大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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城井の名所めぐり その2(本耶馬渓町・耶馬溪町)

 前回は馬渓橋周辺の名所を少し紹介しました。今回は冠石野から柿坂まで、手元に写真や絵葉書のあるところを飛び飛びに紹介していきます。

 ところで、この地域によらず、耶馬渓の名所旧跡は桜、新緑、紅葉と、ところによって最適な時季が異なります。このブログではその点を考慮せず順々に書いていますが、実際に名勝耶馬渓を巡る際には季節と個々の興味関心に応じて、探訪ルートを工夫してください。

 

6 曽木隧道

 曽木隧道は耶馬渓線の遺構です。本耶馬渓支所を基点に説明します。国道212号耶馬溪町方面に進みまして、からあげいこ屋の角を右折します。このお店の空揚げは味がよく、しかも安価です。みなさんにお勧めいたします。

 お店の先はサイクリングロードにて自動車は通行禁止かと思えるような状況ですが、実際は車道とサイクリングロードが交叉しています。この区間については線路跡をよけてサイクリングロードが一段低いところを通っていますので、線路跡を自動車で通行できます。道なりに行けば、曽木(そぎ)隧道をくぐることになります。

 振り返って撮った写真です。ごく短いトンネルですが、その形状がいかにも鉄道のそれであり、当時の遺構として貴重なものであると考えます。なお、この附近が大字曽木(東城井地区)と冠石野(かぶしの・城井地区)の境界であり、トンネルの名称は曽木をとっているわけですが、所在地はぎりぎりで大字冠石野に入るようです。このことと、冠石野駅跡と続けて紹介したいという事情もあり、このブログでは曽木隧道を城井地区の名所として取り上げることにしました。

 

7 冠石野駅跡

 曽木隧道を抜けて道なりに行きます。冠石野部落を右に見て進めば、左に並走するサイクリングロードが桜並木になっています。ここが耶馬渓線の冠石野駅の跡地です。右側が少し広くなったところに車を停めて、折り返すように歩いていきます。

 訪ねた時季が遅すぎました。葉桜もよいものですが、もう少し花が残っているとよかったと思います。来年は満開のときに訪ねてみようと思います。

 当時のものではありませんが、このような看板を設けてくださっています。花の時季は絵になる光景が広がることでしょう。

 耶馬渓線についての説明板もあります。前回の末尾にて、平田駅跡を紹介しました。その項に出てきた説明田と同じ内容なので、引用は省きます。

 

8 賢女ヶ岳の景

 冠石野駅跡から山国川対岸を見遣れば、特徴的な山容の小山が眼前に迫ります。この山を賢女ヶ岳(けんにょがだけ)と申しまして、耶馬六十六景に含まれる景勝地です。

 この山は岩壁が屏風のように折り重なる様が見事です。しかし樹木が成長したことと、その直下に国道が開通し安全のために落石防護壁が設けられたことにより、往年の景観を損ねています。それでも、桜の枝越しに見る風景はなかなかのものです。国道を車で通るだけでは、この景の真価は分かりません。冠石野駅跡から眺めてみてください。

 説明板の内容を転記します。

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名勝耶馬渓 賢女ヶ岳の景

 賢女ヶ岳は標高250mの岩山です。耶馬渓火砕流堆積物の凝灰角礫岩からなる岩壁が、屏風を立てたような絶壁であるため九曲屏と呼ばれています。
※現在は剥落防止工が施され一部岩壁が隠れています。
 山の北側には平安時代下毛郡擬大領・蕨野勝宮守(わらびののすぐりみやもり)の邸宅跡といわれる三日月神社があり、勝宮守の死後も貞操を守った妻 子刀自売(ことじめ)が朝廷から表彰されたとの言い伝えから賢女ヶ岳の名がつきました。

平成30年3月 中津玖珠日本遺産推薦協議会

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9 岩洞山の景

 前項までが本耶馬渓町で、ここからは耶馬渓町に入ります。

 冠石野駅跡のところから橋を渡り、国道212号に出たら右折します。道なりに行って、右側に架かる次の橋をまた渡り左岸に戻ってすぐ、左側に岩屋地区公民館があります(※)。車で来た場合、公民館以外には駐車できそうな場所が見当たりません。公民館の駐車場には名所の説明板が設けられているので、特に邪魔にならないような状況なら駐車してもよいとは思いますが、もし地域の方を見かけたら一声かけた方がよいでしょう。道なりに歩けばすぐ辻に出ます。右は柚木部落、左は岩屋部落、正面が岩洞山久福寺です。久福寺の後ろはものすごい迫力の岩山で、この風景が岩洞山(がんどうざん)の景として耶馬六十六景に含まれています。全体の風景は、先ほど申しました辻を一旦左に進んだところから眺めるとよいでしょう。

