国東町のうち豊崎(とよさき)地区は大字横手・岩屋・原(はる)・赤松からなります。従来、農林業により生計を立ててきた地域で、いくつもの枝谷のかなり奥まで棚田や段畑が残っています(耕作放棄地も増えています)。谷筋に沿うた農村の風景と川筋や山の自然景観が相俟って、非常に風光明媚な土地です。しかもこの地域は名所旧跡のすこぶる多く、特に泉福寺や行入(ぎょうにゅう)ダム(行入耶馬の景勝)は遠方の方にもよう知られています。ほかに行入寺や神宮寺など数々の古寺や、赤松は宇土の弘法霊場など枚挙に暇がありません。また、特筆すべきは石造文化財の豊富であることです。もっとも国東半島は一列に石造文化財の豊富な土地柄でありますが、とりわけ豊崎地区には庚申塔の優秀作が数多いように感じます。
年中行事としては、高良部落のホーヤク祭りが著名です。ほかにも、以前はお接待や供養踊り、庚申様、お宮のお祭りなどいろいろな行事が方々の部落で行われていましたが、人口の減少とともにだんだん下火になっています。特に盆踊りは、地域を離れて久しい方は懐かしく思い出されることでしょう。初盆の家の坪や堂様、公民館などに、虫の音のすだく中を「六調子」ののろまな口説と太鼓が響き、微妙な足運びでクルリと回り込んでは千鳥に流していく所作は素朴ながらも優美を極め、たいへんよいものです。今も高良など数か所に残っています。
このシリーズでは豊崎地区のよいところをたくさん掲載したいと思います。初回は大字横手の石造文化財を、庚申塔を中心に4か所紹介します。今回出てくる庚申塔は、いずれ劣らぬ秀作ばかりです。
1 日迫の庚申塔
日迫の庚申塔は、豊崎地区に数ある庚申塔の優秀作の中でもとりわけ素晴らしい造形です。横手上分公民館前から少しカサに行って、1つ目の角を右折して大字見地(けんぢ)方面への山越道に入ります。人家が途切れて最初の角を鋭角に右折します。この先は道が狭いので、心配な方はよそに停めて歩いた方がよいかもしれません。そう遠くないところで右側の路肩が広くなっていて、そのすぐ先の左側に壊れた石段があります。この石段を登り詰めたところに庚申塔が立っています。車で来たときは一旦通り過ぎて少し行き、次の広いところで転回して戻ってきてから駐車した方がよいと思います。
石段はこの状況ですから気を付けないと見落とします。上から下までめちゃくちゃに壊れてしまって、危険な状態です。ぐらつきも多々ありますので、特に下りは気を付けないと大怪我をしかねません。それはもう見事な庚申塔ですけれども、状況によっては諦めた方がよいでしょう。
頑張って上ってきて、5年以上前に訪れたときにくらべるとものすごく荒れていたので気が塞ぎました。でも庚申塔は全く傷んでおらず、一安心といったところです。
これは素晴らしい!眷属の多さ、碑面いっぱいに諸像を配した賑やかさは言うに及ばず、夫々の表現がたいへん細やかで何から何まで行き届いています!これほどまでのお塔は稀であると存じます。この山中にあっては平素の維持管理に難渋されていることが推察されますが、大切に保存されることが望まれます。国東町を代表する庚申塔のひとつと言えましょう。では、上から見ていきましょう。
日輪・月輪と瑞雲は線彫りに近く、図案化を極めます。お花模様に見代えの、風流な表現です。そして鶏以外が配された大きな区画の縁取りを見ますと、側面はかっちりと角を立てているのに対して、上部は擂鉢状のなめらかなカーブにて奥側に角を立てない彫りになっています。主尊は厳めしさを極める、さても恐ろしいお顔つきで、一目見て胆が冷えました。腕の収まりや宝珠、弓、三叉戟などの武器もたいへん写実的な彫りです。特に見事なのは衣紋の表現で、下衣の細やかなひだ、ドレープ感のあるカーブなどたいへん立派ではありませんか。頭身比なども違和感がありません。ショケラは横向きで主尊にすがりつくような姿勢で、その頭は主尊の手に隠れています。
