大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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城井の名所めぐり その1(耶馬溪町)

 先日、久しぶりに耶馬溪を観光しました。それで、手始めに城井(きい)地区のシリーズから始めます。城井地区は、大字冠石野(かぶしの)・多志田(たしだ)・戸原(とばる)・平田・三尾母(みおも)・福土・小友田(おともだ)・柿坂からなります。明治22年に城井村が発足し、大正14年耶馬溪村に改称しています。後に周辺の村々と合併し今の耶馬溪町の一部になりましたが、大字冠石野・多志田の大部分は分離して本耶馬渓町の一部になっています。今はどちらも中津市のうちですけれども、このシリーズは耶馬溪町本耶馬渓町に跨ることになります。

 さて、この地区は耶馬十渓のうち本耶馬渓の一角を占めてあり、景勝地に事欠きません。まったく、どちらに進んでも山水の美を極めます。しかも石橋や歴史のあるお寺・神社、古い建築、城址耶馬渓鉄道の遺構など、たくさんの見どころがあります。その中から、初回は馬渓橋(ばけいばし)周辺の名所を紹介します。馬渓橋駐車場に車をとめて歩いてまわるとよいでしょう。

 

1 馬渓橋と山国川水害復興記念碑

 大字戸原と平田を結ぶ5連の石拱橋です。国道212号沿いなのですぐ分かります。その優美な造形は、東城井地区の耶馬渓橋(オランダ橋)・羅漢寺橋とあわせて耶馬三橋と呼ばれており、山国川流域に残る石橋群の代表格です。

 駐車場から橋を渡り、対岸から眺めた様子です。後述の「立留りの景」とあわせて、この地域を象徴する景観といえましょう。羅漢寺橋の径間の長いアーチとはまた異なり、こちらは小さめのアーチが規則正しく5つ連なっています。それぞれによさがありますので、ぜひ3つの橋を訪ねて見比べてみてください。

 説明板の内容を転記します。

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中津市指定有形文化財 馬渓橋

 往時、日田代官道(戸原側)と中津藩道(平田側)の往来は、夏は渡し舟、春秋冬は仮橋が架けられていました。しかし仮橋は増水のたびに流されて、両岸の住民はその都度補修を行う苦労が続いていました。大正3年に架けられた下城井橋も大正11年の大洪水で流失し、今も川底に橋脚基礎が残っています。
 人々の苦労を目の当たりにした地元の石工・甲斐伊蔵は、雨でも流されない永久橋を架けることを決意し、潜水夫を雇い、川底の岩盤まで掘り下げ頑丈な基礎を造りました。架橋は難工事の連続で、費用負担や樹木の伐採、石材運搬など、地元をあげての一大事業でした。馬渓橋が完成したのは、耶馬渓が国の名勝に指定された大正12年。この地を訪れた田山花袋は、『耶馬渓紀行』に馬渓橋のことを「風情のある石橋」と記しています。また、橋は映画「寅次郎の休日」のロケ地にもなりました。
 馬渓橋は石造アーチ橋としては全国4番目の長さを誇り、同じく山国川に架かる耶馬溪橋(長さ全国1位)、羅漢寺橋(長さ全国3位)とともに「耶馬三橋」として知られる貴重な石橋です。石橋の北側の丘陵には、黒田官兵衛重臣・栗山利安(善助)の城であった平田城跡があります。城跡には16世紀後半に築かれた石垣が残っています。

平成元年5月1日指定 中津市教育委員会

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 補足しますと、橋の長さは82.6mです。

 ところで、この橋は先の大水害の要因になったとのことで、ひところは地元から撤去の要望書が提出されるなど、その存亡が取り沙汰されたこともありました。地元新聞でも大きな記事になっていました。そのときの経緯を記した碑が説明板のすぐそばに2基あります。

