大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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竹田津の名所めぐり その6(国見町)

 今回は大字鬼籠(きこ)の名所旧跡の一部を紹介します。この地域には庚申塔をはじめとする石造文化財の質量ともに豊富であるほか、高地には元宮遺蹟や環状列石などの古い時代の信仰の遺跡がいろいろと残っています。

 

15 岩洞のお弘法様

 伊美から竹田津へと国道213号を進み、竹田津交叉点(信号機あり)を左折して旧商店街を通り抜けます。昔は賑やかだったと思いますが、今は寂しい通りです。けれども古い建物、昔の町並みがよう残っていて、私の好きな通りです。これを過ぎて橋を渡り少し行けば左に竹田津地区の公民館があります。公民館に車を停めさせてもらい道なりに歩けば、右側にお弘法様の霊場があります(冒頭の写真)。岩洞(いわうと)の弘法様とか円石(えんせき)の大師洞などと申しまして、竹田津地区の中でも指折りの名所です。

 この場所には元から浅い洞窟か岩屋があったのでしょう。それを人為的に掘り進めて、霊場として整備したのではないでしょうか。入口こそ法面工事の影響で昔の面影は薄れておりますけれども、立派なお屋根をこしらえてあります。中に入れば岩棚にずらりと並ぶお地蔵様の数の多さに圧倒されましょう。台座に番号が振っていないので、寄せ四国というわけではなさそうです。めいめいのお地蔵様はみんな異なり、赤いおちょうちょをかけて毛糸の帽子などをかぶせてありました。

 最奥の棚にはお弘法様の立像がお祀りされ、その周りはたくさんのお地蔵様で囲まれていました。お弘法様のすぐ前の仏様のお顔の、なんとお優しそうなことでしょう。右端に写っている饅頭型の石は、半ばにぐるりと溝を切ってあります。これは亥の子の石でしょう。このぐるりに綱をからげて四方八方に伸ばした引き綱をとって、屋敷の坪でオイサオイサと亥の子を搗きます。この行事は国東半島一円で行われていましたが、今では杵築市の一部などに残るのみになっており、風前の灯火です。

 入口近くには横穴があり、その中にも仏様がお祀りされていました。

 こちらの霊場では、現状は分かりませんが、以前は春と夏の2回お接待を出していました。春は月遅れで4月20日(元々は旧3月20日)、夏は旧7月20日です。お接待は個人の座元も数多く超満員で、押すな押すなの大賑わいであったそうです。また、夏のお接待の晩には盆踊りもありました。前の道路を通行止めにして細長い輪が二重に、また三重になった由。竹田津地区の盆踊りの演目は「杵築踊り」「レソ」「マッカセ」「エッサッサ」「ヤンソレサ」「六調子」等あり、口説と太鼓に合わせて踊ります。

 すぐ横には浅い洞穴もありますが、中には何もありませんでした。元々こちらにお祀りされていた仏様を隣に移した可能性があります。

 

16 田中社

 岩洞のお弘法様から歩いて行きます。山裾の道を進み、左側のフェンスが途切れるところを左折します(車不可)。橋を渡って右折、田んぼの中の道(車可)を行き、次の角を右折した先に鎮座しています。こちらは鬼籠のうち肆(みせ)部落のうちです。

 境内へは2つの入口があり、それぞれに小さな鳥居が立っています。こちらは右の入口で、鳥居には扁額がありませんでした。境内はいつもこざっぱりとしています。

 左の鳥居には「田中社」の扁額がありました。「奉再建」とのことですが文化3年の銘があります。古い鳥居です。由来書きの内容を転記しておきます。

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田中社の由来

天満社 菅公を祀り芸能学問成就の神
荒谷天神森に元禄四年二月廿五日刻銘の石祠あり
大願主屋敷忠右ヱ門 六角石灯籠享保五子天
願主屋敷庄左衛門 明治21年この地に奉遷

妙見大明神 北辰を祀り農耕狩猟の刻を司る
この地に鎮座創建永禄 暮春吉日鬼籠氏子中

山神宮 狩猟農事の神
堂前より奉遷 山神宮田あり
創建寛政二庚申天十二月吉日 吉兵衛滝平

金毘羅神 海上守護の神
文化十一年甲戌三月奉再建 吉兵衛儀作
明治31年金毘羅山より拝殿をこの地に移す

瑜伽大権現 土匠の神
元引石に新坐 文化九年壬申八月吉日
創建 仲右衛門他

清正公 加藤清正を祀る 武神疫神
天保九歳戊戌二月創建佐藤円平氏子中の刻銘あり
元光月に鎮座 江月庵の水鉢あり
昭和52年仲秋吉日 調制
総代 末綱杵一 中島依夫 一丸隆

