大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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日田の名所めぐり その2(日田市)

 今回は月隈山(永山城址)周辺と丸山のお伊勢様を紹介します。いずれも豆田町(旧市街)からそう遠くありません。月隈山には、お城跡、横穴墓・特殊地下壕、月隈神社、月隈公園などがあります。また、お伊勢様には宝篋印塔や庚申塔などたくさんの石造文化財があります。中世から戦時中までの日田の歴史をたどる散策コースとして、豆田町や慈眼山公園、吹上観音などとあわせて巡ることをお勧めいたします。

 

3 月隈山

 日田インターを出て左折し、「ハーモニータウン入口」三叉路を右折します。突き当り正面が月隈山です。左折して山裾に沿うていけば広い駐車場があります。ここに車を停めて、月隈公園(児童公園)を横切れば正面参道に至ります。冒頭の写真のお濠を見逃さないように、行きに公園を横切った場合は帰りには外回りで、車道経由で戻るとよいでしょう。

 曇り空の、しかも日暮れ前に撮ったのでうら寂しい雰囲気の写真になってしまいました。実際はもっと明るく楽しい雰囲気の公園です。遊具も整備され、いつも子供からお年寄りまで、大勢の姿を見かけます。ベンチもありますから、近隣を散策する際の休憩場所としても適しています。

 公園を過ぎて道なりに行けば、崖下にたくさんの横穴がほげています。その中に、宝珠型の岩屋に仏様をお祀りしてある一角があります。これは、元々はこのような形状ではなかったものを、後世に改変したとのことです。

 月隈山にはおびただしい数の横穴が残存しています。その全てが横穴墓であると認識していたのですが、『永山城跡Ⅱ 発掘調査概要報告書』(日田市教育委員会)によりますと、特殊地下壕も含まれているとのことです。特殊地下壕とは防空壕や地下工場・地下病院・弾薬庫その他の用途で第二次世界大戦中に造成されたもので、その形状の違いからある程度は判別できるようです。写真に写っている矩形の横穴は、入口の装飾的な彫り込みから横穴墓であると分かります。

 説明板の内容を転記します。

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大分県史跡永山城跡と平成28年熊本地震

●史跡永山城跡の概要
 花月川北岸、阿蘇溶結凝灰岩(約9万年前の阿蘇山最大の噴火による火砕流堆積物)でできた月隈山と呼ばれる独立丘陵にある平山城で、17世紀初頭に小川光氏により築城されました。17世紀中ごろ、島原の乱(1637年)を受け、幕府の支配体制強化策として永山城の南側に日田御役所(永山布政所)が設置されるとともに、永山城は政治的役割を終えて廃城になったとされ、お城としての存続期間はわずか40年程度と考えられています。ただしその後も歴代の代官・郡代の管理を受け、神社が勧請され、私塾咸宜園を開いた廣瀬淡窓とその門下生がたびたび遊学に訪れるなど、日田や豆田のランドマークとして親しまれていたようです。
 日田市教育委員会では、平成20年度以降発掘調査を行っており、月隈公園内のいたるところにお城の痕跡が残っていること、本丸には建物の礎石が残っていること、瓦葺きの大手門が存在していたことなどが確認されています。
 石垣に大きな川原石をそのまま用いることは、永山城の最大の特徴と言えます。豆田町に現存する江戸期の建物の基礎構造にも大きな川原石が使われており、身近にある素材をうまく活かすという、当時の日田の建築技法の特徴が表れています。これらのことや、発掘調査の成果が文献・絵図と一致していることが永山城の価値として認められ、平成28年2月23日に大分県史跡に指定されました。

平成28年熊本地震による被害
 前震(4月14日午後9時26分、日田市の最大震度4)では特に被害はありませんでしたが、県史跡指定からわずか2か月後、4月16日未明の本震(北北東方向に震度5強の揺れ)を受け、大手石垣(以下、石垣9・10)と伝天守跡石垣(以下、石垣2)の各一部が崩壊しました。特に石垣10の石材は土砂を伴って公園遊歩道入口付近まで崩落し、鳥居や石灯籠を破壊して、おびただしい数の石材が遊歩道をふさいだ状態になりました。