 内容を転記します。

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馬渓橋周辺の河川整備に至るまでの経緯

 「平成24年7月九州北部豪雨」により、中津市耶馬渓町平田地区及び戸原地区では、約70戸の家屋が浸水する甚大な被害を受けた。浸水被害の大きな要因は、この地区に架かる馬渓橋による流下阻害であったことから、被災後、地元住民から「馬渓橋撤去の要望書」が関係機関へ出された。河川管理者である国土交通省においても、「橋を存置しての整備は、流下阻害の大きなリスクを伴うことから、新橋への架替が望ましい」との考えであった。
 一方、馬渓橋は国指定名勝耶馬渓山国川筋の景」の重要な構成要素であり、下流耶馬渓橋、羅漢寺橋とともに「耶馬三橋」として全国的にも文化財的価値の高い構造物であることから、馬渓橋の架替については、文化庁文化審議会中津市主催の馬渓橋検討委員会を経て、中津市から「馬渓橋を存置した治水対策をお願いしたい」との方針を国土交通省へ示した。
 これを受けて、国土交通省では、「馬渓橋を存置しての治水対策については地域合意が前提」として、治水や文化財等の学識者をまじえた「山国川治水対策検討委員会」を設置し、平成27年1月から平成28年3月にわたり、架替を含む複数の治水対策案について検討した。最終的に、「馬渓橋を存置して、河道掘削と川幅拡幅、堤防整備を行う」治水対策案を、模型実験により地元住民と確認し合意を経て、整備方針として決定した。また、河川整備だけではなく、防災ソフト対策や地域振興、景観保全など多分野にわたる検討を、国道交通省、中津市など関係機関が連携して取り組むこととなった。

平成30年11月
国土交通省山国川河川事務所
中津市

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 内容を転記します。

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山国川水害復興記念碑

 山国川は、これまで幾度となく水害に悩まされてきたが、「平成24年7月九州北部豪雨」により観測史上最大及び観測史上2番目となる記録的豪雨に二度も見舞われ、未曽有の被害を受けた。
 山国川中流域では、この二度の豪雨により、それぞれ約200戸の家屋が浸水する甚大な被害となった。
 このため、国土交通省では「山国川床上浸水対策特別緊急事業」を平成25年5月に採択し、山国川中流部約10km区間において、堤防整備や河道掘削などの緊急的な河川整備を約5か年かけて実施した。この間、事業の推進にあたり、地権者の皆様、地域の皆様、河川工学・景観工学等の学識者の皆様、そして、関係機関の皆様のご協力のもと事業の完成に至った。
 今後、将来にわたり、山国川の美しい風景や自然の中で、この水害の記憶が後世に引き継がれ、地域の安全・安心、水害からの復興・発展に繋がることを心より願い、ここに銘記する。

平成30年11月
国土交通省山国川河川事務所
中津市

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 碑文の引用が長くなりましたが、どちらも重要な事柄ですので全て記しました。ニュース映像で耶馬渓や日田の大水害の光景を見た日のことをはっきりと覚えています。わたしは当事者ではありませんが、子供の頃に見た八坂川の大洪水の様子を思い出しました。その後、長い間河川工事が続き、道路の破損や流失した店舗跡の様子、山崩れの跡など、爪痕がいつまでも残り、耶馬渓方面を訪れるたびにあの水害を思い出さずにはいられませんでした。最近は復興が進み、一見して大水の後と分かるような光景は薄れてきております。馬渓橋も残りました。けれども、きっと地域の方は、ただでさえ水害により苦労されたうえに、馬渓橋の取り扱いに関しての心労も大きかったことでしょう。もしこの記事を読んで実際に橋を見学・観光される場合、ちょっと足を止めて碑文を読んでいただければと思います。

 欄干が低いので、歩道を歩く際は注意を要します。特に子供連れの場合は用心してください。この美しい風景が永久に残り、金輪際、大水が出ないことを願うばかりです。

 

2 平田城

 馬渓橋を渡れば大字平田は町丈部落です。右に行けばほどなく、平田城跡の登り口があります。下の駐車場に車を停めてもよいし、上まで車で上がることもできます。距離は知れたものですから、天気がよければ馬渓橋駐車場から歩いてもよいでしょう。

 登り口に説明板が立っています。内容を転記します。

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平田城跡(中津市指定史跡)

 平田城は別名白米城(まったけじょう)ともいい、建久年間に長岩城主野仲重房が築城したと伝えられています。天正年間には平田掃部介が城番として居城していました。
 天正15年(1587)、黒田官兵衛豊前国六郡を拝領し入国すると、野仲鎮兼はこれに反抗し家臣とともに長岩城に籠りました。黒田製は長岩城を攻め落とし、官兵衛は戦功のあった栗山備後守利安に野仲氏の旧領六十石を与えました。
 栗山備後は平田城主となり、城を改修、現在もこのとき築かれた石垣の一部が残っています。「黒田騒動」で名高い栗山大膳(栗山備後の長子)はこの城で少年期を過ごしています。

中津市教育委員会

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 「まったけ」は松茸ではなく、蓋し地名「町丈」に由来するものでしょう。しかし、白米の用字は何が何やらさっぱり分かりません。説明にその由来の記載がないのが残念に思いました。

