大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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新田の名所めぐり その2(三重町)

 今回から2回続けて、新田地区のシリーズの続きを投稿します。記事の分量の都合上、掲載の順番が道順どおりになっていません。その1の内容もあわせてご覧いただき、実際に訪れる際には適宜コースを工夫してください。

 

3 深田の熊野社(御旅所)

 市場交叉点から、国道502号を牧口方面に進みます。アステムのところの十字路(信号機あり)を左折して少し行けば二股になっており、その右手に深田公民館があります。公民館の前には「熊野社」の鳥居がありますが、社殿はありません。この道を進んでいったところの右側に熊野社が鎮座しておりますので、こちらはその御旅所であろうと推量いたします。地域の方による環境整備が行き届いています。

 二股の間のところに、素晴らしく立派な石灯籠が立っています。このように大きい灯籠、常夜灯とでも申しましょうか、このような石造物をときどき見かけますけれども、実際に火を入れるときはどうするのでしょうか?

 この灯籠の近くには庚申塔もあります。通りがかりにでも簡単に見学できます。

 

4 深田の石造物(公民館前)

 公民館のすぐそばに、石仏や庚申塔がお祀りされています。一応別項扱いにしましたが、実際には前項と一続きの場所です。

 こちらは公民館の並び、道路端の一角です。中央の石塔の銘は「法華石書塔」で、これは「大乗妙典一字一石塔」と同じ意味です。その両側には大小さまざまの仏様(おそらくお地蔵様)が丁重にお祀りされています。波板の囲いと屋根は佐用美代子さんの寄進によるものです。

 先ほど紹介した石灯籠の並びには、8基程度(※)の庚申塔が並んでいます。全部文字塔で、銘が読み取れなくなったものや破損したものも目立ちます。この中から数基紹介します。
※ 半ばで折れたものを並べて安置してある場合もあれば、残欠がそれぞれ別の塔のものである場合もあると思います。判断に迷う状況にて、多少の数え間違いがあるかもしれません

<奥の残欠>
文政(以下破損)
梵字 庚(同)
●●(同)

<手前の残欠>
(破損)化十年
(同)待庚申塔
(同)癸酉四月十三日

 この2基は銘の状態がわりあい良好で、特に手前のものなどバランスも優れているように思います。それだけに壊れているのが惜しまれます。写真にも写っていますが、宝篋印塔の部材も見受けられました。すぐ後ろには先ほど申しました一字一石塔や仏様がお祀りされています。もしかしたら、この場所には昔、堂様があったのかもしれません。または、神仏習合の名残でしょうか。

 上端が破損していますが、塔全体の形状としては最も傷みが少ないものです。梵字はどうにか分かります。その下の方に「申」の字が微かに読み取れた気がして庚申塔であろうと判断しましたが、私の見間違いかもしれず、庚申塔でない可能性もあります。いずれにせよ、このタイプの板碑は大野地方でよう見かけます。額部の張り出した板碑に比べますと表現の簡略化が顕著ですが、すっきりとシンプルな形状の中に造形美が感じられます。

 

5 不二庵跡の宝塔

 不二庵跡の宝塔は今回の目玉です。それはもう細やかなお細工が素晴らしいうえに珍しく、こういった石塔類に興味関心のある方は初めてご覧になると驚かれると思います。行き方が少し難しいのですが、みなさんに見学をお勧めします。

 道順を申します。前項の庚申塔を右に見て、道なりに進みます。少し行くと、右側に熊野社が鎮座しています。鎮守の森の雰囲気がとてもよいのですが適当な写真がないので今回は飛ばします。右側の家並みが途切れてから1つ目の分岐を右折します。ここから先は狭く、軽自動車でなければ難儀をします。しばらくいくと、カーブミラーのある三叉路に出ます(※)。これを右に行きます。ほどなく左方向に上がる枝道に入ります。この道はほどなく未舗装になり、凹凸が激しく通り抜け困難です。入ってすぐの辺りに駐車します。道なりに少し歩いて、右側の小高いところにあがればすぐ宝塔が見えてきます。なお、駐車場所では転回困難で、枝道の上り口での切り返しもできません。見学後は後退して、※印の三叉路のところで切り返して左方向に下るとよいでしょう。ただし、左に下る道は軽自動車でもぎりぎりの隘路です(普通車は通行不能)。心配な方はどこかに駐車して歩いて来た方が無難ですが、迷惑にならずに駐車できそうな場所が近くにはなかなか見当たないのが悩ましいところです。

