大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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竹田津の名所めぐり その9(国見町)

 今回は、竹田津地区の中でも大字櫛海(くしのみ)の名所旧跡を少し紹介します。中でも冒頭に紹介する箕ヶ岩(みいがいわ)のトンネルについては、その経緯について調べたことを詳しく書いてみようと思います。

 

28 箕ヶ岩隧道

 伊美から国見トンネルを抜けて、国道213号を竹田津方面に行きます。右側に干拓地を見ながら直線的に進み、大字櫛海と鬼籠(きこ)の境界辺りにきますと、左側に切り立った大岩壁と小さなトンネルが見えます。このトンネルが箕ヶ岩隧道です。

 トンネル(箕ヶ岩隧道)を通る方の道は、国道213号の旧道です。今はこれよりも海側に、直線的に現道が通り、さらに海側には干拓農地が広がっています。

 さて、このトンネルは昭和10年の竣工で、写真に写っている道路敷もそのときに埋め立てにより造成されました。それ以前から利用されていた旧の箕ヶ岩西隧道(便宜上の呼称・後ほど詳しく説明します)の西口を改修して直線的に短いトンネルに造り替えたものであり、この工事は道路造成とセットであったのです。それ以前は、写真に写っている旧道よりも山側まで波が打ち寄せていたそうです。

 ところでトンネルの名称にもなっている箕ヶ岩とは、写真に写っている小さな立岩です。箕の形にはあまり似ていないような気がしますが、とにかくそう呼んでいます。今は干拓により仕切られた海の残部(溜まり水)の中にポツンと立っているだけで目立ちません。けれども大昔、旧道敷すらなかった時代は、大岩壁と箕ヶ岩とが相俟って、一幅の絵画を見るような景勝地であったことでしょう。

 

29 箕ヶ岩西隧道・東隧道跡

 先ほど、現役の箕ヶ岩隧道が昭和10年にほげる以前のトンネルについて少しふれました。これについては、『国見物語第二集』に掲載されている広末宏さん著『竹田津港の今昔』により詳しい経緯が分かりました。要点をかいつまんで記しておきます。

○ 明治23年頃に西側のトンネルを掘った。その工事で山崩れがあり、1人亡くなった。西側のトンネルはのちに改修されて、現存する短いトンネルになった。
○ 東側には曲がったトンネルを掘り、箕ヶ岩横を通る道路が明治24年に完成した。東側のトンネルには屈曲の前後2か所に明かり窓があった。暗闇のトンネルで、夜に歩いて通る際に誤って明かり窓から海に落ち、大怪我をした人もいた。竹田津徳三郎さんによりランプを寄進されたこともあったが、盗まれてしまった。東側のトンネルの一部が稲荷社側に僅かに残っているが、ほとんどは山を崩した際に壊され、国見コンクリの作業場になっている。
○ 箕ヶ岩の東西のトンネルは、北浦辺のトンネル群の中で最も早くに完成したものである。それ以前は山越しの道しかなかった。箕ヶ岩隧道とチギリメン隧道の竣工により伊美・竹田津間の交通が便利になり、旧来の山越道を通る人はほとんどいなくなった。

 私は、箕ヶ岩の旧トンネルは長くて屈曲したものが1本あったと認識していたのですが、広末宏さんの記事により2本あったことが分かりました。いま、国東半島の北浦辺の旧トンネル群が次々に閉鎖されています。それらの嚆矢であった2つの旧トンネルは、史跡としての価値があるように思います。残念ながら原形はとどめていませんが、どちらも部分的に残っています。

 さて、ここでは便宜上旧トンネルを夫々西隧道・東隧道と呼ぶことにします。まず西隧道ですが、適当な写真がありません。冒頭の写真に小さく写っている現役の箕ヶ岩隧道の少し手前、山際の藪の中に西隧道の東口があり、ゆるやかに屈曲したトンネルの一部が残っています。通り抜けはできず、今の箕ヶ岩隧道の西口付近にて塞がれています。これは先ほど申しましたとおり、旧の西口を作り替えたためです。

 東隧道については、塞がれているものの東口を簡単に見学できます。

 現在の箕ヶ岩隧道から櫛海方面に少し進むと、道路右側に櫛海稲荷社の参道上り口があります。その右側の崖下に、写真のように入口を封鎖された旧東隧道の坑口が残っています!現地には標柱も説明板もありませんが、明治24年に竣工したトンネルの残部であり、しかも国東半島のトンネル群の嚆矢ということで、史跡としての価値があるかと思います。このトンネルは、廃止されて西側を崩されてからしばらくは、中を板で仕切ってみかんの貯蔵庫として利用されていたそうです。

 東隧道跡の右側には、このような洞穴があります。海蝕洞というわけではなさそうです。中に何かがお祀りされているわけでもなく、詳細は分かりませんでした。

 以上、2項目にわたって箕ヶ岩周辺の今昔についてまとめてみました。この項の最後に、『国見物語第二集』に掲載されている丸山絹子さん著『道路及びトンネルについて』の末尾から少しだけ引用しておきます。

~~~丸山絹子さん著『道路及びトンネルについて』より

此の時代の事業の発起人や世話人の方の並々ならぬ苦労やそれに協力した当時の村民の努力があったればこそ現在私共は大変便利な生活が出来ます。一日たりとも感謝の心を忘れてはならないと思います。

~~~

 

29 櫛海稲荷社

 旧箕ヶ岩東隧道跡の真上に、櫛海稲荷社が鎮座しています。車を停める場所は十分にありますので、箕ヶ岩隧道見学の際には参拝をお勧めします。

 鳥居をくぐるとすぐ、急な上り坂になっています。階段にした方がよいかと思われるような傾斜で、お参りした帰りに下るときにはそろりそろりと歩きました。手すりを設置してくださっているので、気を付ければ問題ありません。

