大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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新田の名所めぐり その1(三重町)

 このシリーズでは、三重町のうち新田(あらた)地区の名所旧跡をめぐります。当地区は大字玉田・本城・小田・久田からなります。有名な観光地はありませんが、下玉田の子安観音様が昔から近隣在郷の信仰篤く、香華の絶え間を知りません。また、石幢をはじめとする石造文化財が豊富です。まだほんの少ししか訪ねていないので十分な内容の記事が書けません。ひとまず写真のある分を「その1」として記録しておき、ある程度写真がたまり次第「その2」「その3」と進めていこうと思います。これからの探訪が楽しみな地域のひとつです。

 

○ 新田地区の盆踊りと小松明について

 新田地区では、かつては部落ごとに供養踊りをしていたと思われますが、今は地区全体が合同で、盆明けに小学校のグラウンドで踊っています。大きな輪が立ち、たいへん賑やかです。現行の演目は「由来(三重節)」「祭文」「お夏」「二つ拍子」の4種類で、最後の「二つ拍子」では踊り方をそのままに、途中から音頭だけ「切り上げ」に変わりますので、口説の節は5種類ということになります(昔は「三勝」なども踊っていたようです)。盆口説と太鼓が虫の音すだく夏の夜に響き渡り、ほんによいものです。4種類の踊りの中で主となるのは「由来」で、これは16足の佐伯踊りです。なかなか難しい踊りなのですがさすがに慣れたもので、よう揃います。

 盆踊りの晩には、近隣の道路や畦の一面に小さな松明を立てまして、時間になると一斉に火を点します。冒頭の写真は、数年前に新田小学校のところで撮影したものです。このような行事を小松明(こだい)と申しまして、本来は虫送りの行事です。農薬の普及する以前は害虫駆除(主にいなご)が大問題で、類似する行事が昔はあちこちで行われていました。今は、虫送りのおまじないというよりは、地域のレクリエーションとしての位置づけであろうと思います。大野地方はこの種の行事がよう保存されており、町内では菅尾地区でも「菅尾石仏火祭り」の際に行われているほか、緒方町では非常に盛大に行われており観光宣伝もなされています。部落内で小規模に行う事例は朝地町ほか方々で見かけます。観光主体の行事であっても子供会等の夏のイベント行事であっても、昔の年中行事を伝え残すのは立派なことだと思います。

 

1 地蔵院跡の石幢

 地蔵院跡は大字秋葉と大字本城の境界あたりで、豊後大野市のウェブサイトを見ますと所在地が「大字秋葉」となっているのですが、その立地・道順を考えますと大字本城の側と思われましたので、新田地区のシリーズで紹介することにしました。

 2基の石幢のうち片方は県指定の文化財です。ところが行き方がなかなか難しく、周囲が荒れ気味になっています。三重庁舎から牧口方面に進み、「白山渓谷」や「稲積水中鍾乳洞」の標識を目印に左折して県道718号に入ります。左に田んぼを見ながら進み、羽飛部落(大字秋葉のうち)を過ぎますと緩やかな上り坂にかかります。右カーブして、電信柱のところから左に分かれる簡易舗装の道に入ります。この道は軽自動車でもぎりぎりの幅しかなく、転回もできませんから車では入らない方がよいでしょう。当日、間違って車で入って奥まで行ってしまい、後退に難渋しました。

 細道に入ってほどなく、左側の道路端に文化財の標柱が立てかけてあります。これを見落とさないようにします(お墓のところの分岐よりも手前です)。標柱のところから段差をよじ登りますと、右上には古いめいめい墓があります。そのお墓の方には行かずに、概ね平坦に奥へと進んでいきますと石幢が見えてきます。地蔵院がいつ頃廃されたのか定かではありませんけれども、礎石など建物の痕跡は見当たりませんでした。藪に埋もれているのかもしれません。

 このように、単制の石幢と重制の石幢が隣接して立っています。文化財に指定されているのは重制のみですが、単制石幢も立派なものではありませんか。

 笠の傷みが惜しまれます。ほかはそれなりに良好な状態を保っています。宝珠の形がよいし、四面の梵字がくっきりと残っています。紀年銘は見当たりませんでした。

 こちらは傷みが少なく、ほぼ完璧な状態で残っています。この立地にあっては驚異的な保存状態です。宝珠には細やかなお細工が施されています。饅頭型の笠は内刳りを深くとり、中台との径の差が極端に近います。このような造りは、臼杵方面でもよう見かけます。幢身は若干中膨れになり、どっしりとした雰囲気が感じられます。総高2.5m、大型であるうえに全体の調和がようとれた、秀作といえましょう。

 私には全く読み取れなかったものの、豊後大野市の説明によれば幢身に銘文がある由、その内容から衛藤主計允が月叟(地蔵院の院主)の逆修のために建てさせたものとであり、紀年銘は見当たらないものの、室町時代後期頃の造立と考えられるとのことです。

