大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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来浦の名所めぐり その1(国東町)

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 このシリーズでは国東町は来浦(くのうら)地区の名所旧跡を巡ります。来浦地区は大字岩戸寺(いわとうじ)・来浦・浜からなる地域で国東町の北端に位置し、その隣は国見町です。国道213号の改良が全線中で最後まで遅れていた地域なので、以前は国東市街地から来浦地区にまいりますとなんだか遠くまで来たような気がしておりましたが、今では道路がよくなってずいぶん便利になりました。

 この地域の主要な名所としては、岩戸寺と、旧大聖寺跡の五輪塔群がございます。一般的な観光名所としてはこの2か所に限られておりますけれども、それ以外にも水谷峠の渓谷や金毘羅大権現宮拝所、山口池などの景勝地や、五輪塔・国東塔・庚申塔などの石造文化財、歴史のあるお寺や神社、堂様などが目白押しの地域です。まだ探訪が十分ではありませんけれども、ひとまず写真のあるところをカサからシモへと順々に紹介していき、その後で追加があれば道順によらで適宜補っていくという形でシリーズを展開していきたいと思います。初回は来浦の谷の最奥部であります葛原部落跡周辺の名所・文化財と、水谷峠の磨崖仏、三十仏周辺の文化財を紹介します。

 

1 葛原の山神社

 沿岸部から県道544号を通って来浦の谷を遡ります。山口池の先で、左方向に文殊仙寺へと向かう道が分かれています。この辺りが現状では来浦谷の最奥の民家です。葛原はさらに山奥で、昭和30年代までは住民がありましたが今は無住になっています。

 道なりに水谷峠へと登っていきますと、右に左に折り返しながら渓谷を何度も跨ぐ山越道の様相を呈してまいります。この辺りから左に折れて、素掘りのトンネルを4つも通って葛原に至る道があります。昔、葛原の子供達はその道を通って通学したそうですが、今は4つあるトンネルのうち1つが崩れて通れませんので県道をさらに登ります。右方向に千灯岳と五辻不動の鞍部を通る林道が分かれているところを過ぎて、カーブが緩やかになってやや直線気味に登ると道路左側に葛原林道が分かれています。普通車までならどうにか通れる幅がありますが路肩が悪いのと、関係車両以外通行止めの標識があるので歩いていきましょう。その林道入口よりも少し手前の路肩に、1台程度であればどうにか駐車できます。

 林道を歩いていけば、道路左下に鳥居や仁王像、庚申塔などの石造物が見えてきます。葛原の山神社に着きました。葛原部落跡は植林されていますけれどもよく見ますと緩やかな段々になていて、屋敷跡・棚田跡が容易に分かります。林道から山神社に下る道も明瞭です。

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 最初に訪れたときはうっすらと雪が積もっていて、今や住む人もないこの山の中に残る神社に、なんとなくうら寂しい雰囲気が感じられました。でもお参りをいたしますと、まだ新しいお賽銭がいくつも上がっており途端に嬉しくなりました。里に下りた元住民の方や、ロングトレイルを辿ってハイキングをされる方、仁王像を見学される方のお参りがあるのでしょう。

 雪の中で撮った写真は薄暗くて石造物の様子が分かりにくいので、ここからは昨年秋に再訪したときの写真を掲載します。

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 鳥居の正面に仁王像が立ち、いかにも国東半島の神社らしい雰囲気でございます。小ぶりの仁王像は反り腰にて堂々たる立ち姿で、その表情も自信満々な感じがいたしまして、大きさの割には存在感がございます。その台座に「金剛」「力士」と分けて刻んでいるのもよいし、「剛」と「力」の字体が風変りで興味深うございます。鳥居の先には山の神様の石祠が残っています。石垣の様子から、以前は建物があったと思われます。

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 鳥居の横には庚申塔と仏様の厨子が傾いて立っていました。こちらの山神社は仁王像が盛んに紹介されておりますけれども、庚申塔もなかなか立派なものでございますので、山神社にお参りをされる際には仁王像だけでなく庚申塔も見学されてはいかがでしょうか。