※自転車の場合、冠石野駅から橋を渡らずにサイクリングロードを通って左岸を行った方が簡単です。

 何度訪れても、そのたびに圧倒されます。耶馬渓景勝地には岩山の風景はざらにありますけれども、岩洞山の景の岩壁は遮るものがほとんどありませんので、その迫力が際立っています。右下に写っているのが久福寺の本堂、その左は円通洞(樹木に隠れています)と呼猿窟という2つの岩屋が並んでいます。岩山の頂上は補陀落岩と申します。これらが岩洞山の景を形づくっています。人里にありますのにまるで仙郷に迷い込んだような、特異なる景観ではありませんか。古羅漢、羅漢寺祇園洞、競秀峰、天岩戸、鶴ヶ原など、耶馬渓には自然地形と各種信仰が結びついた名所がたくさんあります。こちらもそのひとつであり、耶馬渓を観光する際には必ず立ち寄るべき名所中の名所です。

 

10 岩洞山久福寺

 さて、岩洞山の景を眺めたら久福寺に参拝し、各種文化財を見学しましょう。なだらかな参道を歩けばすぐ着きます。

 道順が前後しますが、岩屋公民館の駐車場にある説明板の内容を転記します。

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名勝耶馬渓 岩洞山の景と岩洞山久福寺

 岩洞山の景は凝灰角礫岩などからなる岩峰(補陀落岩)、岩洞(呼猿窟・円通洞)の景で、岩峰が観音菩薩の立ち姿に見えることから呼ばれる補陀落岩と崖下にある寺の伽藍、岩肌を覆う岩生植物が特徴です。
 崖下の岩洞山久福寺は、霊亀2年(716・奈良時代)に仁聞菩薩が自作した聖観音を岩洞山補陀窟に安置し、僧法蓮が開山したと伝わります。のちに羅漢寺の末寺として中興され曹洞宗寺院となりました。岩洞・呼猿窟内の観音堂には平安時代制作の木造大日如来坐像が安置されています。頭から腰までを一本の大木から彫刻した、一木造という技法で作られています。
 円通洞には平安時代下毛郡擬大領で久福寺開基の蕨野勝宮守と妻の子戸自売の墓が祀られています。子戸自売は夫の死後も貞操を守った賢女として『日本後記』にも記されており、本堂には嘉吉元年(1441・室町時代)造像の木造薬師如来坐像とともに、同年代制作の2人の木造位牌が安置されています。久福寺には上記の仏像2躯と位牌のほか、室町時代の造立と推測される久福寺門前宝塔も中津市有形文化財に指定されています。

中津玖珠日本遺産推進協議会

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 仁聞菩薩と申しますと国東半島の方々で耳にするお名前です。遠く離れたこの地においてもその伝承があるとは驚きました。

 参道石段のところには別の説明板があります。先ほどの説明内容の補足として、こちらも転記しておきます(より読みやすいように少し改変しました)。

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勝宮守と子戸自売の墓
 勝宮守は、天長年間下毛郡擬大領(郡の長官)として蕨野(本耶馬渓多志田)に住し、巖洞山久福寺を開基した人物である。天長4年(827)丁未10月18日に寺を創建した。
 妻の子戸自売は15歳で勝宮守と結婚し、日本後記にて名を知られた賢女で、夫の死後はひとりで空房を守り48歳にてついに世を去った。
 墓は、境内左手の円通洞と称される岩窟の中にある。
(昭和53年12月1日指定 有形文化財

久福寺門前宝塔
 久福寺門前の岩の上に建っており、石造で見た目にも優美で、全体的に整った形をしている。推定で、室町時代末期の造立と思われる。
 総高150cm、基礎は三重の一石、塔身は茶壺型、屋根は照屋根で軒先二重、相輪の請花は単弁の8弁で宝珠と火焔はない。
(昭和50年1月10日指定 有形文化財