■今回の石垣崩落規模
・大手石垣(石垣9・10)の一部
  幅約10m、高さ約6m
・伝天守跡石垣(石垣2)の一部
  幅約7m、高さ約3m

●工事の概要
 永山城跡は「史跡」という文化財に指定されているので、石垣修復については、伝統的な工法により被災前の姿に戻すことが大前提です。今回の崩落の直接的な原因は地震ですが、その他に次のような石垣崩落につながる要因が工事の過程で明らかになりました。
① 石垣の裏側の構造の劣化…裏込め石が小さい。裏込め石の間に土が流入して目詰まりを起こしている。
② 石垣上の樹木の影響…根が伸びて石垣の裏から石材を押し出す。風や地震による幹の揺れが石垣に伝わる。
 今回の復旧工事では、このような要因を取り除き、石材が元々あった位置をできる限り特定し、元の位置に戻すことで文化財的な価値を保つことを目標としました。また石垣の内部構造では、近年福岡城唐津城などで発見され、振動の吸収効果が期待される「大きめの裏込め石を列状に並べる」方法を取り入れ、「より強い石垣」を目指しました。

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 もうひとつ、説明板の内容を転記します。

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月隈公園

 日田三丘の一つ、慶長の昔(1601)豊臣秀吉の家来、日田郡令小川壱岐守が城を築いて丸山城と名づけ、石川総輔のとき永山城と名を改めました。貞享3年(1686)からは、日田郡代が丘の南側に永山布政所をおいて九州各地にある幕領や九州各藩の目付としてその威勢を天下にしめしたところです。丘の正面山腹に散在する横穴は、千数百年前の豪族の古墳だと伝えられています。

日田市

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 先ほど申しましたように、横穴の全てが古墳(横穴墓)というわけではありません。

 このようにたくさんの横穴が横並びになっています。入口が地面よりも高いのは、まず間違いなく横穴墓でしょう。低い穴も、矩形の縁取りをなす装飾的な造りであることと高さが低いことなどから、横穴墓であると考えられます。

 少し行くと正面参道に合流します。先ほどの説明板の写真のとおり、この辺りは先の地震で壊滅的な状態になりましたけれども、まったく違和感のない修復がなされています。説明板を見るまで、それほどまでに壊れたことには気付きませんでした。この辺りの穴は特殊地下壕とのことです。

 よう見ますと、鳥居には修復の痕が残っています。横穴の形状が、先ほど掲載した横穴墓とは異なることがお分かりいただけると思います。こちらは、ずいぶん縦長になっています。これは特殊地下壕です。右の石段は崩れ気味で、この先の枝道は通行止めになっていました。

 通行止めの通路の先にも横穴がたくさん並んでいます。この道がどこにつながっているのか気になりましたが、雨上がりで足元が悪かったのと、地震の被害により通路が破損していることが予想されましたのでこの先の確認は省きました。

 このように、入口から少し入ったところで横幅が狭まり、その奥がまた広くなっています。この造りは防空壕である所以でしょう。

 先ほどの枝道は通行止めですが、本道はこのように整備が行き届いています。石畳状の舗装にて景観に配慮されていますし、なだらかな坂道が屈曲して木立を縫うていく風景もよく、ただ歩くだけでも楽しいものを、片側には横穴墓などが次から次に並んでいるのです。

 中央の小さなくぼみは、お灯明の置き場です。その左右の横穴が奥で繋がっています。特殊地下壕として掘った穴なのか、または横穴墓を何らかの用途で戦時中に改変したものなのか、一見して判断できませんでした。

帰安碑

 碑というよりは、入母屋の笠の乗ったお塔の様相を呈しています。説明板の内容を転記します。

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帰安碑

 文化15年春、咸宜園塾主広瀬淡窓(名は簡)は日田代官塩谷正義に召されて「帰安碑」の碑文を撰するよう命ぜられた。
 これは、前年に着陣した新任の塩谷代官が、金毘羅社建立のため永山城址を整備したとき、山腹にいくつもの横穴が見出された。人夫に掘らせたところ中に古い人骨が散乱しており、少しの土器のほかには何のしるしもない。
 代官はその骨を集めて山の下に改葬し、その上に碑を建ててみずから「帰安碑」と名づけたものである。
 淡窓は漢文でこの経緯を記した後に人骨への弔意の詞を述べて、「文化十五年戊寅四月丙辰広瀬簡誌」とした。いうまでもなくこの穴は古墳時代の横穴墓であった。碑は山の下から現在場所に移されたが、後年多くの勒石を残した淡窓先生の、記念すべき最初の碑文である。

日田市

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 このシリーズ「その1」の「2 慈眼山公園」の中で、塩谷代官の碑を紹介しました。この帰安碑の説明を読み、その立派な人柄が分かりました。

 これは振り返って撮った写真です。帰安碑の辺りも横穴が多数残っています。ここまでくるとお稲荷さんの幟が立っており、神社までほど近いことが分かります。道がよいので、駐車場から上り坂が続きますけれどもごく簡単な道中です。

