大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

国東の名所めぐり その3(国東町)

 前回に引き続き、国東地区の名所旧跡をめぐります。今回は大字鶴川(つるがわ)の庚申塔を中心に紹介します。適当な写真がないところは飛ばしているので道順が飛び飛びになっていますが、実際には近距離に神社、堂様、各種石造物、懐かしい町並みなどといった見所が密集しています。今後の探訪が楽しみな地域のひとつです。

 

9 江月山観音堂(その1)

 国道213号沿い、「くにさき公園」入口から武蔵方面に少し進み、橋を渡ってすぐ、ガソリンスタンドのところを左折します。すぐさま二股になっていますのでこれを左折し、辻を道なりに右折します。少し行くと左側にある、塀で囲まれた堂様が江月山観音堂です。道路に面して、入口に仁王様が立っているのですぐ分かると思います。ここは大字鶴川(つるがわ)は今在家(いまざいけ)部落のうち、港町です。

 さて、仁王様は適当な写真がないのでまたの機会として、今回は観音堂の坪にある宝篋印塔と庚申塔を紹介します。それで、ひとまず項目名に「その1」と付記しました。またいつか仁王様などの写真を撮り直すことができたら、このシリーズの続きの記事に「江月山観音堂(その2)」の項目を設けたいと思います。

 冒頭の写真をご覧ください。この宝篋印塔は塔身が3階建てになった豪勢なものです。2層のものはときどき見かけますけれども、3層になっているものは少ないように思います。だいたい、国東半島で見かける宝篋印塔は塔身が1重であり、笠の隅飾りも形状など見ても古い形を残すものがほとんどです。比較的時代が下がるもの(江戸時代以降)としては文殊仙寺や清浄光寺などの、大型のものが知られています。江月山観音堂の宝篋印塔は隅飾りが破損しているのでその形状から推量することは困難ですが、おそらく江戸時代以降のものでしょう。

 相輪は上に行くほどすぼまります。宝珠の欠損や笠(隅飾り)の破損が惜しまれてなりません。最上層の塔身には四面に梵字を彫ってあり、この部分の状態は良好です。中層には銘文(漢文)をびっしりと彫ってあり、下層には何名もの戒名が彫ってあります。各層の中間にある蓮台は花弁を二重にこしらえてあります。花びらがやや大造りで、よう目立ちます。

(左)青面金剛

(右)青面金剛

 宝篋印塔の横には、4基の庚申塔が並んでいます。そのうち2基は文字塔で、小型の素朴なものです。左の文字塔は碑面の上部に縁取りをなしています。右の塔は上部に日輪・月輪が見てとれます。銘の字体が立派で、筆文字の線の特徴をそのままに彫ってあります。

 2基の刻像塔は夫々個性豊かな造形です。1基ずつ順番に紹介します。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 この塔には個性的な箇所があり貴重な作例と思われますが、中央で断裂しており、その継ぎ目が目立つのが惜しまれます。上から見ていきましょう。日輪・月輪と瑞雲が素晴らしいではありませんか。日輪と月輪の高さを違えて、額部を埋め尽くすように複雑な曲線で瑞雲を表現してあります。綿菓子を薄くちぎったような雲がかかって、おぼろげな様子の空の雰囲気があり、ほんに風情があります。下の縁取りが左右非対称の波形をなしておりますのは主尊の頭や弓に干渉しないようにとの意図でありましょうが、ちょうど瑞雲の雰囲気にもようマッチしていると思います。

 主尊のお顔はさても厳めしく、かつ不気味な雰囲気で、白目勝ちの目をつり上げ、口をヘの字に結んでいます。お顔のすぐ横に棍棒を掲げておりますのも、厳めしさに拍車をかけています。異常なる大きさの弓もまた、ただものではない感じがいたします。断裂箇所をはさんで、その下はたっぷりとひだをとった袈裟懸け、裾まわりはドレープ状の段々になっており豪勢な感じがいたします。

 童子レリーフ状の彫りで、両手を袖に隠すようにして前で打ち合わせています。その真下には鶏が、これまたレリーフ状の彫りで素朴な姿を見せます。主尊の足元の狭い部屋の中には3匹の猿が寄り添うており、彫りの浅さと傷みによりめいめいのポーズの判別は困難な状況です。

 享保8年、ちょうど300年前の造立です。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 こちらも、お隣の刻像塔に比肩する個性的な塔です。まず塔身の上端を舟型に尖らせてあり、その頂点からのカーブがほどよい曲がり方でなかなか格好がようございます。その頂点とカーブの外側附近に3つの瑞雲を配して、めいめいが牡丹くずしの風情で風流な感じがいたしますし、日輪・月輪がそれぞれ浮き彫りになっておりますのも照り輝く雰囲気が感じられてなかなかよいと思います。

