今回は中山仙境登山口付近の石造物からはじめて、あまり知られていない名所旧跡・文化財をいくつか紹介します。特に楽庭の地蔵堂跡の磨崖仏を御存じの方は少ないと思います。
さて、夷谷の磨崖仏およびその類型と申しますと、谷ノ迫の磨崖像(かたしろ様)、六所神社の磨崖仏および梅の木磨崖仏・五輪塔・連碑が有名です。それ以外にも藤ヶ谷の磨崖六地蔵、下坊中の磨崖庚申塔、六所神社の磨崖仏、旧霊仙寺墓地の磨崖五輪塔・碑、横岳の磨崖仏、道園の磨崖五輪塔・連碑、それから今回出てくる地蔵堂跡の磨崖仏と中山仙境登山道下の磨崖五輪塔など、方々に点在しています。まだ私は行き当たっていないのですが西狩場の入口には磨崖五輪塔がありますし、稽古庵の近くや山畑越の旧道にも磨崖仏があるそうです。狭い範囲の中でこれほどたくさんの地点に磨崖仏・磨崖石塔が分布している例は稀ではないでしょうか。
今までたくさん紹介してきましたように、三重地区(夷谷・上香々地)には、自然景勝地、史跡、文化財、いずれも特筆すべきものが数々あります。国東半島を訪れる際にはぜひ足を伸ばしてみてください。
48 尾鼻の石造物(中山仙境登山口付近)
夷谷の下手、楽庭部落からカサは西夷と東夷に分かれています。その追分付近の字を尾鼻と申しまして、ここから中山仙峡の登山道が伸びており、上り口には庚申塔が立っています。この項では、この庚申塔から登山道の下手に沿うて並んでいる石造物について説明します。車は、このすぐ前の路肩に縦列で2台程度停められます。ただ、もし中山仙境を巡るなどで長時間停める場合は迷惑になりそうです。そのときはその2の3番の冒頭で説明した場所か、河川プールのところの駐車場に停めるとよいでしょう。
青面金剛6臂、2猿、2鶏
道路端に立っているので見覚えのある方も多いと思います。だんだん傷みが進んできていますけれども今のところ主尊のお顔以外は細部までよう分かります。優れたデザインの、優秀作といえましょう。日輪・月輪は見当たりません。主尊はほっぺらぼうになっておりますけれども、頭巾をかぶったような頭のぐるりをとりまく光輪はよう分かります。さてもありがたやのお姿、後光がパーッとさしてちょうどお顔が見えづらくなっているようなお姿が思い浮かびます。腕は完全に左右対称で、めいめいの持ち物は大きめです。猿と鶏はレリーフ状の彫りで、めいめいが横向きにて楽しそうに戯れています。主尊との対比もおもしろうございます。
さて、この庚申塔は、異様に大きな蛇や三叉戟などの持ちものの表現や、合掌の仕方が普通とはやや違うように見えるなど様々な観点から、このタイプを「異相庚申塔」と見做す人もいます。これとそっくりの塔が香々地町と国見町に数々残っており、夷谷ではカンガ峠旧道や白禿(倒壊)、横岳などにこれとそっくりの塔がありますほか、伊美の清正公社や本城などの塔も同種です。また、こまごまとした違いこそあれ、同じような特徴を持つ塔はほかにも多数あり、いずれも香々地町と国見町に集中しています。
なお、この庚申塔は以前、その5の14番で紹介していますが、写真がよくなかったので再度取り上げたものです。庚申塔を見学したら、すぐ横から尾根道を上っていきます。
板碑が1基倒れています。この碑は額部の二条線の取り方や上端が尖っている点などが特徴で、近隣でよう見かけるタイプとは異なります。銘は全く読み取れませんでした。
■禮庚申■
この庚申塔は半ば埋もれるように立っています。墨書された銘が薄れてきており、紀年銘の読み取りは省きます。幸いにも、庚申塔だと分かる部分は一目瞭然でした。尾根道を上りはじめてすぐ、道沿い左側に立っています。
なお、これとは別に青面金剛の文字塔もあったような気がしたのですが、今回は見つけられませんでした。文字が消えて分からなくなっていたのかもしれません。
こちら子安観音様は、板井テルさん(通称おなさばあさん)の威徳を偲んで奉納されたものです。
板井テルさんは明治8年に羽根で生まれ、長じて道園に嫁ぎ、医師 板井春哉さんに師事して産学を修めました。その後、産婆さんとして明治・大正・昭和の長きに亙って活躍されました。お産というものは時間を問いません。雨の日も風の日も、また寒い冬の夜も、それこそ昼夜を分かたずお産のある家に飛んでいき、何人もの赤子を取り上げたのです。お観音様の横には立派な説明板も立っています。多くの方から長きに亙って慕われていたことが推察されます。