 坂道をまっすぐ上ると、右側の狭い平場に供養塔・墓碑が並び、その奥に小さな神社が鎮座しています。狛犬がたいへん個性的でおもしろいので、見学をお勧めします。ただ、車で上がる場合には近くに駐車場所がありません。狛犬を見たい場合は下から歩いてください。

 これはおもしろい。躍動感に富んだ、見事な造形です。この形状でようまあ破損せなんだものぞと感心いたします。以前、滝尾地区(大分市)の大分社を紹介した際、境内の狛犬でこれと似たポーズの狛犬を紹介したことがあります。見比べてみてください

 さて、狛犬を見学して道なりに上りますと、二股になっています。すなわち直進は車道、左は歩道です。徒歩であれば歩道経由をお勧めします。折り返しながらなだらかに上っていきますとところどころで展望が開けますし、たくさんの椛が育っていますので紅葉の時季は特によいでしょう。もちろん、新緑の時季の青い椛もなかなかよいものです。四季の風情を楽しみつつ散策するのに適した道です。なお、麓から一直線に上ってきた道の右側にも諸々の遺構があるそうです。今回は時間の都合で確認しませんでした。

 頂上が近くなってくると、「黒田時代の石垣」の看板が立っています。上の方に、確かに古い石垣が残っていました。

 広場の手前の石垣や石段には、いかにもお城跡らしい雰囲気があります。けれども、これらがその当時のものかどうかは存じておりません。忠霊塔(後述)を立てたときなど、何かのきっかけで再整備した可能性もあるように思いました。

 現在上がりついたのは、看板の図面のうち「南台」にあたる箇所です。説明内容のうち、先ほどの説明板と重複しない部分を転記します。

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平田城

 中津市耶馬渓町大字平田に所在します。城は平田集落(註)を見下ろす標高117mの台地先端部にあります。台地は浅い谷によって南北に区切られ、南台の斜面と忠霊塔参拝道の一部に石垣があります。一方、谷を挟んだ北台には複数の曲輪があり、一部に南台と同時期の石垣が構築されています。曲輪には井戸跡とおぼしき穴もあります。

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註)説明板には「平田集落」とあるのですが、私の認識では大字平田は町丈、岩屋などいくつかの部落に分かれており、公民館も別です。もちろんこの地域は「旧平田村」ですが、普通、「集落」という言葉は町丈、岩屋などといった部落ないし土居(部落内の小単位)レベルの範疇を示すのではないでしょうか。「平田の各集落」とか「平田地域」などと表記した方が適切ではないかと思います。

 南台の端から、先ほど渡った馬渓橋が見えました。

 平田城址からの眺望を紹介するパネルも整備されていますので、近隣の名所探訪の手引きになります。

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 標高117mの台地先端部に位置する平田城跡からは平田地区と名勝耶馬渓の5景(冠石野山の景・岩洞山の景・立留りの景・木ノ子岳の景・山国川筋の景)が一望できます。
 大正15年、文豪 田山花袋と画家 小杉放菴が中津から玖珠へ旅をした際、地元名士の平田吉胤氏が旅の案内役をつとめ、自宅(平田家住宅)の裏山(平田城址)に花袋一行を招きました。吉胤氏は周囲を指し示しながら、「これからの耶馬渓にはこういう眺望台が必要だ」と説き、小杉放菴はその様子を『耶馬渓図巻』に残しました。黒い羽織を着ているのが吉菴氏、左に西浄寺、馬渓橋も描かれています。

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 広場の奥には立派な忠霊塔が立っています。少し長いのですが、そばに立つ碑銘の内容を転記しておきます。