 日輪・月輪のすぐ下の縁取りは中央を尖らせて、この隙間にめり込むように主尊の御髪が接しています。櫛の目もよう残り、鬢をテクノカットのように切りそろえたハイカラな髪型です。眉間の皺から眉を引き、白目がちな目と接しており鼻は高く、それに対して下唇の目立つ口許がちぐはぐな感じがいたします。たいへん印象深い、個性的なお顔立ちといえましょう。短い腕は付け根が離れて段違いになっており、持ち物もささやかな表現です。体の表現などあまり見かけないもので、側線を省いておりますので段々になった衣紋のひだがことさらに目立ちます。尋常ではない足の短さも相俟って、珍妙な雰囲気が漂います。

 主尊の立つ台系の足場の中に2匹の猿がしゃがみ込んで寄り添い、その両脇には童子が立って合掌しています。お供えで隠れておりますけれども、最下部には大きめの鶏が向かい合わせになっており、少し頭をさげて餌をついばむような姿勢になっています。

 享保7年、今から301年前の造立で、お隣の塔とたった1年しか違いません。同じ講組で、刻像塔を2年連続で立てるというのは費用面に困難が生じるように思いますし、そもそも庚申塔というものは待ち上げで立てるものですから、両者は別個の講組による造立と思われます。近隣の別の場所にあったものが、何らかの事情で堂様に移されたのでしょう。

 

○ 盆踊りと精霊流しについて

 昔は国東半島全域の多くの部落で、一連の盆行事が旧暦から月遅れになってもなお、一夏に何回も盆踊りをしていました。初盆の供養踊りはたいてい8月13日か14日で、15日には宮踊りや戦没者供養、魚霊供養などの踊り、16日には大杉踊りなどがあります。その後も名目を変えつつ盆踊りは続き、17日のお観音様、21日のお弘法様、23日か24日の地蔵盆あたりで打ち止めとすることが多かったようですが、中には28日の薬師様、月遅れで9月1日の八朔、9月10日の善神王様など、9月に入ってもなお盆踊りをする地域もありました。今は一夏に1回かせいぜい2回となっており、国東半島では八朔踊りは見かけなくなりましたが、お弘法様の踊りや地蔵踊り、善神王様の踊りなどは今なお続けている地域があります。また、親睦目的に行われる校区単位あるいはもっと広域の盆踊り大会なども盛況です。

 このようにお盆から9月上旬にかけて盆踊りが続くわけですが、一応、本来の盆行事は8月15日か16日の精霊流しでおしまいです。この行事はだんだん少なくなってきましたけれども、国東半島の各地に点々と残っています。山間部では川原に、沿岸部では浜に出まして、お精霊様のお舟を流します。盆踊りのあと夜遅くに流す地域もあれば、午前中に流す例もあります。今在家のお精霊舟は、近隣在郷では類を見ないほどたいへん立派な造りです。「今在家の精霊流し」は、国東半島に伝わる旧来の年中行事のひとつとして広く知られています。

 

10 興導寺の十王様

 観音堂をあとに先へと進み、豊和銀行の辻を右折します。桜八幡(またの機会に紹介します)の鳥居前を左折してずっと直進すれば、道路左側に十王様がコの字に並んでいます。ここは大字鶴川は興導寺部落のうちです。

 「十王様」の標柱がありますが、委細は分かりません。堂様があったのではあるまいかと推量しました。十王様は、頭部の破損した像もありますけれども概ね良好な状態を保っています。石造十王像としては大きめで、肩幅が広くどっしりとした印象を受けました。厳めしいお顔立ちの像が目立つ中に、風化摩滅のためと思われますが優しそうな表情のお顔も見受けられます。また、十王様以外にも五輪塔、お観音様などが並んでいます。

 

11 高木の庚申塔(弁天様横)

 十王様を過ぎて、次の角を右折します。国道213号との交叉点を直進して右なりに鉤の手に進めば、高木集会所の手前、左側に弁天様の碑と2基の庚申塔が並んでいます。道路端なのですぐ分かります。

 個々の写真を撮り忘れてしまいました。奥の藤棚の下の碑が弁天様です。庚申塔は刻像塔と文字塔、夫々1基ずつ並んでいます。

(刻像塔)
青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 この塔はだんだん風化摩滅が進んできて、猿や鶏が特に傷んでいます。けれども諸像が比較的厚肉に彫ってあるので、その姿は今のところよう分かります。東国東方面で盛んに見かけるタイプの塔で、既視感がありました。主尊がガニ股で立っており、その武張った姿には実に堂々たる風格があります。また、猿と鶏が狭い帯状の区画に横一列に並んでおり、夫々が密接しておりますので仲良しの微笑ましさが感じられます。

(文字塔)
青面金剛

 銘がくっきりと残っています。素朴な字体です。

 

 少し短めですが、今回は以上です。長い記事ばかり続くと大変なので、ときどき短い記事も挿んでいこうと思います。次回は久しぶりに、都甲のシリーズの続きを書きます。

過去の記事はこちらから