大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田染の名所めぐり その4(豊後高田市)

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 前回、田染の散策コースの一例として大曲部落をめぐりました。今回もお勧めの散策コースとして、大字小崎のうち空木(うつぎ)部落周辺を紹介します。道がたいへん狭いので大曲と同じく歩いて探訪した方がよさそうですが、坂道が多く距離も長いので、運転に不安がなければ車でまわってもよいでしょう。歩いてまわるときは、「ほたるの館」を拠点にするとよいと思います。

 さて、空木周辺には谷筋に沿うて棚田跡・屋敷跡の石垣が方々にございまして、奥愛宕社をはじめとする霊場も数々、峠の溜池も含めてこの一帯に強く心惹かれるものがございます。今までに4回ほど訪れました。岩屋の探訪が甚だ不十分でありますが、ひとまず1本の記事を書く程度の写真はあります。大好きな空木周辺の名所旧跡の一部を今回こうして記事にすることができ、とても嬉しく思っております。

 

○ 小崎について

 田染シリーズの中でも、大字小崎(おさき)を紹介するのは今回が初めてです。それで、この地域について少し説明しておきます。小崎は下組・中組・奥組の3地域に大別されます。

下組(台薗・だいそん):上ノ原(うえのはる)、六郎園 …雨引社
 ※上ノ原と六郎園をあわせて台薗と称し、その中に東・西・裏迫(うらんさこ)の3組あり。

中組:原(はる)、七ツ屋 …愛宕
 ※無住:大平(愛宕池の南・戦後に七ツ屋と原の入口付近に移転)、弓切(愛宕池の西)、下ノ山・池内(七ツ屋の東)

奥組:堂山(どやま)、枡渕(ますぶち)、小藤(おふじ)、空木(うつぎ)…奥愛宕
 ※無住:合畑(小藤のシモ)、犬ヶ迫(小藤のカサ)

 このうち最も軒数が多いのは下組です。中組も、原と七ツ屋以外の小部落(夫々1~2軒であったようです)は消滅しましたが下組に次ぐ軒数がございます。ところが奥組の各部落は人口の減少が著しく、夫々1~5軒程度を残すのみとなっています。今回紹介する空木部落は奥組の中でも小藤と並んで最上流部にあたりまして、急傾斜の谷筋に数軒の民家が点在するという山村の様相を呈しています。

 一般に、小崎と申しますと台薗・原周辺の広々とした田園風景を思い浮かべる方が多いと思います。でも、弓切の田の跡地(椎茸のホダ場)、空木の棚田跡(くぬぎ林)などもまた、小崎の大切な景観なのです。また空木峠池や愛宕池などの溜池、方々のイゼ、田越しの灌漑など、この一帯の水利についても盛んに研究されておりまして、圃場整備がなされていない昔ながらの田の形とあわせて、農業文化遺産として注目されています。この点については不勉強なので、このシリーズでは名所旧跡や石造文化財を主に紹介していきたいと思います。

 

17 空木の垢離場

 ほたるの館を起点に説明します。徒歩ならここから弓切経由で枡渕に抜ける道が便利ですが舗装が悪いので、車の場合はほたるの館の下の道を少し横嶺方面に行き、「奥愛宕社 空木 小藤 枡渕 堂山方面へ」の標柱を左折して堂山経由で枡渕に抜けるとよいでしょう。枡渕で弓切経由の道に出合います。右に民家を見て、十字路を正面奥に進みます。その角には枡渕のお地蔵様がございます。

 ここから道が狭くなります。右に棚田跡の石垣を見ながら進むと、二股の中央、急坂の上に米山のお稲荷さんの鳥居があります。今回はこの二股を右にとり空木を目指します(左は小藤へ)。ここから先はちょっと不安になるような狭さですが普通車までなら通れます(離合不能)。空木部落に入り下手の数軒を右に見送って、右に急カーブするところの左側に垢離場、庚申塔、大山観音岩屋への上り口があります。このすぐ先の道路端に駐車場があります。

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 説明板の内容を転記します。

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(上の説明板)

垢離場
例祭では、氏子代表者が垢離場にて水浴により心身を清め祝詞を奉上し、その後、愛宕社にて舞錐で火を起こし神事が行われる。

(下の説明板)

垢離場です
 昔、山伏や愛宕社で修行する人のため使われておりました。大変立派なものでよくできております。深さは2mあります。
 愛宕社で修行する人は7日間水浴して身を清め、参拝して御加護をお願いしました。
 田染八幡社の秋祭(11月18日)の神輿をかつぐ若者(与丁)も7日間の水浴をして身を清め、秋祭に参加しました。