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忠霊塔建設事業の概要

 昭和12年7月7日、日支事変が起こり、16年12月8日大東亜戦争の宣戦が布告され、中国をはじめアジア全域に亙る第二次世界大戦にまで発展し、耶馬渓村の青壮年の出征者並びに本村出身の戦歿者は日毎に増加してきた。
 昭和17年7月、耶馬渓村村長尾川古十郎氏に、在郷軍人耶馬溪村分会の決議を代表し平田武夫分会長により、日清戦争以来の戦歿者忠霊塔建設の誓願をした。
 尾川村長は村議会、区長会、各種団体と協議し全員の賛同を得て、直ちに建設委員会を設置し、同年10月10日地鎮祭を行った。全村民の寄附金と全村の老若男女の勤労奉仕により着工して、昭和18年5月18日盛大に落成式を執行した。
 昭和20年8月15日終戦の聖断が下され、全国民は祖国の復興に総力を結集し努力した結果であるとはいえ、今日の我が国が戦前以上の隆盛をみることはひとえに戦歿者諸君の尊い犠牲のたまものであることを忘れてはならない。
 昭和28年耶馬溪村より上の五ヶ村合併が行われたが、多志田・冠石野部落は本村より分離し、本耶馬渓村に合併したが英霊は忠霊塔に合祀されている。
 思えば忠霊塔建設に勤労奉仕した戦友諸君も後日召集されて多数戦歿し、本塔に合祀されている。全村民が戦争の必勝を祈りつつ建設した忠霊塔建設の経過を後世に伝えると共に、我が国が再び戦争に参加することのないことを念願する。
一 建設用地の城山約3180㎡は故平田和三郎氏が耶馬渓村に寄附した。
二 忠霊塔建設の寄附金総額は23164円で、内訳の概要は次の通りである。
 耶馬溪村の補助金 600円
 村民473戸寄附金 10404円
 遺族32名寄附金  1140円
 在郷軍人95名寄附金 9005円
 耶馬溪村出身の村外在住者と村外各種団体の寄附金 1625円
三 忠霊塔建設その他の事業費は22630円1銭で、余剰金は維持資金とした。
 忠霊塔石材工事費(徳山市中村富士兵衛石材店請負金) 8944円10銭
 基礎工事資材購入費 1745円58銭
 常用人夫賃 2475円
 落成式費総額 1380円
 雑費総計 796円13銭
 付帯工事費(石段・石灯籠・氏名板・植樹・便所新設外) 7289円
四 勤労奉仕延人員 4319名(外に常用人夫延682名)
  内訳は左の通り。
 一般男子 960名
 一般女子 1275名
 在郷軍人分会員 382名
 男女青年団員 335名
 小学校生徒 945名
 中・女学生 80名
 大工左官と馬車の奉仕 242名
 村外各種団体の勤労奉仕 90名
五 大事揮毫者 陸軍大将南次郎閣下は大分県日出町出身で陸軍の長老であった。
六 石灯籠寄進 婦人会全員が1450円を募金し、入口の灯籠1対を寄進した。

忠霊塔合祀英霊銘碑建設の概要

 忠霊塔に合祀の英霊の尊名と忠霊塔建設工事の概要を永久に伝えるため、大東亜戦争終戦30周年記念事業として、旧耶馬溪村(多志田・冠石野部落を含める)全戸の協力を得て、区長会、軍人恩給連盟支部会員、遺族会等が発起し、戦歿者氏銘碑を建設した。願わくは後世の方々がこの聖地を永久に美化し存続されたい。
一 合祀英霊銘碑建設の寄付金総額は1613400円で内訳は次の通り。
 耶馬溪町城井区民寄附 396戸分の合計金額 372000円
 遺族108名の寄附 67000円
 軍恩会員48名 25000円
 本耶馬渓町多志田・冠石野部落67戸の寄附金 113700円
二 本事業の事業費総額は、1563400円
 石材工事費 510000円
 胴板氏名表作成費 180000円
 骨壺更新費 246000円
 霊室内外修理費 160000円
 落成式費 53000円
 参道舗装、修理費 350000円
 維持諸経費 64400円
三 余剰金50000円は、将来の忠霊塔維持管理基本金として積み立てた。
昭和50年9月 発起人代表 平田武夫撰 笹島静雄書

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 忠霊塔に参拝したら、元来た道を帰ります。途中で立留りの景を楽しむことができますが、説明の都合上、次の項目で紹介します。

 

3 立留りの景(戸原の尺八竹について)

 忠霊塔から麓に下っていきますと、対岸の大岩壁が目に入ります。これが耶馬六十六景のうち立留りの景です。

 山の形がよいし、大岩壁のものすごさも筆舌に尽くしがたいものがあります。しかも山また山の折り重なる中ではなく、山国川べりの谷筋の田んぼや民家の風景によう馴染んでいるところがまた、この景勝の特筆すべき点であると存じます。新緑の時季はまた格別です。