余談ですが以前は、男女問わずお年寄りの本名(戸籍上の名前)と名乗りが異なる人がときどきいました(私の親戚や近所の人にもいました)。板井テルさんもそのひとりというわけで、特に女性は多かったと思います。渾名とはまた違います。世代がかわって本名と全く違う響きの名前を常用する人は稀になりましたが、片仮名の名前に自分で漢字をあてたり、2文字の名前に「子」をつけて名乗っているお年寄りはまだまだ見かけます。
この碑は、上部に三尊形式の梵字を書き、その下には縦5行にわたってびっしりと銘文が書いてあったようです。残念ながら銘文のほとんどが消えていますので読み取りは省きます。ただ、冒頭は「庚申」、最後の行の上は「塔二世…」のようです。読み間違いの可能性もあり確証を得ませんが、庚申塔ではなかろうかと考えました。
修行大師
麓の方を向いて、大きなお弘法様が立っています。下の道路からでもよう分かります。中山仙境周辺には新四国の札所が点在しており、その関連のお弘法様でしょう。札所になっているわけではなくて、霊場を象徴する存在として奉納されたと考えられます。優しそうなお顔を拝見しますと、心が落ち着いてまいります。特に中山仙境を歩く方は安全を祈願されてはいかがでしょう。心を静め、安全第一で山歩きを楽しみたいものです。
お弘法様の少し先から、岩尾根の登山道らしい雰囲気の場所に出ます。
中山仙境に登るとなればいよいよわくわくしてくるような場面ですが、今回はこれを登らず左によけて、岩壁に沿うて僅かに進みます。すると右側の岩壁に磨崖五輪塔が2基並んでいます。ほんの少しの距離です。
このように、登山道からほんの少し引っ込んだところに2基の磨崖五輪塔が並んでいます。扁平な彫りながら、今のところその姿はよう分かります。まさかこんなところにと思うような場所で、実際ほとんどの方が気付かないようです。入口に標柱を立てるなどされますと、興味関心のある方が立ち寄る機会も少しは増えるのではないでしょうか。気に留める方が増えれば増えるほど、荒廃を防ぐ助けになることでしょう。
ところで、この磨崖五輪塔は道園の磨崖連碑・五輪塔と同じ文脈のものでしょうか。またはこのすぐ下にあった地蔵堂に付随するものでしょうか。今のところ確からしい答えに行き当たっておりませんので、一応別項扱いとしました。中山仙境の登山はそれなりに危険を伴いますが、ここまでなら距離も知れたもので危ないところもないので、容易に見学できます。
50 尾鼻の地蔵堂跡(磨崖仏)
磨崖五輪塔のところから竹につかまりながら、斜面を適当に下りますと下の県道より一段高いところの平場に出ます。この平場には昔地蔵堂があったそうで、今は堂宇はありませんけれども石塔群と磨崖仏が残っています。本来は別の参道があるのですが荒れて通りにくくなっているので、上からの方が簡単です。
このように、荒れた平場にいくつかの五輪塔が並んでいます。そのほとんどが壊れていたり後家合わせに積んであったりでおいたわしい限りですが、中には一石づくりのものもありまして、それは元の形を留めています(写真手前)。優れた作例とは言い難いものの、素朴な形が心に残りました。
石塔のところから左に行けばすぐ、大岩に1体の磨崖仏が確認できます。枯れ竹がたくさん倒れかかっていましたので、可能な範囲で除去しました。この像は風化摩滅が著しいものの、蓋しお地蔵様でありましょう。半肉彫りのお地蔵様を囲むように、ごく薄肉で鳥居のようなものが彫ってあるのが見てとれます。これは鳥居ではなくて、堂様の中に安置してある小型のお弘法様の坐像などに付随する、あの背もたれのような枠でしょう(名称を存じておりません)。今や竹が生い茂り、だんだん信仰が薄れてきているようです。
すぐそばには丸彫りの立像が倒れていました。粗末にならないようにと思い枯れ枝や落ち葉を払い除けましたが、少し大風が吹けば元の木阿弥かもしれません。
51 上ノ平の石造物・イ
楽庭から県道を市街地方面へと進みます。左側に「国立公園夷谷」の碑を見送ってすぐ、二股を左にとって旧道に入ります。旧三重小学校跡を過ぎて1つ目の角を左折し、橋を渡った先が字上ノ平です。正面の獣害防護柵の向こう側一帯が古い墓地になっていて、五輪塔や国東塔が集中しています。この区画は垣添家墓地とのことで、上ノ平にはほかに中山家墓地と入会墓地があります。今回の文を便宜上「イ」として、いずれ別項を立てて上ノ平のほかの地点の石造物も紹介する予定です。