童子は手先を袖に隠して前に打ち合わせており、ほんに奥ゆかしいではありませんか。右の童子は杓をとっています。左の童子は帯や帯揚げも丁寧に表現されています。夫々蓮の花に乗っており、その根方が猿の足場に自然につながります。夜叉は、単純に横並びにするのではなくて前後に重ねてありますから、碑面の横幅に対して大きめに表現することができています。威張った雰囲気がよう出ていますし、髪型も表情もみんな違います。鶏は、仲良う向かい合うかと思えば、雌鶏が首を捻じ曲げてプイっとそっぽを向いているのもまた面白うございます。
明和六巳己丑年 八月十一日
260年以上も経過しているとは思えない保存状態に感銘を覚えます。縁を少し打ち欠いてあるほかは全く傷んでいないのですから。台座には18名のお名前がくっきりと残っています。
2 馬爪の石造物
日迫の庚申塔から元来た道を車で後戻り、旧県道に出たら右折します(横手上分の公民館からなら直進)。すぐさま右折して高良(こうら)方面に進みますと、ほどなく左側に堂様があります。その石段の下に邪魔にならないように車を停めたら、堂様の坪に上がって左奥へと歩いていきますと石灯籠と石祠が並んでいます。
写真では見えづらいと思いますが、右の石祠の側面には仁聞菩薩の開基による旨が彫ってあります。この辺りにお寺があったのでしょうか?
右)稲荷明神
左)山王権現
このように1つの石祠に2つのお部屋があって、異なる神様をお祀りしてある事例はときどき見かけます。これまでにも何回か紹介してきました。戸の文字が、写真では分かりづらいと思います。実物を見ればすぐ分かります。
瑜伽宮
以前にも申しました通り、瑜伽(ゆが)宮様の大元は岡山県にあります。瑜伽権現は神仏習合の神様で、その本地は阿弥陀様と薬師様であると申します。金毘羅権現と同じく一生に一度は参詣すべき大権現であるとして、瀬戸内海一円において絶大なる信仰を集めてきました。
石祠の前を通って奥に行くと庚申塔が立っています。ところが、獣害予防柵に阻まれて近づくのが容易なことではありません。崖口から強引に回り込もうとして転げ落ちてしまい、痛い目にあいました。石祠よりも少し手前から下の段に下りて、横移動して柵の向こう側によじ登るしかないでしょう。
奇抜を極めるデザインがたいへんおもしろく、これほど個性豊かな庚申様は近隣在郷でも稀であると存じます。主尊や夜叉の像容は言うにおよばず、主尊と童子の足場が宝篋印塔の笠のように段々になっているところなど、何もかもが異国風と申しますか、たとえば鶏や猿のところなどもエジプトの壁画風の雰囲気が感じられました。表現方法には稚拙なところもありますけれども、独創性に富んだ秀作であると言えましょう。
瑞雲を額部いっぱいに、見切れるのも厭あわで荒っぽく彫り出している点からしてただものではない感じがしいます。主尊と童子、それから宝篋印塔のような足場の区画は、外枠から一段下げて、さらに舟形に彫りくぼめてあります。主尊の炎髪はどこか外国のお祭りの被り物のように見えました。パーツが中央に寄った不気味な顔地で、腕は昆虫のようにカクカクと自由奔放に曲がり、鉾などの持ち物も漫画的な表現でおもしろいではありませんか。しかも、たっぷりとしたヒダをとったウロコ模様のドレスのような衣紋をまとい、足先は直角に外向きになっています。この種の表現は、それ単体で見ますとあまり優れたデザインとは言い難いかもしれませんが、全体の雰囲気とよう合うています。童子がまたおもしろくて、何か平べったい帽子をかぶり、左の童子など主尊に竹やりで攻撃しているように見えますのもほんに奇天烈なことでございます。主尊と童子が非常に豪勢な足場の上に立っていることも見逃せません。
その下の区画では異常に脚の長い鶏が仲良う向かい合い、それを追従するように腰の曲がった猿が控えておりますのも、何かお化けの絵のようです。夜叉もまた尋常ならざるデザインで、頭や鉾で上の足場を支えています。
元禄十年