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 一点補足しますと、この説明板の中にある「愛宕社」とは奥愛宕社のことでしょう。奥愛宕社とは中組の愛宕社との区別のためにそのように呼ぶのであって、奥組においては単に愛宕社と呼んでいるそうです。

 垢離場の写真は冒頭に掲載しました。渓流がどんどんになったところが甌穴状になっていて、水浴ができるようになっています。少しは人の手が加わっているのかもしれませんが単にその地形のみを見ましても自然美が感じられますものを、まして垢離場として民俗的な意味合いをも兼ね備えているのですから、自然・文化双方の価値のある名所といえましょう。それにしても11月のお祭りの前に7日間も連続で水浴をするとは、並大抵のことではございません。さぞや冷とうございましょう。

 

18 空木の庚申塔

 垢離場から右側の崖上を見ますと、庚申塔と石灯籠が立っています。近寄るには崖をよじ登るしかありません。以前訪れた際には雨上がりでよう滑りましたので諦めましたが、今回はじめてそばに寄ることができました。

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青面金剛6臂 ※3猿・2鶏は欠損

 崖上の庚申塔はずいぶん傷みが目立ちます。猿と鶏の部分が欠損しているほか、主尊の像容もぼやけてきています。眼をぎょろりと剥いて堂々と立つ姿は、どことなく石造仁王像の立ち姿と同じ方向性の怖さ・剽軽さが感じられます。この塔には興味深いエピソードがございまして、この崖下に詳しい説明板が立っています。

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 説明板の内容を転記します。

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世にも不思議な庚申塔
 空木には地上10mの岩の上に庚申塔を祀ってありました。平成16年9月7日に台風18号の強風により庚申塔が吹き飛ばされ、大山川に落ち、200m下流の水溜りまで流されました。
 平成17年3月19日庚申塔が水溜にあるのを河野繁利氏が発見し、庚申塔を水溜より引き上げ大きい岩の上に置いて乾かしてありました。庚申塔のサル3匹とニワトリ2羽は、石に当り欠けてなくなっておりましたが、神様は何の異状もありませんでした。誠に不思議でありました。
 平成17年3月20日、何者かに庚申塔がとられましたが、空木の人は誰も知っておらず紛失したものと諦めておりましたところ、平成17年3月25日の夜、5日ぶりに何者かが庚申塔を元の位置近くに戻してあるのを3月26日に発見し、空木の人は、この不思議な出来事に大変驚きまた喜びました。
 持って行った人に何らかの異変が起きたことだろうと想像し、また庚申塔も元の空木に帰りたかったのだろうと話し合いました。平成17年4月27日空木の全員が出て、地上5mの立派な位置に庚申塔を安置し、悪疫退散、招福除災、農作物の豊作、交通安全を祈って、末永く大切にし、進行していくものであります。
   平成17年6月吉日

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 まったく不思議なことがあったものです。転落する前は、今の倍の高さの岩の上にお祀りされていたとのことです。今の場所でもずいぶん高う感じましたものですから、驚きました。垢離場の説明板と駐車場の中間辺りに山に登る急坂がありましたので、もしかしたらその道を行った先に立っていたのかもしれません。

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 補修の痕が痛々しいものの、説明板にもありましたように主尊が傷まずにほんによかったと思います。隣に立つ灯籠は、元の場所からこちらに移したのでしょう。足場が悪いので無理に上がらず、下から見学・お参りをされることをお勧めいたします。

 

19 大山観音岩屋

 庚申塔の下から、左に垢離場を見て川べりの道を歩いていけばほどなく右側に岩屋がございます。そう遠くありませんので、ぜひお参りをしてください。

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 岩屋と申しますと岩の上部がオーバーハングしたような形状の地形が多うございますものを、こちらは浅い洞穴状になっています。仏様をお祀りしている棚も、よその岩屋は自然地形を利用して壇をこしらえていますが、こちらは石垣を組んでこしらえております。道沿いにありますので簡単にお参りすることができます。

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 お供えがたくさんあがっていて、信仰が続いていることがわかります。

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 岩屋の奥には、すらりとしたお観音様が安置されています。優しそうなお顔を拝見いたしますと、心が穏やかになります。さてもありがたい大山観音様でございます。

 こちらの岩屋は説明板がありませんでしたので詳細は不明です。空木周辺には「ロクロ岩屋」「りょうさんが岩」「茅場堂」「ろっこ様」等の岩屋があるそうですが、それらは山道を攀じていく難所で、道順が難しそうなのでまだ訪ねたことがありません(茅場堂のみ挑戦しましたが行き当たりませんでした…後述します)。地元の方の案内がなければ辿り着くのは難しいようです。六郷満山の峯入の古い手引き書には「道無し」「山越むつかし」「案内なくてなりがたし」「案内雇いてよし」等の文言が並んでいるとのことで(豊後高田市のホームページにて説明あり)、この一帯の峯道の荒廃や地形の険しさが感じられます。ところがこちら、大山観音岩屋は非常に容易い場所にございます。六郷満山の峯入とは関係のない岩屋なのかもしれません。