 龕部には六地蔵様と二王様を彫ってあります。細部にわたってすこぶる良好、これほど状態のよい龕部はそうそう見かけません。石材の質や、大きな笠で守られていることなど、諸々の条件が揃えばこそのことでしょう。お地蔵様の足元の蓮の花をご覧ください、花弁の重なりの立体的な表現が見事なものです。お顔の表情、体の線など何もかもが優しそうな雰囲気で、それに見合うた彫りと申しますか、角を立てずない彫り口で処理してあります。それに対して光輪などは、彫り口が角ばっています。二王様も、御座の表現から杓をとる腕の形から、よう整うています。お顔をことさらに大きく表現してあるのもまたよいと思います。

 

2 深田の石幢(県道わき)

 地蔵院跡をあとに、県道を進みます。坂道を下り切る手前、深田部落のかかりに石幢が立っています。道路左側で、車から見えるのですぐ分かると思います。

 周囲の草が伸びてきており、季節柄マダニ等の被害が懸念されましたので近寄ることは控えました。どうも幢身が半ば埋もれているようです。しかし残部の規模から推して、元々はそれなりに高さのあるものであったと考えられます。笠が大きく破損しており、龕部の像も風化摩滅が目立ちます。こちらは文化財に指定されておらず、詳しいことは何も分かりません。深田の中の細かい地名が分かりませんでしたので、項目名としては一応「県道わき」と付記しました。

 

○ 盆口説「炭焼小五郎」

 真名野長者伝説は、大分県に数多く伝わる昔話・民話の中でも特に著名なものです。その壮大かつ夢のある内容は、今なお人々の心を惹きつけています。盆口説にもなり、大野地方一帯から南海部方面で口説かれているほか、遠く国東方面でも耳にしたことがあります。

 三重町はのちに真名野長者と呼ばれた小五郎さんの里で、新田地区のうち玉田部落はそのお父さんの里です。今後、内山観音をはじめとして真名野長者伝説に関係のある名所旧跡が記事の中に出てくると思いますが、長い口説なので短い記事に載せる方がよいと思い、今回紹介することにしました。一応、三重町を代表する唄として「由来(三重節)」の囃子をつけて紹介しますが、実際には「三勝」「風切り」「銭太鼓」などいろいろな節に乗せて、方々で口説かれています。