 説明板の内容を転記します。

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月隈神社

・御祭神
大宮賣神他六柱
菅原大神
稲荷大明神

・祭典
夏期大祭(風止鎮疫) 7月土曜入3日目
秋季天領祭 10月第3土曜日
初午大祭 旧2月初午

・由緒
 当社は、日田市北豆田1番地に鎮座し、大宮賣神、猿田彦神、武甕土神、経津主神天児屋根命、比賣神、崇徳天皇を主祭とし、創立年代は不詳。慶長6年(1601)日田代官小川壱岐守光氏城主が月隈山に丸山城を築き、元和2年(1616)石川主殿守総輔6万石の領主として居城し領民の繁栄と豊穀祈願のため社殿を創設し諸神を鎮祭する。
 後に永山城として日田郡代が永山布政所を置く。
 歴代の西国郡代及び代官の崇敬厚し、延享2年(1747)代官岡田庄太夫御陣屋御門前に天満宮を勧請せしも大正年間本社に合祀する。
 寛政5年(1793)西国郡代羽倉権九郎が伏見稲荷の分霊を勧請し合祀した。後世本社は、代官稲荷または権九郎稲荷とも称せられ、初午の祭祀には近郷よりの参拝特に多く御神徳、明らかなり。明治6年村社に列した。

平成18年10月吉日
宗教法人 月隈神社

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 大分県でお稲荷さんと申しますと、狐頭(こうとう)様や白川のお稲荷様、遠見塚のお稲荷様などが著名ですが、月隈のお稲荷様も著名です。こちらはお稲荷様単独のお宮というわけではありませんけれども、たくさんの幟がその信仰の篤さを物語っています。

 丸々とよう肥って、扁平な頭が特徴的な愛らしい風貌の狛犬です。特に吽形は、鼻の孔を吹き広げて口をこれ見よがしな感じで結び、失礼ながらこまっしゃくれた感じが出ていて、何とも微笑ましいではありませんか。

 阿形もまた、大きく開けた口から下がのぞき、アカチョコベとばかりにいたずら者の雰囲気が出ていて、これまた愛らしうございます。阿形と吽形、いずれ劣らぬよさがあります。

 さて、神社から天守跡へと歩を進めますと、この見事な石垣が目に入ります。月隈山(永山城址)の方々に残る石垣の中でも特に立派なものです。地震で壊れたあとの修復の仕方がよいので、まったく違和感がありません。角は切石を互い違いに積んで滑らかな曲線を出しつつ、それ以外のところは野面積です。大小様々の石を見事に組み合わせてあり、適当に重ねてあるように見えてもうまく嚙み合うています。

日露戦役記念碑

 上は広場になっています。遊具はありませんが、親子で遊んだり、ゴザを延べてお弁当を食べたりするのにもってこいの場所です。その一角には日露戦争の碑が立っています。

 

4 日田代官所

 月隈山の上の広場(天守跡)からは、日田の町を一望することができます。

 写真の中ほど、左右に花月川が横切っています。その手前の縦通りが、永山城址正面の広小路です。その左側に代官所がありました。写真に写っている橋の近くの広場には、その旨の標柱が立っています。

 川の向こう側は豆田町の旧市街です。山が七重八重に霞んでおり、新民謡「日田歌謡」の文句を思い出しました(記事の末尾で紹介します)。

 麓には、写真のような絵図が掲示されています。たいへん興味深い内容です。どの建物も、8畳とか12畳敷の広間もありますが4畳の小部屋や、7畳の中途半端な形状の部屋が目立ちます。

 

○ 俗謡「太政官節」

 この唄は日田検番で唄われた騒ぎ唄で、上津江村あたりまで流布し明治30年代頃まで近隣で非常に流行したそうです。節は二上り甚句の所謂「東京節」と呼ばれるもので、地域色の薄い旋律です。そう古い唄ではなく、せいぜい幕末以降のものでしょう。冒頭に日田ならではの文句が出てきます。2節目以下は、字脚の合う文句を自由に唄ったと思われます。

〽ハー 隈じゃ太政官、豆田じゃお鶴 塾じゃ中六とどめさす
 (トコ別嬪といちが待っちょる 行かねば腹かきゃどうするかい)
〽三味線の 駒の近所で結んだ糸は 撥さよ当たらにゃ切れはせぬ
〽盃洗の 水に浮かされさす盃は 誰が水揚げなさるやら
〽ハー あなたよかよか、わしゅ振り捨てて 何のよかろか行く末が
〽ハー せがれどこ行く、わしゅ振り捨てて 国のためなら是非がない

