大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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犬飼の名所めぐり その3(犬飼町)

 久しぶりに犬飼地区の記事を書きます。先日数か所めぐりまして、1本の記事にするには写真が多すぎるので2回に分けます。今回は大字下津尾の名所旧跡で、実質2か所なので短めの記事になります。以前紹介した犬飼港跡周辺の文化財・史跡とあわせて訪れることをお勧めします。

 

9 下野の熊埜社

 大字下津尾は下野部落に鎮座まします熊埜社には、古式床しい鳥居と2基の宝篋印塔があります。「埜」は、今は滅多に使わない文字で、「矢埜」さんなど苗字で見かける程度です。字形が全く違いますけれども「野」と同義です。つまり「熊埜社」は「熊野社」、全国でお馴染みの熊野神社熊野権現ということです。和歌山県熊野三山から全国各地に勧請され、その土地々々で信仰されています。

 大分市方面からの道順を申します。国道10号から犬飼どんこ大橋(バイパス)を渡って、1つ目のランプを上り左折します。下り坂の途中、左カーブの内側を左折して道なりに行けば鳥居のところに着きます(※)。ところが左折した先は道幅が狭く離合困難なので、不安な方は左折せずに一旦下り切って回り道をした方がよいでしょう。踏切を渡って突き当りを左折して、先ほど渡ったどんこ大橋の下をくぐって下野部落に入ります。その中ほどから左方向に神社への近道(車不可)が分かれているのですが、その半ばには遮断機や警音器のない踏切があります。そんな踏切を通るのは危ないし駐車場所もないので近道は無視して進みます。少し行くと左に遮断機つきの踏切があります。左折してその踏切を渡り、折り返すように線路の向こう側の道を進みますと鳥居のところに出ます(※印の道とつながっています)。鳥居の近くに駐車できます。

 この鳥居は柱が角柱で、上から下まで同じ太さです。高さが2m強しかありませんのに、それに比してずいぶんどっしりとした印象を受けます。笠木と島木は中央で接合しているようで、特に右側は少し隙間が空いており小石を摘めています。笠木は中央で互い違いにかみ合わせている事例が多い中で、こちらは一石づくりです。柱の、島木接合部の少し下のところには矩形のほぞ穴があります。昔は貫が入っていたのでしょうか。豊後大野市のウェブサイトによれば、天文7年の紀年銘があるそうです。

 宝篋印塔は、相輪(後家合わせ)が破損しているほか全体的に風化が進んできているようですが、今のところ細部までよう分かります。露盤は各面を2区画に分ちます。塔身には梵字を彫っています。基壇には格狭間を彫り、その縁取りが広いのが印象に残りました。その下の反花は、基壇との接合部が少し段違いになっています。蓮の花は線彫りで二重花弁に表現してあり、この部分もよう分かりました。単独の写真を撮り忘れたので、掲載した写真では分かりづらいと思います。実物を見ればはっきり分かります。

 参道の苔むした石段や大きな杉の木には、この神社の長い歴史が感じられます。『犬飼町誌』により以下の内容が分かりました。
○ 御祭神は、事解男命伊弉冊尊、速玉男命、仁徳天皇応神天皇、大歳神、大山祇命軻遇突智命天津児屋根命猿田彦命倉稲魂命である。明治42年3月1日から4月25日の間に、大字下津尾各地より下記を合併した(括弧内は旧所在地)。
仁徳天皇(字辻)、応神天皇・大歳神・大山祇命軻遇突智命(字イノツル)、天津児屋根命(字北原)、大山祇命(字塔の元)、猿田彦命(字谷)、倉稲魂命(字野首)

 こちらは境内に立っている宝篋印塔です。均整のとれた、優れた作例であると存じます。鳥居横の塔と高さは同程度ですけれども、細かい部分がずいぶん異なります。特に露盤の違いが顕著で、こちらは連子です。その下は小さな段々になっています。全体的に風化摩滅の進行が見てとれますが、相輪下の蓮花に関しては状態良好で、二重花弁のふっくらとした様子がよう分かりました。基壇下の反花はありません。手前に安置してある相輪の残欠は、或いは下の宝篋印塔のものではあるまいかとも思いましたが、詳細は不明です。

 

10 内河の石造物(公民館)