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青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏、2夜叉、邪鬼、ショケラ

 もともと彫りが浅いうえに苔が碑面を覆い、しかも写真が悪いので諸像の姿が見えにくいと思います。実物を見れば、もう少し分かりようございます。上から順に見ていきます。まず笠の形がほんに優美ではありませんか。妻には日月・瑞雲が刻まれています!普通は塔身の上端に刻まれていそうなものを、笠に配しているのは珍しい気がいたします。これは主尊の天衣のような部分を枠いっぱいまで大きく表現できるようにした工夫でありましょう。御髪を逆立てた丸顔の主尊は、腕や脚を見ますとずいぶん線が細い感じがいたします。苔や風化摩滅により細部が不鮮明になっておりますが、間近に見ますと衣紋など細かい線彫りで丁寧に表現されていました。

 主尊に踏まれた邪鬼の左右には童子が控えています。どうも正面向きではなくて、夫々やや内向きになっているようです。成敗された邪鬼を憐れんでいるようにも見えてきておもしろいではありませんか。中段には夜叉が控えています。国東半島では、夜叉を伴う庚申塔は少のうございます。国見町は鬼籠の各部落には4夜叉を伴う庚申塔が点在しておりますし、国東町では小原地区など数か所に同様の塔がございますが、これは稀な事例なのです。その意味で、こちらは2夜叉ではありますけれども貴重ですし、オールスターといってもよい豪勢さが感じがいたします。下段では鶏が仲良う向き合い、その下では猿が散り散りに、めいめいに思い思いの所作で立っています。邪鬼の大きさに比して童子や猿、鶏がささやかで、かわいらしい雰囲気が感じられました。

 こちらの庚申塔享保3年、凡そ300年前の造立です。葛原部落の生活史の一端を示す貴重な石造物であるといえましょう。造立当時はこれだけ立派な塔を造立できるだけの庚申講を組織できる人口があったと思えば、感慨深いものがございます。

 

2 葛原の墓地の石仏

 山神社から屋敷跡の間の小道を下っていくと、墓原に出ます。その一角に印象深い仏様が安置されていました。

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 達磨さんのような造形で、拝み手が特徴的です。優しそうなお顔が印象に残りました。昔の墓碑は、お地蔵さんや五輪塔などいろいろな形がありますから、もしかしたらこちらも墓碑なのかなと思いましたが銘がなく、詳細は不明です。この先にも道は続いていますが時間の関係で引き返しました。

 

3 金毘羅大権現宮拝所

 葛原の山神社から林道に戻って、道なりに進みます。右方向に文珠山への支線を見送て、左カーブしてだらだらと下っていき、ロングトレイルの標柱を目印に左に折れて尾根伝いに進みます。

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 ほどなく視界が開けて、岩尾根の突端に碑銘が立っているのが見えてきました。両端は切れ落ちていますが幅広の尾根ですから、特に危ないこともなく容易に辿り着くことができてほっといたしました。

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金比羅大権現宮拝所

 逆光で文字が見づらいと思います。この地は遥か彼方に海を見晴らす景勝地です。昔は金毘羅大権現の代参講を組織した例もあったと思いますが、讃岐の金毘羅様までお参りに行くのは容易なことではありませんでした。それで、この場所から讃岐の方向を向いて遥拝したのでしょう。景観が素晴らしいだけではなく、昔の方の生活に根差した信仰の遺跡として貴重な碑銘でございます。現地に説明板はありませんが、ハイキングがてらこの場所に立ち寄る際には昔の方の願いに思いを馳せて見学されますと、より実りある道中になることでしょう。

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 この場所を訪れる際には秋か冬の晴天の日をお勧めします。山桜の時季はもっとよさそうですが、春霞で思うような景色は見られないかもしれません。

 

