大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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来浦の名所めぐり その4(国東市)

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 来浦シリーズの続きです。このシリーズの「その1」で、葛原部落跡の石造物を紹介しました。先日、葛原に住まわれていた方々が昔通行していた道を散策する機会を得ましたので、道順は前後しますけれどもその道の紹介から始めます。

 

16 葛原道

 県道544号を内陸方面に辿り、山口部落を過ぎたら人家が途切れます(今は山口が来浦谷の最奥部落です)。しばらく行くと、道路左側に国東ロングトレイルの「葛原古道」標柱があります。

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 この簡易舗装の坂道を歩いて上がります。車は、この下に突っ込めばどうにか停められます。ここから上がれば、山口・葛原間の往来に昔利用されていた山道(葛原道と仮称します)の途中に登ることができます。舗装はすぐに途切れて、道も乏しい斜面を赤テープを頼りに登ることになりますが、特に迷うようなところはありませんでした。

 さて、葛原道には4つもトンネルがあります。個別の名前が分かりませんので、便宜上、葛原寄りのトンネルから順に第一、第二、第三、第四と番号を振ることにします。このうち第四隧道は崩れていて通行できません。私はてっきり、この写真のところから葛原部落跡までの間に4つのトンネルがあるものと思い込んでおり、そのうちの1つが崩れているのであれば迂回に難渋するであろうと踏んでこの道に立ち入るのを控えていました。それが今回、実際に辿ってみますと第一隧道と第二隧道の中間に出まして、葛原までは問題なく通行できることが分かりました。どなたにもお勧めできるような道ではありませんけれども、国東半島の昔を今に伝える史蹟でございます。トンネルや切通し、石垣等の構造物はもとより、右に左に曲がりくねった山道自体が、葛原の生活史を今に伝えているのです。安全に留意して通行すれば、自然探勝・史蹟探訪を同時に楽しむハイキングコースの一部として設定することもできるでしょう。

 なお、標柱には「葛原古道」とありましたけれども、おそらく昭和30年代までは現役の道であったと思われますので、項目名は「葛原道」といたします。

 

(1)葛原第一隧道

 葛原道に上がり着いたところにロングトレイルの標柱が立っています。これをしっかり確認しておきます。

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 いま、「岩戸寺」と書いてある方向から谷筋を登ってきてこの場所に出ました。ここから左(上がり着いて右)に行けば「葛原・第1トンネル ※トンネルキケン」、右(上がり着いて左)に行けば「三十仏へ ※トンネルキケン」とあります。これを見てほっといたしました。それと申しますのも、崩れているのはいちばん下のトンネルであると聞いておりましたので、標柱の左右それぞれに「トンネルキケン」とあるということは、この場所は崩れているトンネルよりも葛原寄りであるということが分かったのです。もちろん「トンネルキケン」ですから油断はできませんが、崩れたトンネルを迂回しなくてよいだけで儲けものです。

 ここから、昔の道を歩いて葛原方面にまいります。

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 道の左側には、ものすごい高さの岩峰が屹立しています。この一帯を岩戸寺耶馬と申しまして来浦谷きっての景勝地でございます。道のところどころに木が生えていますけれども、荷車が通れるほどの幅は保っています。こんな岩峰を巻くように道が通っているのです。ようまあこんなところに道を造ったものぞと驚嘆いたしました。

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 等高線に沿うて右に左にカーブしながら、なだらかに登っていく道筋です。傾斜がたいへん緩やかなので楽に通れます。このように尾根を回り込むところには切通しを設けています。荷車の通行を考慮したものと思われます。傾斜がなだらかなので、自転車や原付も通れたと思います。ここはまだよい方で、道幅のもう少し狭いところもありましたので、木や落石がない状態であったとて四輪の自動車は難しそうです。もしかしたらオート三輪程度であればどうにか通れたかもしれません。

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 第一隧道に着きました。断面は絵馬のような形で、完全なる素掘りでございます。巻き立てはおろか、コンクリ吹付もなされておりません。けれども状態は良好で、傷みはほとんど見られませんでした。土被りが浅いので、もし通行時の落石を懸念される場合には上を越してもよいでしょう。

