり)を右折します。石井部落のかかり、道路右側に釈迦堂の跡地があります。宝篋印塔が立っているのですぐ分かります。車は路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかありません。

 宝篋印塔は2基あり、それぞれ市指定の文化財です。指定名は、右は「釈迦堂宝篋印塔」、左は「石井宝篋印塔」です。実際は同じ場所にあるのにどうして指定名が異なるのでしょうか。

 堂宇は現存しないものの、仏様はコンクリ製の御室の中に安置されています。

 相輪を失い、尖端が後家合わせになっているほかは状態良好です。笠の下の段々のところにうっすらと彩色が残っているように見えました。基壇が高く、この部分の重量感があってどっしりとしています。格狭間はごく浅い彫りで、目立ちませんが実物を見ればよう分かります。

 こちらは、塔身の裏側を大きく打ち欠いているのが惜しまれます。また、相輪を破損し露盤の上に宝珠(火焔)が乗っている状態です。笠のつくりが異なるので、見比べてみてください。やや小型ですけれども、残存部位を見るに細部まで行き届いた造りで、バランスもよいと思います。豊後大野市のウェブサイトによれば、宝暦3年の造立とのことです。

 

今回は以上です。次回は井田地区(千歳村)のシリーズの続きを書きます。大野地方は、石造文化財の宝庫であると感じています。国東半島に比肩するでしょう。これからも、指定文化財以外もなるべくたくさん取り上げて、大野地方の石の文化を少しでも紹介できればと思います。

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