 参道が右に折れるところには1基の国東塔が立っています。残念ながら相輪が半ばで折れ、上部はすぐ横に安置してありました。塔身の風化摩滅が著しいものの、反花はよう残っています。丸っこい花びらがほんに優美です。塔身にはシメがかかり、右側には小さな御幣の棒が置いてありました。おそらくお稲荷さんのお祭りのときに、このお塔もお祀りしているのでしょう。

 国東塔のところから右に折れてもうひと上りすると、境内に至ります。境内はそれなりの広さがあります。今は樹木が茂って展望が利きませんが、昔は眺めがよかったのではないでしょうか。

 拝殿裏の石祠です。右端には「八大龍王」と彫ってあります。国東半島は降水量が少なく、昔は旱害に悩まされていました。以前、伊美地区のシリーズでも申しましたように、溜池を2つ3つと連結するなどの工夫により徐々に改善されたとはいえ、昔の方の苦労は並大抵のものではなかったはずです。ですから八大龍王様や貴船様などの信仰が篤かったようで、方々に神社や石祠が残っています。こちらもその中のひとつです。

 

30 櫛海の山神社

 稲荷社をあとに、旧国道を先へと進みます。道なりに橋を渡ってすぐ右折して、櫛海の谷を上っていきます。左に田んぼを見ながら直線的に進み、櫛海公民館のすぐ手前を左折します。道なりに行けば参道入口に着きます。

 参道入口には厳めしい顔の狛犬が睨みを効かせています。でも腕の所作などそれとなく愛らしいところがあって、特に吽形は子供をあやしておりますのが面白うございます。徒歩の場合はここから正面の石段を上ればよいのですが、車のときは道なりに左に上がれば境内の入口に駐車できます。ただしここからは道幅が狭いので、軽自動車の方がよいかもしれません。

 それなりの広さがある境内は喧騒から離れて、たいへん静かです。自然に囲まれた気持ちのよい場所で、心が落ち着きました。参拝時には、参道下り口の両脇の狛犬を確認してみてください。

 狛犬の台座には大正15年9月の銘がありました。たいへん個性的な姿をしており、てっきりもっと古いものと思うておりました。大正も終わりの頃になってもなお、このように自由な発想で見事な作品をこしらえることのできる石工さんが、まだいたのです。夫々、色々な角度から詳しく見てみましょう。

 

 この丸っこくて大きな頭!なんともかわいらしい表情です。吽形は首をかしげるように斜めを向いているのがまたよいと思います。まして両脚に取りすがる2匹の子犬のかわいらいっさといったらどうでしょう。

 こうして全体を見て見ますと、ただかわいらしいだけではなくバランスが優れていて、過度にデフォルメされているわけではないことが分かります。

 阿形の方が、やはり歯をむき出しにして少しだけ厳めしさが出ているような気がします。でも口の形のためでしょうか、その厳めしさをも隠すような愛嬌が感じられました。子犬はやはり2匹で、1匹は写真のように上げた右脚に取りすがっています。

 このお顔!なんだか向かい側に立っている吽形に「よーい!」と呼び掛けているようにも見えてまいります。そしてもう1匹の子犬は背中に取りすがっています。

 取りすがっているというか、おんぶしているという方が適切かもしれません。こんなに個性的な造形だと、お手本になるような作品はなかなか見当たらないと思います。これをこしらえた石工さんの非凡なる発想と、思いどおりにこしらえる技量のあったればこそというわけです。

 灯籠もまた手の込んだ造りです。特に中台のところの、蓮の花のような文様がよいと思います。狛犬にばかり目を奪われがちですけれども、参拝時には灯籠もぜひ確認してみてください。

 

31 大河内の庚申塔

 山神社から公民館近くまで後戻って左折し、谷筋を上っていきます。萬福寺近くの薬師堂跡には庚申塔がありますが、適当な写真がないので今回は飛ばします。道なりに進んでいけば、櫛海の谷の最もカサにあたる大河内部落に入ります。そのはずれ、石垣の上に石祠が並んでいます。道路端なのですぐ分かります。

 この場所にある石祠のひとつは、庚申塔です。石祠の中に庚申塔が納まっているというよりは、石祠の奥壁に諸像が刻出されています。このような事例は本匠村や大野地方などで数基見かけましたが、国東半島では稀であると存じます。

青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏、邪鬼

 石祠の中ということで風化摩滅は少ないかと思いきや、なんだか傷みが進んでいるように見えます。元々ごつごつした感じの彫り方であったのかもしれませんが、おそらく本来はもう少し細かいところまで分かる状態であったことでしょう。

 まず主尊は、犬のような邪鬼の上に武張って立っています。細い細い足をハの字に開いて、なんだか据わりの悪そうな立ち方ではありませんか。異常なる大きさの弓と三叉戟とが対称をなし、横に大きく広がっているのでほんに強そうな感じがいたします。お顔も、鼻が大きくて頬は盛り上がり口はヘの字で、仁王さんの吽形のように見えてまいりました。童子はやはり足を外向きに開いて大人しく立っています。まん丸のお顔の表情は読み取れませんが、赤い彩色がほんのりと残ります。猿と鶏が仲よう向かい合うて、特に猿はやっさやっさと四つん這いになっているのが面白うございます。

 

今回は以上です。大字櫛海の名所旧跡は、ほかにもいろいろあります。残りはまたいつかということにして、次回からはしばらく野津町の記事が続きます。

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