この墓地には大きい国東塔が2基も立っており、いずれも形がよう整うた立派なものです。左から順に見ていきましょう。
左の塔は宝珠の欠損以外はそう大きな傷みはありません。けれども風化摩滅は致し方なく、長い年月が感じられます。笠の傾斜が急勾配で、首部には納経のための孔があります。塔身は臼型で、請花と反花は鼓のような形状でめいめいの花びらは見えづらくなっていました。基壇の格狭間もさっぱり分かりません。、塔身や台座はどっしりとした感じで、なかなかよいと思います。
右の小型の宝塔は、相輪の半ばでぽっきり折れているのが残念です。
こちらの国東塔は、先ほどのものよりもなお形が整うていると思います。宝珠は傷んでいますけれどもその下の蓮の花がよう残っていますし、造り出しの路盤にも格狭間が見てとれます。笠の勾配もほどがようございます。塔身も私の好きな形です。蓮台には、請花・反花夫々花びらがくっきりと残り、上下で対称になっています。基壇は後家合わせかもしれません。なんだか据わりが悪そうで、小石をかませてどうにか水平にしてありますけれども、地震などによる倒壊が懸念されます。
近くには笠の落ちた双体道祖神ないし双仏様がひっそりと立っていました。この墓地を、また前の道路を、じっと見守ってくださっています。この種の石造物は国東半島一円にたくさん残っており、特に西国東地方の道路端や堂様、墓地、神社などで盛んに見かけます。小さくて目立たないので頓着しなければ気付かないかもしれませんが、ちょっと気を付けているとあちこちで目に入ります。どうも仁王様や庚申様、国東塔、石殿などに比べますとやや等閑視されているような気がしますけれども、なんとも素朴で味わい深い造形です。昔の方がどんな願いを込めて造立されたのかなと考えますと、その一つひとつが今後も粗末になることなく残りますようにと思わずにはいられません。
五輪塔が集積されているところの奥詰め、山裾にごく小さな岩屋と申しましょうか、横穴が確認できました。その手前には竿のない石灯籠があります。確認はしませんでしたが、横穴の中に何かをお祀りしてあるのでしょう。
字上ノ平には庚申塔もあるはずなのですが、訪ね当たりませんでした。また捜しに行ってみようと思います。
52 長小野の秋の風景
国東半島には四季折々の風情があります。冬は一面の雪化粧にシンと静まる朝がいちばんです。だんだん日が昇ってきて、あの身を切る寒さにも陽の光の温かさを感じる中をお宮参り、お寺参りなどいたしますと、一種独特の風情がございます。春は花、特に岩山の景色に山桜が色を添える頃の曇り空の日など、塔も朧に落下の雪の首尾で、それに踏み迷うて蝶を友とや野行き山行き、愉快なことではありませんか。お弘法様のお接待もまた春の風物詩です。夏は海の風景や稲田、それから供養踊りの太鼓や口説が虫の音のすだく中に聞こえてまいりますのもようございます。農村部など初盆の家の坪で踊るのもよし、または漁村で浜に集まりまして大漁旗も賑やかに踊る光景もよし、盆踊りというものはほんに郷愁を誘います。冬、春、夏ときて、国東半島でもっともよいのは秋ではないでしょうか。わたしは秋の国東半島が大好きです。いちょう、かえで、もみじ、いろいろな木々が唐錦の風情にて、山から里から、いちめん色とりどりに華やぎます。また、落葉したあとの雑木林というものもほんに風情があるものです。お寺も堂様も神社も、また野辺の仏様も、もう何から何までがあの秋の風景によう馴染んで得も言われぬ景観を作り出します。特に夕方の4時過ぎ頃、薄暗くなりかける頃の山路がまたよいのです。
夷谷も、春夏秋冬の中から選ぶとすれば秋でしょう。紅葉の名所中の名所なのですから。特に中山仙境や高岩あたりは見事なもので、一路一景公園から眺めてもよし、山登りをしてもよし、思い思いに楽しむことができます。そして、そのような有名なところ以外でも方々に秋の風情というものがあります。今回は長小野部落の秋の風景ということで、上ノ平から対岸を撮影した写真を掲載します。
一見何でもないような風景ですが、山の色がよく、のどかな集落の景観が心に残りました。特に県道沿いには銀杏の木が多いので、ちょっとドライブをするだけでも秋を実感できます。
右の方には旧三重小学校が写っています。残念ながら児童数の減少により閉校してしまいました。
今回は以上です。次回もこのシリーズの続きを書く予定です。