 1節目の文句の意味が分かりにくいと思うので、補足しておきます。「太政官」とは日田検番一の別嬪さんのあだ名で、「太政官札でも買えない器量よし」からこのように呼んだそうです。「お鶴」は豆田町一の別嬪さんの名前、「中六」は咸宜園一の美男子のあだ名です。また、囃子に出てくる「といち」というのは、「上」を分解すると「ト」と「一」になることから、「上物」「美人」の隠語として粋筋で広く使われた言葉です。「腹かく」は「立腹する」という意味です。

 

5 丸山のお伊勢様

 月隈山から歩いて行きます。お濠づたいに行ってそのまま直進し、突き当りを左折してすぐさま右折、さらに進んで花月川べりに出たところの角です。そう遠くないのですぐ着きます。境内には堂様とお伊勢様(神明様)が同居し、坪にたくさんの石造物が並んでいます。

 中央の石祠がお伊勢様です。立派なシメがかかっています。拝殿はありませんけれども、基壇を何重にもして立派にお祀りされていることから、信仰の篤さが見て取れました。昔は方々にお伊勢講がありましたから、こちらでも同様の信仰があったのでしょう。

猿田彦大神
河原街
十七人●

 庚申様としての信仰によるのか、庚申様とは別の文脈での猿田彦大神の信仰によるのか判断に迷う石塔ですが、基壇の「十七人」の文言は造立に関わった人数でしょうから、おそらく前者であろうと推量いたします。「河原街」とは地名でしょうか。ふつう、地名であれば「町」の字をつかうと思うので、よう分かりませんでした。基壇が三重でお屋根も立派な、堂々たる雰囲気の塔です。

庚申塔

 こちらは、玖珠方面で盛んに見かける「腰の曲がった庚申さん」です。日田の庚申塔は「猿田彦」の銘が多いものの、このように「庚申塔」という銘もときどき見かけます。写真を撮りませんでしたが当日、別の場所でも車窓から同様の塔を確認しました。手前に寄せてある石も、蓋し庚申塔に関連するものでしょう。

 まるでお宮の屋根を見たような、ことさらに急勾配に仕上げた笠が印象に残ります。塔身にはお恵比須様を半肉彫りにしてあり、よう肥った体が見事な曲線で表現されています。おそらく近隣の戎講に関係のある塔でしょう。台座の波模様にも注目してください。国東半島など、漁師町で丸彫りの恵比須様をときどき見かけます。でも、このように石塔の体裁で半肉彫りにしたものは珍しいと思います。

 この宝篋印塔は、慈眼山や船場の観音様(三芳地区)のものと同じように豪潮さんの塔です。笠の傷みが激しく、特に相輪が折れているのが惜しまれてなりません。塔身の梵字はよう残ります。

 茂みに隠れるように、重制石幢の幢身と思しき石造物がお祀りされていました。

 

○ 新民謡「日田歌謡」

 最後に、先ほど申しました日田歌謡の文句を紹介します。「日田歌謡」という曲名のとおり、半ば流行歌調の節回しは非常に親しみやすうございます。字脚が詰まって音引きがごく短いので、誰でも簡単に唄えます。5節目の「みやげ数々、買い頃値頃」の文句を批判する向きもあったようですが、日田の四季を唄い込んだ文句もよいと思います。最近は唄われることが少なくなりましたが、節を御存じの方は観光の折々に唄ってみてはいかがでしょう。

〽十重の山なみ二十重の霞 咲いた桜は八重一重
 春の便りを筏に乗せて 下る三隈に鳥が啼く
 日田はよいとこネ ソレ、日田はよいとこ水の郷
〽柳涼しい銭渕橋を 渡りゃ亀山に蛍飛ぶ
 紅い灯影の艶めく水に 鵜飼かがり火鮎おどる
 日田はよいとこネ ソレ、日田はよいとこ水の郷
〽紅葉濡らして時雨が晴れりゃ 虹がもえたつ花月川
 霧の盆地を黄金に染めて 五穀豊かに波が打つ
 日田はよいとこネ ソレ、日田はよいとこ水の郷
〽若い二人が伏木の峠 滑るスキーも夢心地
 なんの寒かろ天ヶ瀬泊まり 熱い情けのお湯が湧く
 日田はよいとこネ ソレ、日田はよいとこ水の郷
〽街に文化の光を添えて 松も色増す咸宜園
 みやげ数々、買い頃値頃 わけて年頃、日田乙女
 日田はよいとこネ ソレ、日田はよいとこ水の郷

 

今回は以上です。日田の記事はひとまずお休みとなります。気付いたことや考えたことなどをあれこれ申しますと記事が長くなりがちで、1本書くのに時間がかかっています。次回は久しぶりに耶馬溪方面の名所旧跡を紹介します。

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