4 水谷峠の磨崖仏

 葛原から県道まで戻って、岩戸寺方面に下っていきます。渓流を何度も渡りながら九十九折で下って行くところのかかり、道路左側の高いところに心もとない梯子のかかった岩屋が見えます。そこから左手に旧道が分かれていて、その旧道沿いに磨崖仏があります。分かれ道を一旦通り過ぎて、分かれた旧道が現道に合流するところの端に車をとめて旧道を後戻るとよいでしょう。道なりに歩けば、道路右側の岩壁に磨崖仏が刻まれています。

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 衣紋のひだなどの優美な表現が見事な仏様でございます。これほど素晴らしい磨崖仏でありますのに、国東半島の磨崖仏群のひとつとして紹介されることはないようです。それと申しますのも年代が新しいからでしょう。簡単にお参りができる場所ですので、通りがかりにでもちょっと車をとめて立ち寄ることをお勧めいたします。

 

5 三十仏

 県道を下って、山口池付近の三叉路を右折して文殊仙寺方向に少し進みます。上り坂にかかる手前、道路右側に標識がありますからその細道を入ります。ほどなく道路左側に三十仏の鳥居と仁王像がございますのですぐ分かります。車は、この近くの路肩が広くなっているところにどうにか1台は駐車できます。

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 さても見事な造形の仁王像でございます。説明板の内容を転記します。

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町指定有形文化財
三十仏の仁王像
 参道入口に安置されている三十仏の仁王像は、銘文によると文政5年(1822)蜂之巣元助が施主になり、石工の安田九助・佐藤茂助によって造立。阿形像(総高178sm)は左手に持つ金剛杵を肩に構え、右手は拳にして腰にあてています。吽形像(総高178cm)は、左手を拳にして腰にあて、右手は肩の位置で拳を前に開いています。筋肉や裳の表現など、極めて装飾的な仁王像です。
 昭和40年10月1日指定
<銘文>
(阿形像)
 奉寄進
(吽形像)
 文政五午壬年
 三月吉祥日
 石工 安田九助
    佐藤茂
 施主 蜂之巣元助
 夫力 氏子中

 この地は六郷満山末山本寺岩戸寺の支配堂として位置づけられています。
 三十仏信仰は1か月30日を30の仏名に分け、8日は薬師、13日は釈迦、15日は阿弥陀、18日は観音、24日は地蔵というように、それぞれの日にそれぞれの仏が国土を守護するということです。
 三十仏と並んで六諸権現が祀られ、霊場として地区民の信仰を集めています。
   国東町教育委員会

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 8月24日を地蔵盆と申しまして、お地蔵様の盆踊りをします(今はずいぶん少なくなりましたが)。ほかにも18日にお観音様の盆踊りをするところもあります。それは三十仏の概念が元になっているということに思い至りました。

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 参道を登ってまいりますと、ものすごく斜めに生えている木がありました。印象に残った景観です。

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 参道半ばより右に分かれる道を上がると、牛の像と、その後ろの岩屋には2体の仏様が安置されていました。向かって右はお弘法様のようです。今は周囲が荒れ気味ですけれども、以前は札所巡りでお参りをされる方があったのでしょう。

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 元の参道に返って先に進みますと、最後は長い長い石段です。杉木立の中を一直線に登っていく石段の景観はなかなかようございます。

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 六諸権現に着きました。説明板には「三十仏と並んで六諸権現が祀られ」とあります。建物の中に仏様が寄せられている一角があって、そちらが三十仏と思われます。はじめは、途中の枝道で見かけた仏様のそのひとつでこの山中に三十の仏様が点在しているのかなと思うていたのですけれども、それらしい枝道はほかに見つけられませんでした。

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 権現様の左側の岩屋にも仏様が安置されていました。

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 このような場所が近隣に何か所もあるのかもしれません。時間がなくてゆっくり捜して回ることができませんでした。またお参りに上がる機会があれば、もう少ししっかり捜してみようと思います。

 なお、この場所から山道を登れば文殊仙寺からの道に合流して、先ほど申しました金毘羅大権現宮拝所経由で葛原に至ります。時間があれば周遊ルートを設定して、ハイキングを楽しむのもよいでしょう。

 

今回は以上です。来浦の名所めぐりはまだまだ続きますが、次回は中山香の名所旧跡の続きを書きます。