 このように、小高い場所の頂上に宝塔が立っています。少し離れたところからもよう見えます。印象深い風景で、この日の道中の中でも特に心に残りました。今は堂宇は何も残っておらず、礎石も見当たりませんでしたのでかつての状況を推量することは難しい状況です。

暦應三年庚辰二月時正中日
為現當二世所願成就
造立    良円 敬白

 この塔は、宝珠を欠き五輪塔の部材で代替してあるほか笠の隅も傷んでおりますけれども、それ以外は極めて良好な状態を保っています。塔身の銘文も容易に読み取れました。応暦3年と申しますと1340、684年も前の造立です!!なんということでしょう、650年以上も経っているとはとても思えない、奇跡的な保存状態ではありませんか。

 露盤は造り出しで、二重の枠の中には格狭間がよう残ります。面によって少し形が違うことに注目してください。笠は軒が厚く、重厚感があってよいと思います。塔身は茶壺型で、四面に金剛界四仏の種子を薬研彫りしています。

 さて、特に注目していただきたいのは基礎です。東西面と南北面がそれぞれ対になっており、いずれも非常に風変りかつ技巧を凝らした素晴らしいお細工がなされています。写真でみたときの左側の面は2区画に分ち、夫々の上段には格狭間を、下段には蓮花を彫っています。上下の隔たりは二重線になっていませんので、格子狭間の下端と蓮花の中央が一続きのように見えて、まるでチューリップか何かのイラストのように見えてまいりますのもおもしろいではありませんか。まして右側の面の個性的なことと申しましたらどうでしょう。中央の上段は格狭間、下段には蓮花ですが、この比率が左側の面とは異なります。そして左右には7基ずつの板碑を彫っているではありませんか!板碑というか、国東半島や大分地方でときどき見かける磨崖連碑のような表現です。それと同じ発想で、この石面を磨崖に見替えの連碑でございます。これは素晴らしい。こんなに細やかなお細工の施された基礎は、よそで見た覚えがありません。たいへん貴重なものであると存じます。

 見学して、これほど立派なお塔がこともなげに丘の上にポツンと立っていることに驚きました。大野地方は石造文化財の宝庫です。新田地区も例に漏れず、石幢などの優秀作が多数分布しております。その中でもこちらの宝塔は、新田地区の石造文化財の代表格と見てよいでしょう。

 

6 下玉田の石造物(玉田踏切そば)

 都合により道順が飛びます。新田小学校の正門前から市街地方面に行き、国道502号との交叉点(信号機有)は直進します。玉田踏切を渡ってすぐ左折すれば、ほどなく右側に石幢が立っています。道路端なのですぐ分かります。

 石幢、お地蔵様、五輪塔(残欠)がお祀りされています。この区画を舗装して枠もこしらえてあるのは、もしかしたらこの前の道路が拡幅した影響もあるかもしれません。お供えもあがり、近隣の方のお世話が続いているようです。

 それにしてもこの石幢は、笠が扁平で小さめなわりに、幢身や龕部がずいぶんどっしりとしています。しかも中台の膨れ方が小さいので龕部が大きく露出しております。その影響もありましょうか、風化摩滅が目立つのが残念です。でも、なんぼ造作がよかろうとてすっかり忘れられたお塔の類がとみに目立ちつつある昨今、このように立派にお祀りされているのは何よりではありませんか。道が広くなり、自動車でさっと通り過ぎる方が多くなっておりますけれども、炭焼き小五郎社に参拝する際にはこちらの六地蔵様にも参拝されてはいかがでしょう。