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 大山観音岩屋の道を奥に行くと、谷を詰めたところで右に折り返して、写真のような崖道が続いています。これを行けば、空木部落のうちカサの方の民家下の墓地辺りに出ます。車道ができる前の旧道かもしれません。道が悪いので、観音様にお参りしたら引き返して車道を辿る方がよいと思います。

 

20 奥愛宕

 垢離場近くの駐車場から先はいよいよ道が狭く、空木のカサの民家近くでは急な上り坂の半ばで川を斜めに渡るところもあります(欄干なし)。普通車までなら通れますが運転に難渋しそうな道ですので、無理をせずに歩いて行った方がよいでしょう。もし車で行く場合は、貯水タンクのところを右に折り返して上がれば立派な駐車場が整備されています。

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 参道入口の鳥居です。この右側には鶏亀地蔵堂がございます(写真はありません)。お参りをしてから愛宕様に向かうとよいでしょう。ここから先は鬱蒼とした森の中を、人が1人分の幅の細い参道が奥へ奥へと伸びています。

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 説明板の内容を転記します。

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火伏の神を祀る 奥愛宕
 奥愛宕社は養老6年(722年)に創建されたと伝わる歴史の古い神社で、田染荘小崎の奥と呼ばれる地域(空木地区・小藤地区)から厚く信仰される神社です。樹齢千年ともいわれる御神木の榊は、幹周り150cmを超える大木です。
 祭神は火を司るとされる火産霊神であり、現在では毎年7月のお祭りの際に、地区の名前にもなっている空木(卯の花)を使って火を起こす献灯の神事が行われます。神事がおわると「火迺要慎(火の用心)」と書かれた祀符が参拝者に配られ、1年間の火に関する災いを退けるとされています。
 神社の裏手に聳える岩峰は、奥ノ院の岩屋などがある神聖な場所で、六郷満山の僧侶達や山伏達の修行場でした。六郷満山の峯入では、奥愛宕社の参道手前にある「鶏亀地蔵堂」が霊場に数えられ、さらにそこから山に入って、幾つもの岩屋・岩峰を越えて高山寺に向かったとされています。また、日出の蓮華院(現・蓮華寺)の山伏達によって、愛宕信仰が当地にもたらされ、奥愛宕社の本殿には愛宕権現と表裏一体と考えられていた「将軍地蔵」が祀られています。

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 説明板の中に「田染荘小崎の奥と呼ばれる地域(空木地区・小藤地区)」とありますが、堂山と枡渕の住民もこの神社の氏子のはずです。単に書き忘れか、または何らかの理由で氏子を外れたのか、気になります。

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 このように緩やかな傾斜の、気持ちのよい道が長く続きます。さても厳かなる社叢を右に左に縫うて行けば、湿り気を帯びた緑の風に身も心もかろくなりましょう。嬉し楽しで歩を進めますと、最後の方はやや傾斜が増してまいります。雨上がりには少し滑るかもしれません。

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 御神木のしゃかきです。あまり大きくて全体を上手に写すことができませんでした。

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 拝殿の横から裏に回れば本殿がございます。後ろには対の新しい仁王像、その手前の旧の仁王像は片方のみ残っています。狛犬も控えて、めいめいの像は小さいものの威厳に満ちた雰囲気がございます。

 写真を掲載した説明板とは別の説明板に、簡単な地図が描かれています。それによれば奥の院は「道無し」とのことで、山中を右に左に捜し回りましたがそれらしいところに行き当たりませんでした。ご存じの方に案内してもらわないと、なかなかむつかしいようです。

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 大きな目が目立つ狛犬です。経年の風化摩滅により角がとれて全体的に丸みを帯びておりまして、その表情とは相反してなんとなくかわいらしい雰囲気も感じられました。

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 残っている方の旧の仁王像も、破損が目立ちます。もしかしたら神仏分離の際に壊されたものを後から補修したのかもしれません。

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電気寄附者

 

21 空木峠池

 奥愛宕社駐車場下から車道を道なりに登っていけば、陽平(ひなたびら)から高山寺に抜ける林道に突き当たります。その角にあるのが空木峠池で、田染地区の農耕の歴史において重要な意味をもつ史蹟でございます。こちらは、軽自動車であればどうにか上がれます。途中より道幅が狭くなり、落石が目立ちますので普通車はやめておいた方がよいでしょう。軽自動車でも胆を冷やす場面がございます。もし奥愛宕社まで車で上がった場合も、そこから先は徒歩が無難です。