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 通り抜けて、振り返って撮った写真です。今であれば、間違いなく彫り割りにするであろう土被りの浅さに唖然といたしました。

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 この道は、ただ山肌を削るのではなく石垣を積んで幅を確保してあります。かなり手の込んだ造りの、立派な道路であったことが分かります。やはりこの道は、「古道」と呼ぶほど古いものでもないような気がいたします。等高線に沿うて屈曲した線形によりなだらかな傾斜を維持し、石垣、切通しやトンネルなどの構造物を伴う道路は、明らかに荷車等の通行の利便性を考慮したものであると存じます。もっと古い時代の道は、このような線形ではなく尾根筋に沿うて急勾配を登っていることが多いのです。それは、歩いて通るだけであれば勾配が急でも距離が短い方を選びましたし、尾根筋を通る方が災害の危険が少ないためです。

 ここからさらに進んで葛原部落跡まで行こうかと思いましたが、時間の関係もありここで引き返しました。

 

(2)葛原第二隧道

 ロングトレイルの標柱まで引き返して、来た道に戻らずに「三十仏」の方向に進み第四隧道まで行ってみることにしました。

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 ロングトレイル標柱の少し先で、このような大岩壁の直下を通ることになります。落石を懼れて、なるべく近寄らないようにして歩きました。それにしてもものすごい迫力でございます。もしかしたら昔の方は、何か名前を付けていたかもしれません。

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 大岩壁の下を過ぎると、ほどなく安心して通れる気持ちのよい道になりました。この辺りは幅がかなり狭まっています。崖側に築いた石垣がみんな崩れてしまっていたのです。

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 正面に道が見えなくなったと思うたら、その先で直角に右に折れて第二隧道がほげていました。こちらは坑口が少し崩れてしまっています。見たところ内部の落石は少なかったので、さっと通りました。このトンネルを通らずに迂回するのは難しそうです。この先には第三隧道、第四隧道がありますが、不安な方はここで引き返した方がよいでしょう。

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 通り抜けて、振り返って撮影した写真です。向こう側が崩れて歪になっています。

 

(3)葛原第三隧道

 第二隧道を抜けますと、路肩の石垣が復活して本来の道幅をよう保っていました。

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 この辺りには、特に古道然とした雰囲気がございます。第4隧道が崩れておらず、こんな道を下まで辿ることができたらどんなによいでしょう。でもそれが叶わないのは分かっていましたから、せめてこの雰囲気を楽しもうと思いまして一歩ずつ、昔の方がこの道を行き来していたときの様子を想像しながら通りました。

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 見事な石垣でございます。この道は普請がどのような経緯でなされたのか気になります。そもそも、どのような扱いなのでしょうか。旧来浦町道でしょうか。今度国東町誌などを読んで、調べてみようと思います。

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 ほどなく第三隧道に着きました。坑口が、第二隧道よりもまだひどく崩れています。逡巡しましたがこの状態で今のところは安定しているようでしたので、さっと通りました。

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 入口は崩れた坑口の土砂が堆積していますが、それ以外は特にひどく傷んでいるようには見えませんでした。このトンネルは、入口の土砂を抜きにしてもかなりの下り勾配になっています。

 

(4)葛原第四隧道

 第三隧道を抜けると道の様子が一変しました。

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 路肩が大きく崩れて、道幅がたいへん狭くなっています。歩いて通る分には問題なく、特に危険を感じることはありませんでしたが、昔の様子をうかがい知ることは難しい状況です。路肩の崩れたあとにこれほど木が育っているのですから、この状態になって相当の年月が経っているのでしょう。

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 第四隧道に着きました。今までとは違い、洞内は漆黒の闇です。ここから左方向に迂回路らしき踏み跡がありましたが、今回はここで引き返しました。