 このように、笠の内刳りがほとんどありません。龕部は八角形で、諸像の姿はもともと彫りが浅かったところに剥落も目立ち、細部が分からなくなっています。けれども、お地蔵様は光輪の様子からそれとすぐ分かります。だいたい、大野地方においては矩形の龕部の1面当てに2体ずつ彫って8体の像を表していることが多いものの、このように8角形の龕部でこしらえてある例もたまに見かけます。こちらはその一例というわけです。

 

7 炭焼小五郎社(〇地名「小五郎屋敷」の由来)

 石幢を右に見て僅かに進めばすぐ、右側にゲートボール場があり、その横に炭焼小五郎社が鎮座しています。ここのシコナを小五郎屋敷と申しまして、炭焼小五郎生誕地の伝承があります。炭焼小五郎は、前回も申しましたとおり盆踊りの口説で聞き覚えのある方もおいでいなると思います。

〽一重二重の三重内山で 藁で髪結うた炭焼小五郎 自体小五郎は拾い子なれば どこの者やら氏筋ゃ知れぬ 氏が知れねば奥山住まい もとの氏筋調べてみれば 父は又五郎玉田の育ち

 このような文句が、大野地方をはじめ南海部地方などかなりの広範囲に伝承されています。全文は前回の末尾に掲載してありますからご覧ください。わたしも方々の盆踊りでこの種の文句を聞き覚えまして、節は「三重節」やら「三勝」、また「佐伯節」「風切り」「祭文」など土地々々で異なりますけれども、冒頭を諳んじておるほどに馴染み深い口説でございます。この文句の「玉田」こそ、この付近一帯をさす地名です。それで、初めてこの地を訪れましたとき、わたしはすぐ炭焼き小五郎口説のこの一説を思い出しました。

 このように小さなお社が鎮座しとり、どなたでも自由に参拝できます。炭焼小五郎伝説の、あの壮大なお話に思いを馳せて、家内安全をお願いしました。

説明板の内容を転記します。

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炭焼小五郎社

 三重は玉田の里に生れた小五郎と云う貧しい青年を、都から久我大臣の娘「玉津姫」が三輪大明神のお告げにより下り、二人は結婚し大長者として幸せに暮しました。
 この二人は良縁成就、夫婦円満、家庭円満の鏡であります。二人は億万の長者として金運招来、家業繫栄の基礎を作りました。
 こうした小五郎伝説の精神を「古里の願い」とし、炭焼小五郎神像を屋敷跡に祭り、子々孫々に至るまで深く崇敬の念を捧げるものであります。

祈福
 良縁成就
 家内円満
 勤労感謝
 金運招来
 家業繁栄

昭和63年11月 下玉田区

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説明板の内容を転記します。

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炭焼小五郎生誕伝説の地

 三重町には、古くから炭焼小五郎伝説が語り継がれている。
 小五郎という貧しい青年が、都から下って来た玉津姫と結婚し、自分の炭焼窯の周りにあるおびただしい黄金を発見して、万の長者(真名の長者)となり、蓮城寺(内山観音)を建てたという。
 蓮城寺の古文書に次の記事がある。
「長者は、継体天皇三年、玉田の里に生まれ、幼名を藤次と申し給ふ。三歳にて父に放れ、七歳にして母に別れ、又五郎を継父とし、二十一歳まで炭焼くことを業とせり。又五郎八十一歳にて死す。これより藤次、名をあらため炭焼小五郎といふ」 ※継体天皇3年=6世紀頃
 大字玉田字下玉田には、むかしから小五郎屋敷という土地があり、炭焼小五郎誕生の地として、地区民から親しまれてきた。この炭焼小五郎生誕伝説の地を世の人々と子孫に伝えるため、伝承の一端をここに記す。

昭和62年3月 下玉田区

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今回は以上です。次回、もう1回このシリーズの続きを投稿します。立派な石幢がたくさんでてきますので、楽しみにお待ちください。

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