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 境内にはいろいろな石祠が並んでいます。由来書により、それぞれの創建や旧地について知ることができました。このうち右端の石塔および自然石は庚申塔で、字光月の高札場にあったものを移したとのことです。

 

17 鍛名命社の石造物

 こちらも駐車場がないので田中社からそのまま歩いて行くか、または普門寺(またの機会に紹介します)の近くの空き地に車を置いて歩いて行くとよさそうです。田中社からの道順を申します。田んぼの中の三叉路まで戻って右折し、その先の十字路を直進すれば鬼神太夫(きしんでえ)部落に着きます。この中ほど、右側の民家の背戸を入ったところに鍛名命社(かなみこしゃ)が鎮座しています。鍛名命社は紀新大夫行平をお祀りした神社です。

 紀新大夫行平は刀鍛冶の名匠です。相模国の生まれで、紆余曲折の末豊後に移り鬼籠や夷谷に暮らしました。以前、夷谷の記事で鬼ヶ城を紹介しました。鬼ヶ城も鍛名命社と同じく、紀新大夫行平に関する史蹟です。先に、下のリンクから「22 鬼ヶ城」の項をご覧になってください。

oitameisho.hatenablog.com

 鍛名命社を初めて訪れたとき、ちょうどすぐ近くにお住まいの方が出てこられて御親切にも鍛名命社の由来を教えてくださいました。曰く、行平の末裔である紀さんが地域に9軒あり、一統でお祀りを続けており年に2回、祭礼があるそうです。

 お社の左側には庚申塔五輪塔などが確認できました。五輪塔は、行平夫妻の墓標との伝承があるそうです。水仙を植えるなど手入れが行き届いています。

 拝殿の後ろには本殿(石祠)が鎮座し、その横には行平が刀を打ったという鍛冶塚が残っています。手前に少し写っている石がそれにあたるそうです。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼、4夜叉

 この庚申様は、近隣に類似するデザインのものが見当たらない、オリジナリティに富んだ秀作です。諸像に動きがあっていきいきとしており、しかも碑面いっぱいにたくさんの像が配されていますのでたいへん豪華で素晴らしいと思います。レリーフ状の浅い彫りですので立体感には乏しいものの、その分こまやかな文様までよう行き届いた表現がなされています。

 上から見ていきましょう。瑞雲には細かい鱗模様をほどこして、日輪・月輪に沿うて孤を描きます。主尊はお顔の表情こそ言えづらいものの、衣紋の細かいしわや裾まわりの文様がよう分かります。火焔輪の繊細な表現もよいし、弓などの武器の配置も通り一遍ではなく、斜め向きにて上に向かって広がり、雷天神様のような力強さが感じられるではありませんか。童子はめいめいに小首をかしげて主尊を仰ぎ、装束にはたっぷりとひだをとってほんに優雅な感じがいたします。主尊に踏まれた邪鬼は四つん這いで、尻を上げて上半身をぐっと下げ、今際の際の感があります。そして童子と邪鬼の下には線彫りで雲のような文様が施されており、主尊・童子はおろか邪鬼までも宙に浮いておるように見えます。

 鶏は邪鬼の下にごく小さく、斜めに段違いで表現されています。その真下には猿が3匹身を寄せ合うて、中央の子猿を親猿が左右から守っているかのようです。その両脇には夜叉が厳しい顔で鶏や猿を見つめています。鬼籠には4夜叉を伴う豪華な塔が数基見られるのですが、その中でもこちらの夜叉は動きがあって素晴らしい。

 案内してくださった方によれば、庚申講は現存しておらず庚申様単体のお祭りはしていないものの、鍛名命社の祭祀に合わせて庚申塔にもシメをかけ、お祀りしているとのことでした。

 

18 鬼の手形石(○ 地名「鬼籠」の由来について)

 鍛名命社について説明してくださった方が、「鬼の手形石」まで案内してその由来も教えてくださいました。鍛名命社のすぐ下から右に辿って、民家の背戸道を行きます。この道は旧道とのことですが今や通る人も少なく、やや荒れ気味でした。

 石垣の半ばにあるこの窪み、それと知らいで見ても全く分かりませんがこれが、鬼の手形石とのことです。

 確かに手形のような形をしています。これは、行平が鬼の形相で刀を打ち終え、この前を移動するときに手をついた跡との伝承があるそうです。鬼気迫る行平の鍛冶姿が鬼に結びつき、赤鬼が口から火炎を吐いて鉄を溶かし、それを素手で叩いて鍛えた云々。これが地名「鬼籠」の由来であると申します。

 

今回は以上です。本当は普門寺や竹ノ内の庚申塔なども掲載する予定でしたが写真がよくなかったので、また近いうちに写真を撮り直してから続きを書いていこうと思います。次回は八坂地区(杵築市)のシリーズの続きを書きます。

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