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 先が崩れて、一筋の光も差しません。閉塞したトンネルは薄気味が悪いものです。よし通行人がなくなったとはいえ、昔の方が苦労して手彫りでこしらえたトンネルがこのように崩れてしまい真っ暗闇になっているのには胸が痛みました。

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 第四隧道辺りから、対岸の岩峰群が見えました。

 

17 来浦川源流の水神様

 元来た道を辿って、車まで無事帰り着きました。車に乗らずに県道をほんの少し上れば、左側の谷川の先に岩屋らしきものが見えました。

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 取水用のパイプが設置されているので、この谷川にはチョロチョロと水が流れるのみです。もう少し水が多ければナメ滝のようになって、紅葉の時季などほんによいでしょう。奥に見える岩屋から水が流れ出ているようです。

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 ありがたいことに、ロングトレイルの「来浦川源流」の標柱がありました。ここから岩屋のところまで道がついていて安全に通行できます。ほんの僅かな距離です。右側には棚田跡らしき段々が確認できました。

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 岩屋の手前まで来ると、奥からジャーと水の落ちる音が聞こえてきました。ここは取水パイプよりも上にて、いちめんに透き通った水が流れています。写真ではわかりにくいと思いますが、白く写っているのが乾いているところで、その周りは全て浅い流れがございます。これより上流には人家も田畑もないのですから、汲んで飲めそうなほどきれいな流れです。

 この奥がどうなっているのが気になって、アヒル歩きで進入しました。

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 実際はもっと暗いものの、何かの石造物が見えました。写真で見ると、3つの石造物が並んでいることが分かりました。銘は見えませんでしたが、水神様と思われます。その左手には岩の隙間から水が流れ落ちているのが分かります。

 まったく、水谷峠から葛原にかけて、いったいどれほどの史蹟があるのでしょう。この山深い景勝地にを探勝すれば自然の美しさに心が晴れてまいります。それと同時に、この険しい自然とともに生きてきた昔の方の暮らしを今に伝える痕跡がそこここに残っていると思うと、何か胸に迫るものがございます。

 

18 中村の弘法洞

 前回の末尾にて紹介した旧大聖寺跡からスタートします。県道544号を少し内陸部方面に後戻って、交叉点を左折しオレンジロードを進みます。山裾にてまた左折して陰平道を行きますと、道路右側にお弘法様の岩屋がございます。車はその前に停められます。

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 それなりに広い岩屋です。きっと、この場所でお接待を出すのでしょう。地域の方の信仰が篤いようで、掃除が行き届いています。ありがたくお参りをさせていただきました。

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 岩屋の奥に棚を彫り込んで、仏様が安置してあります。お灯明立てや花立ても用意されています。

 さて、お参りをしたらすぐ近くの庚申塔をたずねましょう。この岩屋の前から、右方向に舗装路が分かれています。その道と下の道路との中間に、未舗装の急坂が下の道路と平行気味に上がっています。その急坂を進み、道カーブするところから道を外れて適当に左に行け庚申塔が立っています。

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青面金剛4臂、2童子、1猿、2鶏

 立派な笠がよう目立ちます。側面は照屋根で、上部には棟木も表現されていますし、大きな破風も凝っています。軒口には垂木も刻まれています。主尊はずいぶん額が広く、顔のパーツが中央に寄っておりまして何とも珍妙なお顔でございます。衣紋なども含めて、異国風の雰囲気が感じられました。童子も、幅広の帯を締めて羽織をひっかけていますけれども、その衣文の下部には不自然に縦の線が何本も刻まれています。まるでスカートを穿いているように見えておもしろいではありませんか。横を向いて御幣をかたげる猿は、ただ1匹ですけれども存在感がございます。

 この塔は崖ぎりぎりに立っていて、この角度でしか撮影できませんでした。昔は下の道から見えていたと思いますが、今は木が茂って見えません。周囲も荒れ気味にて転落が懸念されます。可能であればお弘法様のところに下ろした方がよさそうな気がしました。

 

今回は以上です。葛原道はたいへん心に残りました。秋になったらまた歩いてみたいと思います。