凡そ325年も前にこのデザインを考案した石工さんの、類稀なるアイデアに脱帽いたしました。斜めからみると、あの高級な足場の立体的な彫りがよう分かります。
3 尾ノ鼻の石造物
県道に返って行入方面に進みます。高皿バス停の二股を右にとって旧道に入り、しばらく行くと人家が途切れて、右に折り返すように意味ありげな坂道があります。
この坂道を上ったところに、庚申塔、石祠、お弘法様、西国三十三所の塔などいろいろな石造物が並んでいます。ちょうど道幅が広くなっているので、駐車場所には困りません。
上りついたら、大きな灯籠が目に入ります。その左の御室にはお弘法様、上段は大神宮の石祠と庚申塔、写真には写っていませんが右に西国巡礼の塔があります。順番に紹介します。
村長
利行五右エ門
弁指
本多仁助
横手村上分
新五兵エ
世話人
孫右エ門
近太良
菊右エ門
この灯籠は大きさもさることながら、猫脚のところの唐獅子が見事なものです。毛並の細かい渦巻模様などがよう残っています。台座には村長、弁指、世話人などのお名前が彫ってあります。横手村上分と申しますのは、村内が上組と下組に分かれていて、そのうち上組(上分)の長(肝煎)が新五兵衛さんという意味でしょう。「衛」の略字としては一般に「ヱ」を用いますが、ここでは「エ」と書いてありました。
この面の下部には「三■」「四■」などの下に数名ずつの名前が彫ってあります。■の字の読み方が分かりませんでした。寄附金の一覧でしょうか?
大きな笠の上には植物が根付いています。
(左)奉■西国三拾三所供養
(右)奉順禮西國供養塔
右のお塔は蓮台が凝っています。実際に西国参りをするのは夢のまた夢であった時代には、高いところからその方向を遥拝し、供養塔に参拝される方が多かったと思われます。或いは、泉福寺裏山の観音霊場(またの機会の紹介します)にも何らかの関係があるのかもしれません。
石を組み合わせて御室をこしらえてあります。台座には明和5年の銘がありました。この種の、坐像のお弘法様としては比較的大きいものであります。
大神宮
石祠というよりは、全てが石造りのお宮です。特に垂木の丁寧な表現が素晴らしい。しかも部分的に青い彩色が施されています。下部には「夫力村■」とあり、■は苔で隠れていますが蓋し「中」でありましょう。その並びからぐるりに寄付者名簿がずらりと刻んであります。そのお金の単位は「円」「銭」です。
こちらは、全体のフォルムに大きな特徴がある塔です。上部が、玖珠方面で見かける猿田彦の庚申塔を見たように前屈し庇のように張り出しています。そこから大きく彫りくぼめて諸像を配しているわけですが、日輪・月輪・瑞雲の彫ってある位置が意表をついていると思いませんか。奥行きの角のところで主尊の炎髪が見切れてしまっており、それを切替線となして上面に日輪月輪を配したアイデアは特筆ものでありましょう。
主尊はお慈悲の表情です。衣紋の下部などずいぶん複雑な表現であり、この箇所など紋様自体は丸みを持っておりますのに、この塔の特徴とて諸像の彫り口が角ばっており面を立ててありますから、全体的に非常にくっきりとした印象を受けました。童子はごく小さく、左右で表現を違えてあるのがよいと思います。足元は、馬爪の庚申塔ほどではありませんがこちらも段々をこしらえています。猿と鶏は、一見して分かりづらいと思いますが中央に鶏2羽が向かい合うて、その外側から猿が追従しています。全部動きが違い、生き生きとした表現がよう工夫されています。しかもその下は波模様になっています。全体的に左右の対称性を崩していながらもまとまりが感じられる、たいへん優れたデザインです。
元禄七甲戌天
この角度で見ますと上部の張り出しようがよう分かります。
4 山川の石造物
山川(やまご)の山の神様の隣に立っている庚申塔は、尾ノ鼻の庚申塔とよう似ています。大型で彫りが細かく、しかも状態がすこぶる良好ですから、見学をお勧めします。詳細は下のリンクより過去の記事をご覧ください。
今回は以上です。次回も豊崎地区の続きを書きます。