 熊埜社から元来た道を後戻り、ランプを左に下って国道バイパスに合流します。次のランプ(犬飼インターの1つ手前)を上って右折し、跨道橋(バイパス上)を渡れば内河部落です。左カーブの先を右折してすぐ、内河の公民館があります。その坪に石造物が並んでいます。公民館の手前に十分な駐車スペースがあります。

 道路工事などで近隣から集めたのか、或いは公民館の場所に元は堂様か何かがあってこれらの石造物も元々この場所にあったのか、判断がつきませんでした。2基の五輪塔のうち向かって左は、一石造のような比率の造形です。右は後家合わせと思われます。右から2番目の大きい御室の中にはお観音様の石像がお祀りされています。

大乘妙典

 一字一石塔ないし納経塔で、2階建ての立派な造りです。矩形の台座に「大乗妙典」とか「三界万霊」と彫り、上に丸彫りの仏様が乗ってある供養塔を宇目町など南海部地方・大野地方で盛んに見かけます。ところがこちらは、上の仏様が雨ざらしではなく御室に収まっています。このタイプもときどき見かけますけれども、少数派でありましょう。紀年銘もよう残っています。上(御室)は文化11年、下(台座)は天保2年で、実に17年もの隔たりがあります。その理由として、次の2つを考えました。
① いま台座になっている部分の上には、当初は別の仏様が乗っていた(天保2年)。ところが何らかの事情により上の仏様が破損したので、別に単体でお祀りしていた御室(文化11年)を上に乗せた。
② 文化11年の御室に、天保2年に台座を付け足した。

 おそらくこのどちらかではないかと思いますが、推測にすぎません。

 

11 内河の石造物(三叉路)

 車は置いたまま、公民館前を歩いて進めばすぐ三叉路に出ます。その左側の角、塚のようになったところの上に庚申塔五輪塔が1基ずつ立っています。公民館のすぐ近くですが一応別項扱いとします。

 道路から庚申様が見えるので、すぐ分かります。石段が少し傷んでいますが問題なく通行できました。

青面金剛6臂、ショケラ

 大野地方の庚申塔は文字塔が大部分で、刻像塔は少のうございます。たまたま見つけた庚申塔が刻像塔だったので、喜びも一入でした。しかもこの庚申様はデザインがたいへん個性的で、興味深い点がたくさんあります。上から順に見ていきましょう。

 まず何と申しましても主尊のお顔です。マジックペンで線を引いたように眉間から眉尻まで極太の眉毛、吊り上がった眼、大きめの鼻など、何から何まで力強そうな感じがいたしますのに、なじかは知らねどそこはかとない愛嬌や親しみやすさが感じられました。おつばや、頬の輪郭線も影響しているのかもしれません。腕の表現は自由奔放です。上げた腕と下ろした腕は自然な長さで曲げ方にも違和感はありませんものを、横に出して弓と矢を持つ手がまるで体からにょっきりと手首だけ生えているように短いのは、さても珍妙なことではありませんか。けれどもそんな些末なことはコチャ構やせぬ厭やせぬとばかりに、その輪郭の角を立てずに丸っこいカーブを丁寧に彫って、実に堂々たる表現になっておりますことに感心いたしました。指の握りなど、石工さんが自分の手の様子をよう観察して彫ったのでしょう、ほんに写実的です。しかも、上の手と衣紋から斜め下に伸びた紐のような部分が対になり、中の手、弓と矢の向きも合わせて対称性に配慮したデザインになっており、それが碑面いっぱいになっていますので主尊の力強い雰囲気がよう出ています。

 ショケラにも注目してください。主尊の体の前にぶらさげたショケラは正面向きで、まるでお人形のような風情がごじざいます。ほんにかわいらしいではありませんか。

 紀年銘は全部は読み取れませんでしたが、文化5年の造立のようです(文は異体字)。大野地方の刻像塔でよう見られる、猿や鶏などの眷属を伴わずに青面金剛とショケラのみ彫ったものですけれども、その中でもこちらは表現の工夫が特に優れていると感じました。

 五輪塔は一石造です。水輪がやや扁平で全体的にずんぐりとした形で、古式床しい印象を受けました。

 

今回は以上です。次回も犬飼地区の名所の続きで、大字田原の石造文化財を紹介します。

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