中津市教育委員会

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 こちらが説明板にあった、門前の宝塔です。岩こぶの上に立っているので、実際以上に大きく立派に見えます。宝珠と火焔は、欠損しているというよりはもともとこの造形であったのかもしれません。確かにすこぶる優美な造形であり、古羅漢の国東塔などに比肩する名品であるといえましょう。しかも、周囲の景観ともよう馴染んでいます。

 見学したら石段を上がって、本堂に参拝します。境内は狭いながらも整備が行き届いており、季節の花々を楽しむことができます。左に進んで、崩れかけた石畳の通路を上ります。雨上がりは滑りやすいので注意を要します。

 通路の右側には石積みにて平場を設けて、崖下には法華経千部供養塔をはじめ五輪塔などの石造物が寄せられています。見学して、さらに進みます。

 手前が円通洞、奥が呼猿窟です。進むほどに鎖渡しのようなホキ道の様相を呈してきます。鎖などありませんので、気を付けて歩くしかありません。足がかりはしっかりしていますから、用心すれば問題ないでしょう。

 それにしても、呼猿窟におさまった堂様は懸造の様相を呈して、なかなかのものであると存じます。

 こちらが円通洞の中です。勝宮守と戸自売の墓碑は宝篋印塔の右隣の2基で、その外側の宝塔は夫々の供養塔ではあるまいかと推察いたしました。宝塔は、笠から上が左右で異なります。おそらく向かって右の笠・相輪が元々のものでしょう。宝篋印塔も両者の供養塔としての造立でしょうか。また、手前には狛犬も安置されています。近隣から移されたものでしょう。

 円通洞の中には、かつて木造の堂様が建っていたそうですが、耶馬渓線の汽車の煤煙による火事で焼失したとのことです。確かに沿線ではありますけれども線路ぎわというわけでもありませんので、本当にそのようなことがあるのかと疑問に思いました。でも、調べてみると、実際に蒸気機関車の煤煙からの飛び火で藁ぶき屋根の家が火事になった等の事例が各地で発生したようです。技術の幼稚な時代には、機関車の煙突から火の粉が散らないようにする設備が不十分であったのかもしれません。大分県では、日豊線が延伸してきたとき、また国東線や耶馬渓線などの開業のとき、沿線の方々で火災や農作物への被害などを懼れる声が出たそうです(反対運動により路線変更がなされたこともありました)。その背景には、他県における同様の事例が新聞記事等で話題になっていたということもあるのかもしれません。

 呼猿窟からは中村や町丈、戸原方面の展望が開けます。

 

11 岩屋の庚申塔

 久福寺から参道を後戻り、石段を下りたところから右に分かれる農道を進んだ先に庚申塔が立っています。当日、たまたま見つけました。

 農道の行き止まりに柿の木が1本あります。そのねき、崖口に2基の塔が立っています。

 このように、本当に崖っぷちに立っています。しかも両方とも田んぼの方を向いて立っていますので、銘の確認は困難を極めました。

庚申塔

 片方は、どうにか身を乗りだしてやっとの思いで銘を確認しました。確かに庚申塔で、安永年間の紀年銘があります。もう1基は銘の確認ができませんでしたので、庚申塔かどうか分かりまん。しかし、立地から考えるとおそらく庚申塔でありましょう。

 

12 口ノ林の八坂神社(御霊もみじ)

 公民館まで戻ったら、車に乗って久福寺下の辻を左(道なり)に行きます。中村部落を抜けると平田城址の登り口に出ます。この辺りは前回紹介しました。馬渓橋を渡って国道に出たら右折します。しばらく進んで大字戸原は口ノ林部落のはずれ、ライスセンターの並びに「御霊(ごりょう)もみじ」の大きな看板が立っていますので、その角を左折すれば駐車場があります。

 八坂神社の境内には椛や楓などいろいろな樹木が育っており、それらがいろとりどりに紅葉しますので11月中旬から下旬にかけて、紅葉狩りを兼ねた参拝者の絶え間を知りません。もちろん新緑の時季もようございますが、秋がいちばんです。 

 正面参道は急な石段で、しかもけっこうな長さがあります。側に迂回路の坂道がありますので、石段を通る方は少ないようです。紅葉の時季には傾斜地のいちめんが赤や黄、唐紅の風情で、それはもう見事なものです。特に夕方に訪れますと別天地の感があります。

 駐車場にある説明板の内容を転記しておきます。

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御霊もみじ

・八坂神社について
 当神社の正式名称は、八坂神社と申します。ご祭神は素戔嗚尊で、建立時期などの由緒は未詳ですが、明治時代、字ごとに建てられていた神社を合祀(合併して御奉りする)して現在に至っています。