 説明板の内容を記します。より読みやすいように少し改変しました。

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立留りの景

 川向こうの岩山が「立留りの景」です。今から250年前のある夜半、大きな音響とともに岩山が崩れ落ち、この景ができたといわれています。
 今はなくなりましたが、昔は岩山と山国川の間に竹林があり、この竹は「尺八竹」として有名でした。尺八は、3つの寺の梵鐘と川の瀬音、馬の蹄の音の聞こえるところに成長した竹で作らなければよい音は出ないとの伝承があります。この場所の竹は、平田の西浄寺、戸原の円徳寺、岩屋の久福寺の梵鐘と山国川の瀬音、日田中津街道を通る馬の蹄の音が染み込み伸びたもので、しかも虎符の模様の入った珍しい竹でした。それで、江戸時代には将軍様に献上していたといわれています。また、元禄14年に江戸城松の廊下で浅野匠頭を後ろから抱き留め赤穂浪士から睨まれていた梶川輿惣兵衛が、浪人となりこの場所に尋ね来て、尺八を作ったともいわれています。

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 道順が前後しますが、馬渓橋駐車場から眺めた立留りの景です。昔、旅ゆく人が思わず立ち止まって眺めたというのも頷ける見事な景観です。国道を車で通るだけでは、この景勝の真価が分かりません。駐車場に車を停めて眺めてみてください。

 

4 旧平田郵便局

 平田城址登り口から馬渓橋の三叉路まで後戻って、橋を渡らずに直進します。道なりに行けば平田家住宅があり、それはもう素晴らしい建築ですけれども個人のお宅なので写真の掲載は控えます。平田家住宅を過ぎて少し行けば、左側に古い建物が残っています。

 この建物は大正12年に落成しました。今は静かな通りですけれども、昔はこの前の三叉路を入ったところに駅があり、付近には村役場、食堂、商店が並び近隣でも特に賑やかな場所であったそうです。いま、このような古い木造建築が老朽化などで取り壊されることが多く、数が減ってきています。地域の歴史を今に伝える建築として、大切に保存することが望まれます。

 

5 耶馬渓平田駅跡(耶馬渓鉄道について)

 旧平田郵便局前の三叉路から少し入れば、旧耶馬渓線の平田駅跡があります。いまはサイクリングロードの休憩場所として整備されています。旧のホームがそのまま残っているほか、八重桜も植樹されていますので、近隣の名所めぐりの際に立ち寄るとよいでしょう。

 このように、一目で鉄道のホームと分かる構造が残っています。線路跡はサイクリングロードとして整備されており、駅跡のところで幅が広がっています。耶馬渓線は単線で、この駅で上下の行き違いをしていました。

 旧駅舎のところに建てられた休憩所の中には耶馬渓線についての説明板が整備されています。昔の平田駅の写真も掲載されています。内容を転記します。

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大分交通耶馬渓

 耶馬渓線は、国鉄中津駅(現JR中津駅)から守実温泉駅(下毛郡山国町、現在は中津市)に至る延長36.1kmの鉄道路線で、大分交通が運営していました。地元では親しみを込めて「耶鉄」と呼ばれていました。大正2年(1913)に耶馬渓鉄道として開業し、昭和20年(1945)に大分交通の路線となりました。
 山国川に沿って延びる耶馬渓線は、沿線に青の洞門や羅漢寺、守実温泉などの観光地を控えていました。また、通勤通学に多くの人々に利用されており、1950~60年代には黄金期を迎えました。しかし、1970年代に入ると沿線の過疎化による利用者の減少と、並行する国道212号線などの道路整備が進んだことで、昭和46年(1971)に野路~守実温泉間が廃止され、昭和50年(1975)には全線が廃止になりました。
 廃線跡は整備され、現在はメイプル耶馬サイクリングロードとして利用されています。

耶馬渓線の駅)
中津、八幡前、大貞公園、上ノ原、諌山、真坂、野路、洞門、羅漢寺、冠石野、耶馬渓平田、津民、耶鉄柿坂、下郷、江渕、中摩、白地、宇曽、守実温泉

耶馬渓平田駅の歴史)
大正3年(1914) 城井駅設置
大正14年(1925) 城井駅を耶馬渓平田駅に駅名変更
昭和46年(1971) 廃止(野路~守実温泉間廃止のため)
昭和62年(1987) サイクリングロード休憩所として整備
平成9年(1997) 登録有形文化財に指定(石造ホーム)

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 耶馬渓線が今も残っていたら、一度乗ってみたかったものです。昔は、大分県にも複数の私鉄がありました(別大線・国東線・宇佐参宮線・豊州線・佐賀関線・耶馬渓線)。これらの中で、いちばん最後に廃止されたのが耶馬渓線です。

 