 空木峠池への道半ばに、右に上がる分かれ道の入口に「カヤバ入口」の立札がございます。茅場堂への上り口だと察しがつきましたので、ヤレ嬉しやと歩を進めました。ところが山中にて昔の山越道や作業道が右に左に分かれており、しかも地籍調査のピンクテープが点在しておりましてそれに惑わされて、枝道を行きつ戻りつしたのですけれども残念ながら茅場堂には行き当たらず、そうこうしていたら池の土手の下手に抜けてしまいました。茅場堂は、小崎のお接待の際に最もカサに位置した札所とのことで、子供達もお参りに上がったのですからそう難しい場所ではなかろうと踏んでいたのですけれども、見つけられずに残念なことでございました。またいつか挑戦してみようと思います。

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 池の横に立派な説明板がございまして、これを読むとこの池がどれほど重要なものであるのかよう分かります。内容を転記します。

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永代村の宝池「空木池」
 田染荘小崎の空木地区を上りつめた峠にある空木池は、天保7年(1836年)に完成した巨大な溜池で、多くの人々の知恵や労力によって築立がなされました。
 水の少ない国東半島では、小規模な溜池を連結させて水を節約していました。江戸時代前期の田染荘小崎の様子を描いた村絵図でも、愛宕池・キレイケという2つの池を用いていたことが分かります。それでも当時は水不足に陥ることが多く、特に池の上手の水田では水資源を確保することが難しかったと推測されます。
 田染荘小崎の人々の悲願とも言える峠の大池の築立に立ち上がったのは、島原藩から派遣された奉行・高橋弥兵衛正路でした。正路は一足先に新池の築立に完成した上野村の渡辺伝左衛門に知恵を借りながら工事に臨みました。
 空木池の普請は2ヶ年で行われ、「重い生木を使わず、古家の材木や枯木を用いる」「人夫の寝泊りのための納屋を建てる」「まかないは豆腐などにして、酒は少々にする」などの細かい指示の下、工事は順調に進みました。
 正路は空木池の工事を振り返り「空木池は『永代村の宝池』なのだから、その恩を忘れ、手入れをぞんざいにすれば水溜りは減り、修理を怠れば破損に至る。後の世になっても、先祖たちがこのように骨を折ってできたということを知らせ、池の扱いがぞんざいにならないように祈る」と記しています。

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 国東半島にはたくさんの溜池がございます。この池のように、築立の経緯等が今に伝わる池の方が少ないかもしれませんけれども、その一つひとつがこの地域を形作る文化遺産であるということにあらためて思い至りました。

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 この池は歴史的なことがらを抜きにしても、自然景勝地としてもなかなかの場所であると存じます。季節を選んで、麓からここまで遠足をしてお弁当を食べるのもきっと楽しいことでしょう。

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 谷筋から向こうを見遣れば、岩峰群が見えました。きっと間戸の岩峰群でしょう。

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空木峠池改修記念碑

 荒手(大雨の際に土手が切れないように一段下げた箇所)の横に、立派な石碑が立っていました。

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 説明書きを転記します。

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碑文
 空木峠池は、天保6年に田染荘の大庄屋であった河野通達が代官高橋弥兵衛正路に稟議し、ため池築造を図り、当時名望のあった安藤源三郎らが監督の任に当たり天保7年に完成したものである。
 築造後、長い年月の経過に伴い老朽化が進み漏水等が見られるようになり、結界の恐れも出てきた。このため、防災ため池整備事業峠地区として、平成13年度より工事に着手し、壱ヶ年の歳月と巨額の費用を投じこのたび完成に至ったものである。
 中世荘園の景観を今に残している小崎地区を受益とする本ため池の改修工事の完成により、地域の豊穣と更なる発展を紀念し建立するものである。
  平成15年3月

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 奥愛宕社から空木峠池に上がるには、車で行くには二の足を踏む道中ですが、歩いて行くのは簡単です(それなりの坂道・距離ではありますが)。みなさんに探訪をお勧めしたい田染名所のひとつでございます。なお、池まで車で上がった場合、路面が荒れているらしいので陽平あるいは高山寺に抜けるのはやめにして、来た道を下った方がよいそうです(落石注意)。

 

今回は以上です。この地域を探訪される場合、本文にて何度も申しましたとおり道が狭いので車の運転に十分気を付けて、もし心配なら無理をせず歩いた方がよいでしょう。このシリーズの次回も、大字小崎の名所旧跡の紹介を考えています。