・御霊神社について
 天正17年、中津城黒田官兵衛孝高、長政父子により豊前国築上郡城井郷の城主 宇都宮鎮房が謀殺されてしまいました。宇都宮氏の死を知った12人の侍女たちは、老臣 池永左衛門等の計らいにより、この口の林まで落ち延び隠れていましたが、黒田勢の追手により捕えられ、命を落としたという痛ましい出来事が残っています。
 現在の神社より北に110mほど離れた山国川沿いに侍女たちを葬った塚(姫塚)があります。また、当時の人々は、この出来事を憐れみ御霊を慰めたとあり、それが御霊神社の始まりです。

・耳祈願 善神王様
 善神王様(「ぜんじんおうさま」の読み方がなまり「ぜぜんのうさま」に変化したと思われる)は、文政年間(1818年~1829年)、頼山陽と親交のあった吉武久兵衛氏が耳の病気を患い、太田宮司(城井八幡社)に依頼し、大分の賀来神社より御分霊をいただき御奉りしたのが始まりとされています。
 その後も耳の通りがよくなるよう祈願する際に、竹の節にキリで穴を空けたものを歳の数だけ束ねて奉納するようになり、耳の神様として広く信仰されています。

耶馬渓御霊もみじとして景勝地となる
 秋には目にも鮮やかな御霊もみじが境内を彩ります。村人である平岡藤次郎氏らが、八坂神社の仮御殿にあった紅葉の木に五色の苗木を接木し、本殿に植えたのが御霊もみじの始まりとされています。

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 ちょうど、参道石段に銀杏が散り敷いていました。落ち葉の石段はよう滑ります。もしこちらから上ってきた場合にも、帰りは坂道経由の方がよいでしょう。

 本殿は2つのお社が横並びにて、大きな鞘堂の中に納まっています。紅葉の時季は賑わいますがそれ以外の時季はしんと静まり、神聖な雰囲気が漂います。合社記念碑等を確認するのを忘れてしまいましたので、秋になったらまた参拝に行き、経緯等を調べてみようと思います。

 紅葉のもっともよい時季は、あっという間です。わたしは紅葉狩りが好きで毎年秋になると方々に出かけますが、行ってみたらちょっと早かった、遅かったなどと悔やむことの方が多い気がいたします。幸いにも耶馬渓の紅葉は例年、裏耶馬渓は11月上旬から始まり、競秀峰あたりは1下旬になってからですから、ひとまず11月のうちに行って広域的に名所旧跡・景勝地を巡れば必ずどこかで、見ごろの紅葉に行き当たるという算段です。御霊もみじの見ごろは、裏耶馬渓立羽田の景など)や深耶馬渓(折戸の景、一目八景など)よりも1週間ほど後になることが多いように思います。

 秋の耶馬渓はほんによいものです。岩峰群や渓谷の景勝地探訪、史跡や文化財の見学、神社仏閣めぐりなどのコースを考えて方々を巡れば、否応なしに紅葉狩りをすることになります。

 

13 昔の大屋敷の景と第二山国川橋梁(絵葉書)

 八坂神社をあとに、国道を柿坂方面へと進みます。右側にカーブをとった橋がかかっており、これが耶馬渓線跡の第二山国川橋梁です。今はサイクリングロードに転用されています。先の大水害で一部が流出しましたが、違和感のない見た目に復元されました。この辺りの国道側の山の風景を大屋敷の景と申しまして、津民耶馬渓に含まれます。この風景を楽しみたい場合、車内からではよく分からないので一旦通り過ぎて、右側の駐車場に車を置いて歩いて戻り橋の上から眺めます。ここでは絵葉書を掲載して、昔の風景を紹介します。

 大屋敷の景は、今は樹木が茂って本来の景観がやや損なわれています。昔の絵葉書を見ますと、荒々しい岩山の様子がよう分かります。また、サイクリングロードに転用された現在の第二山国川橋梁もなかなかのものですが、やはり現役時代の橋は一味違います。ここを汽車が通る様子はさぞや絵になったでしょうし、まして汽車に乗って渡れば、通り過ぎるのは一瞬であっても道中のハイライトであったことでしょう。

 

14 昔の柿坂道(絵葉書)