○ 唱歌耶馬渓鉄道唱歌

 この唱歌は鴛海国陽さんの作詞によるもので、沿線の名所旧跡をこれでもかと歌い込んでいます。耶馬渓線の遺構を訪ねる際、鉄道唱歌や電車唱歌の旋律で歌ってみてはいかがですか。

頼山陽の筆により 天下に名高き耶馬渓
 奇景勝景探らんと 今ぞ降り立つ中津駅
独立自尊と訓えたる 福翁出所の中津町
 昔を偲ぶ記念碑は 扇城城址そびえたる
〽耶馬軽鉄の列車にて 汽笛一声勇ましく
 沖代平野を右左 名僧雲華の古城駅
郡中一の大貞の 宮居は高し杉の杜
 鯉のひれ振る薦池 映るや辺りの八つの景
〽常盤の松に色そえて 春は桜に秋紅葉
 美談を残す鶴市や 八面登山は上ノ原
真坂は杉と兎とび 餅に名を得し野路の駅
 宇佐に所以の斧立社 過ぐれば変わる郷の態
〽耶馬七景の清流を 一つに注ぐ鮎返
 山の姿や水の色 眺めおかしき仏坂
樋田の民家を眺めつつ いつしか珀水湛えたる
 樋田大堰の鉄橋を 渡る響きは雷か
〽水に映ろう隧道は 昔時狐客の禅海が
 三十余年の辛酸に 掘りしといえる洞門よ
羅漢寺を降り立てば 法道仙人唐土より
 来たりて開きし羅漢寺へ 道のり僅か十五町
〽手の平返し針の耳 五百羅漢や宝物館
 地獄極楽ひとめぐり 洞鳴の滝も遠からず
〽駅のほとりの青の里 眺め尽きせず山陽が
 一夜を明かせし絶勝地 近くに流れの犬走り
〽競秀峰を眺めつつ スタンプ付きの絵葉書や
 耶馬溪焼の三猿を 記念の土産に買うもよし
〽千筋の滝の蕨野に 三日月神社の杜蔭や
 賢女ヶ嶽の岸壁は 河の彼方にただ一目
〽見よや此方の冠石 名にちなみたる冠石野
 駅を過ぐれば厳洞山 麓に刀自売の久福寺
平田城址や西浄寺 彼方を眺めて立ち止まり
 城井の神社を伏し拝み 枝垂れの松の鶴の坂
〽床しき声の鶯は 彼方此方の山の嶺
 机は本線最長の 隧道刹那は暮れの闇
〽酔仙巌や高城山 川を隔てて秀麗の
 烏帽子ヶ嶽に机淵 廻ればいつか津民駅
〽幽遂閑雅の桧原山 誦経の声を聴きながら
 昔を偲ぶ正平寺 これより僅か一里半
〽奇岳の麓西東 翠轡清水眺めては
 瑞西の景もかくもこそ ロッキー山峡かくもこそ
柿坂駅の勝景は 文にも画にも尽くされず
 筆をなげうち山陽が 称揚したる擲筆峰
〽ここは耶鉄の終点地 寺宝に名ある袈裟懸の
 名号を有する善正寺 詣でて旅労を忘るべし
〽これより馬車や車にて 三里あまりを辿りなば
 山霊水伯秀麗の 深耶馬溪に至るべし
〽芝石岩や鳶の岩 竜鼻岩にこしき岩
 七福岩と鴫良滝 くしき眺めは数多し
〽英彦登山は本渓の 青葉若葉に花紅葉
 四季の眺めに七里半 山容水色限りなし
〽途にて姫の花房や 毛谷六助豊前
 武術を鍛いし岩見らの 史跡を探るも妙ならん

 漢語を多用した自信満々の歌詞がとてもよいと思います。この唱歌がつくられた当時は、柿坂駅が終点でした。そのため柿坂はたいへん賑おうたそうです。また、3番に「古城駅」が出てきますが、先ほどの説明板の駅一覧には記載がなく、かわりに「八幡前駅」の記載があります。これは、古城駅が廃止されたのちに八幡前駅が新設されたためです。諌山駅も、開業前にて歌詞に出てきません。また樋田駅はのちの洞門駅、城井駅はのちの耶馬渓平田駅です。

 

今回は以上です。毎度々々の長い記事で、なかなか更新できずにいます。決して放置しているわけではなく、空いた時間に頑張って少しずつ書いています。気長にお付き合いいただければと思います。次回はこのシリーズの続きを書きます。

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