盆踊り唄「由来(炭焼小五郎口説)」
〽扇エー めでたや アラ末広がりて(ドッコイセーコリャセ)
 エー 鶴はサー千年 亀万年と(サンヤートセーイ その調子)
 ※以下囃子同じ
〽祝い込んだる炭窯の中 真名野長者の由来を聞けば 夏は帷子冬着る布子(ののこ) 一重二重の三重内山で 藁で髪結うた炭焼小五郎 自体小五郎は拾い子なれば どこの者やら氏筋ゃ知れぬ 氏が知れねば奥山住まい もとの氏筋調べてみれば 父は又五郎玉田の育ち 姫の氏筋尋ねて訊けば 氏も系統も歴々知れた 都大内久我大納言 大納言とも呼ばれし人の 一人娘の玉津姫よ 何の因果か悪性な生まれ 広い都に添う夫(つま)がない 夫がなければ三輪明神に 七日七夜の断食籠り 六日籠りてその次の晩 夜の九つ夜中の頃に 六十余りの老人様が 姫よ姫よと二声三声 姫は驚き夢をば覚ます 姫よよう聞け大事なことよ そなた一代連れ添う夫は ここにゃないない都にもない 下に下りて九州や豊後 九州豊後や臼杵の奥で 夏は帷子冬着る布子 一重二重の三重内山で 藁で髪結うた炭焼き小五郎 これがそなたの連れ添う夫よ 云えば姫君打ち喜んで 神の御殿を急いで下る 急ぎゃ程なく我が家へ帰り 急ぎ急いで旅装束よ 手ぬき手ぬぐい水掛脚絆 足に草鞋で背には油単 小判四十両肌にぞ付けて 笠にゃ同行二人と書いて 三節込めたる寒竹の杖 急ぎ急いで旅路にのぼる 人に恥ずかし我が身に嬉し 嬉し恥ずかし尋ねて下る さして行く手は九州豊後 伏見街道は夜の間に下り 出でて来たのが大阪城下 大阪川口便舟探し 九州下りの便舟に乗り 舟を出したが日の出の頃よ 舟は新造で帆は六反で 船頭一人で水夫三人よ 潮は連れ潮風ゃまとも風 追風(おいて)よければ帆を巻き上げりゃ 男波女波が船べり叩く ここはどこよと舟子に問えば ここは一ノ谷敦盛様の 御墓所があな愛おしや またも急いで明石に下る ここはどこよと舟子に問えば ここは明石の舞子が浜よ あれに見ゆるが淡路の島よ 播磨灘さよ波穏やかで 心のどかな舟路の旅よ あれに見ゆるが小豆が島で 急ぎゃ程なく水島灘よ 阿伏免観音拝みを上げて 旅の安全御加護を祈り 瀬戸の島々左右に眺め 舟は急いで川尻過ぎりゃ 音に聞こえし音戸の瀬戸よ 瀬戸の連れ汐まともに受けて 着いた所がここ上関 上関にて汐がかりする 汐の淀みに碇を巻いて 舟は急いで姫島に着く 沖は荒波風待ちなさる そこで姫君陸には上がる 姫ヶ島にて紅カネ着けりゃ 花も恥らう美人に変わる 鏡代わりに覗いた井戸が 今の世までも姫島村に 七つ不思議の一つで残る 風もおさまり舟出をなさる 着いた所は府内の城下 またも急いで臼杵に下り 城下外れの宿屋に泊まる そこで姫君四五日逗留 宿の亭主や近所の人に 道の様子を細かに訊いて 今日は日が善い御山に登る 山の峰々また谷々を 都育ちの慣れない足に 杖を頼りにようやく越ゆる 山の麓で草刈る子供 そこで姫君物問いなさる もうしこれいな子供衆さんよ 一重二重の三重内山で 藁で髪結うた炭焼き小五郎 どこが住いか教えてたもれ 云えば子供の申せしことに よそのおばさんあれ見やしゃんせ はるか彼方が三重内山よ 雲にたなびき煙が見ゆる あえが炭焼き小五郎の住い 云えば姫君打ち喜んで 杖を頼りに煙が見ゆる 急ぎ急いで御山に登り 山の峠で山師に出会う そこで姫君物問いなさる もうしこれいな山人さんよ これなお山で炭焼く小五郎 どこの住いか教えてたもれ 云えば山人申せしことに これなお山で炭焼く人は 他にゃないない私が一人 小五郎さんとは私がことよ 云えば姫君打ち喜んで さても嬉しや妻御が知れた 小五郎さんなら私の夫よ そこで小五郎が申せしことにゃ 一人すぎさえ出来ないものを 二人すぎとは思いもよらぬ 御免なされと袖振り放す 姫は泣く泣く小褄にすがり あなた嫌でも出雲の神が 結び合わせたご縁でござる どうか子細を聞かれて給え 云えば小五郎が不憫に思い 何はともあれ夕暮れ時に 外に人家もない山里で 心細かろ難儀であろう 今宵一夜の宿貸しましょと 姫を連れ立ち住いへ帰る 萱の庵の柴戸を上げて さあさお入り都の姫よ 粥を煮立てて夕餉をすませ 炉端挟んで四方山話 そこで姫君物やわらかに 神のお告げや身の上話 一部始終を細かに語る 縁は異なもの一夜の宿が 二世を誓うて夫婦の契り 一夜明くれば夫と呼ばれ 妻と呼ばれてうら恥ずかしや そこで姫君申せしことにゃ もうしこれいな小五郎さんよ 二人すぎでは立たぬと言うたが 二人すぎする用意もござる 肌に付けたる小判を出して 城下下りて米買うてござれ 米がわからにゃ麦買うてござれ 麦がわからにゃ粟買うてござれ それを知らねば手代に任せ 一分小判を肌には付けて とんで行く行く野山の道で 左小脇に小池がござる 小池中にはおし鴨番 そこで小五郎が思いしことにゃ あれを打ち取り都の姫に 今宵夕餉の土産にせんと あたり近所を見回すけれど 取りて投げそな小石もないよ 肌に付けたる小判を出して とんとすとんと投げたる途端 鴨は舞い立つ小判は沈む 行くに行かれず我が家へ帰り 我が家帰りて都の姫に 右の子細を細かに語る 云えば姫君打ち驚きて さても愚鈍な我が夫様よ あれはこの世の世渡る宝 あれが無くてはこの世が立たぬ 云えば小五郎がにっこと笑い わしが炭焼くあの谷々にゃ 山の山ほどござんすしゃんす 聞いた姫君打ち喜んで 明日は日が善い金見物よ 銚子盃袂に入れて 急ぎゃ程なく新黒谷よ ここが良かろと茣蓙打ち広げ お酒飲む飲む金見物よ あれに見ゆるが大判小判 これに見ゆるは一分や一朱 聞いて小五郎は打ち喜んで 二人連れ立ち我が家に帰る 千駄万駄の駄賃を雇い 拾い寄せたるその金銀を 朝日輝く夕日の下に 鶴は千年亀万年と 祝い納めて長者の門出 その日暮らしの小五郎さんが 屋敷求めて家倉建てる 四方白壁八つ棟造り 庭に泉水築山造り 朝日さすさすヤレ朝日さす 黄金千倍また二千倍 七つ並べがまた七並べ お前百までわしゃ九十九まで 共に白髪の生えるまで 真名野長者と世に仰がれて 語り伝わる今の世までも

 この口説では、真名野長者伝説の冒頭までで終わっています。物語自体はこの先も長く続きます。

 

今回は以上です。次回は白山地区に移ります。石造文化財景勝地がたくさん出てきます。

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