 つづいて、昔の柿坂の風景の絵葉書を掲載します。具体的に柿坂のどのあたりかは、定かではありません。

 耶馬溪の絵葉書の中では、これがいちばん気に入っています。オーバーハングした岩壁の直下の道路は、歩くだけで胆が冷えそうです。けれども地域の方と思しき2人の婦人はこともなげに、大きな荷を下げた天秤をかたげて歩いています。着物に姉さんかぶりで、じょうりをはいて歩く姿を見かけることはもうありません。耶馬渓の絵葉書は山水の美を紹介するものが多く、そこに生活感は感じられないものが多い中で、この絵葉書には人々の暮らしが感じられるという点で貴重なものであると言えましょう。

 

○ 城井地区の盆踊りについて

 城井地区は盆踊りの盛んなところで、初盆の供養踊りはほとんどの部落で行われています。昔は初盆の家を門廻りで踊りましたが、今は寄せ踊りになっています。供養踊りのほかにお観音様の踊り、十夜様、寺踊りなど一夏に数回輪を立てるところも珍しくありません。盆口説に合わせて踊る昔ながらのスタイルで、柿坂では太鼓を使い、それ以外の地域では太鼓すら使いません。音頭さんの口説に、踊りながら囃子をつけ、手拍子足拍子で調子を揃えていろいろな演目を次から次に踊ります。

 踊りの種類を申しますと「千本搗き」「祭文」「三つ拍子」「トコヤン(鯖ん寿司)」「小倉」「マッカセ」「博多」「さっさ」「六調子」等ありまして、下郷地区ほどではありませんけれども多種多様な演目が残っています。これらの中から、6~7種類程度を踊っています。昔は「米搗き」「思案橋」「キョクデンマル」等も踊っていました。たくさんの踊りのうち、「さっさ」は手数は少ないながらも非常に優美な所作で、音引きの多い音頭の節もまたよく、ところの名物といえるものでした。ところが踊りが揃いにくく、今はトンと下火になっているのが惜しまれます。簡単な「千本搗き」「祭文」「三つ拍子」「トコヤン」などは、どこでも盛んに踊っています。

 おもしろい唄も多いので、この地域の盆踊り唄をいくつか記しておきます。

「千本搗き」大字柿坂
〽あーら嬉しや坪借りました(ハーアレワイサッサー コレワイサ)
 みんなどなたもヨ しっかりしゃんと踊れヨ
 (アー揃うた揃うたよ足拍子手拍子よ アレワイサッサーコレワイサ)
 ホイ(ヨーイトナ)
〽盆のナー 踊りも由来がござる(ハーアレワイサッサー コレワイサ)
 昔ナー 古事記の御釈迦の時代ヨ
 (ヨーイトセーノ ヨーイヨナ
  アレワイサッサー コレワイサ) ホイ(ヨーイトナ)
〽釈迦のナー 御弟子の数ある中に(ハーアレワイサッサー コレワイサ)
 あるがナー 中にも目連尊者ヨ
 (アー御弟子の目連尊者よ
  アレワイサッサー コレワイサ) ホイ(ヨーイトナ)

「千本搗き」大字平田
〽東西南北おごめぬなされ(アーアレワイサー コレワイサ)
 しばしナーワ 間は坪貸なされヨ
 (ヨーイトセーノ ヨーイヤナ
  アレワイサーコレワイサ ヨーイトナ)
〽坪は借りても持ちては行かぬ(アーアレワイサー コレワイサ)
 踊りナーワ 終わればすぐさま返すヨ
 (ヨーイトセーノ ヨーイヤナ
  アレワイサーコレワイサ ヨーイトナ)

「祭文」大字柿坂
〽やろな
 やりましょな祭文のやろなコラサイノサイ(アヨイショヨイショ)
 どうでナーヨー 祭文な気の浮く踊り
 (ソラヤレ ソラヤレ ヤートヤーソレサ)
〽わしが
 みたよな不調法なガキがコラサイノサイ(アヨイショヨイショ)
 流しナーヨー かかりてもし流れずば
 (ソラヤレ ソラヤレ ヤートヤーソレサ)
〽先の
 太夫さんにゃそのまま返すコラサイノサイ(アヨイショヨイショ)
 合うかナーヨー 合わぬか合わしておくれ
 (ソラヤレ ソラヤレ ヤートヤーソレサ)

「マッカセ」大字平田
〽マカセ 踊りを習いたきゃござれ(マッカセマカセ)
 わしがコリャ 世話して(ヨイヨイ) ソラ教えましょ
 わしが世話して
 (ヨンデ教えましょ
  ヤットハレハレ ナントドッコイドッコイ)

「三つ拍子」大字柿坂
〽河童祭りの音頭のよさよ コラマー
 山の河童もナント勢ぞろい(アヤンソレナー ヨーイヨイ)

「六調子」大字柿坂
〽みんなどなたも踊りておくれ(アーヨーヤーセ ヨヤーセ)
〽合えば義経千本桜(アーヨーヤーセ ヨヤーセ)
〽合わにゃ高野の石堂丸よ(アーヨーヤーセ ヨヤーセ)

「小倉」大字柿坂
〽小倉言葉でお寄りなれ来なれ(ソラヨイヨーイ ヨイヤサノサ)
〽アラ小倉踊りは気の浮く踊り(ソラヨイヨーイ ヨイヤサノサ)

「トコヤン」大字柿坂
〽ちょいと待ちなれ 姉さん 手叩き踊りヨ
 (トコヤン ソラヨイヨイ)
〽今夜よい晩 ドッコイサン 観音さん踊り
 (トコヤン ソラヨイヨイ)

「米搗き」大字柿坂
〽さいたからかンアーさ 柄漏りがヨ(ショイショイ)
 アーすれどノンホードッコイサー
 (あなた一人ンイーは濡らしゃせぬ)
 ほんによう言うた よう言うたヨ(ショイショイ)
 アーあなたノンホードッコイサー
 (あなた一人ンイーは濡らしゃせぬ)

「さっさ」大字平田
〽一つヨホホー 出します はばかりヨホホ(コリャコリャ)
 ヨホホンホーながら(サッサ)
 ヤーコラサノサー 唄の チョイト 唄のヨーホホホイ
 (文句はヨー 知らねども)
〽唄のヨホホー 文句は よんべこそヨホホ(コリャコリャ)
 ヨホホンホー習うた(サッサ)
 ヤーコラサノサー 唄の チョイト 唄のヨーホホホイ
 (しまえぬヨー 夏の夜にゃ)
〽踊りヨホホー 踊るなら お寺のヨホホ(コリャコリャ)
 ヨホホンホー庭で(サッサ)
 ヤーコラサノサー 踊る チョイト 踊るヨーホホホイ
 (かたでにヨー 後生願う)
〽後生はヨホホー 願いなれ お若いヨホホ(コリャコリャ)
 ヨホホンホーとても(サッサ)
 ヤーコラサノサー 時は チョイト 時はヨーホホホイ
 (きらわぬヨー 無常の鐘)

「博多」大字柿坂
〽博多騒動米市丸は(ハヨイトサッサ)
 剣の詮議に身をはめた 剣の
 詮議にサッコラサノ身をはめた(ハヨイトサッサノヨイトサノサ)
☆博多米市千菊連れて(ハヨイトサッサ)
 刀詮議に身をはめた 刀
 詮議にサッコラサノ身をはめた(ハヨイトサッサノヨイトサノサ)

 

15 昔の擲筆峯の景(絵葉書)

 大屋敷の景を過ぎて、柿坂の中心部に入ります。耶馬渓支所のところに「擲筆峯の景」の標識がありますので、それに従って右折し川原に出たら、川向いがかの頼山陽のエピソードで名高い打筆峯(てきひっぽう)の景です。津民耶馬渓に含まれます。今もよい景色が見られますが、川の様子が変わり昔の景観が損なわれたとの声も聞きます。ここでは昔の絵葉書を掲載します。

THE MOST BEAUTIFUL SCENE OF "TEKIHITSUHO" PEAK, YABAKEI.
耶馬溪)蒼巌の奇峯老松を負うて碧潭に臨み詩人山陽をしてその絶景に驚嘆せしめたる擲筆峯

 岩壁、川、松の木などがバランスよう調和した景勝であることは分かりますけれども、白黒の絵葉書ではその真価が伝わりにくいようにも思います。今は観光客が立ち寄ることは稀になっているようですが簡単に行き着く場所ですし、この絵葉書の様子とは少し違ってきてはいますけれども、よい風景であることに変わりはありません。近くを通るときにでも立ち寄ることをお勧めします。

 

今回は以上です。城井地区のシリーズは、写真のストックがなくなったので一旦お休みとします。次回は西大野地区の記事を書きます。

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