大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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豊崎の名所めぐり その5(国東町)

 久しぶりに豊崎地区のシリーズの続きを書きます。連日の猛暑で、とても名所めぐりができるような状況ではありません。今回の記事の写真はすべて過去のものです。

 

24 原の十王堂の庚申塔

 原の十王堂には2基の庚申塔や十王像があり、特に庚申塔は立派なものです。堂様のの近くに適当な駐車場所がないので、弥生のムラの駐車場か原の公民館に停めて歩いて行くとよいでしょう。国道213号は鶴川交叉点から西へ進み、飲食店「花NEZUMI」のある辻も直進します(このお店は何もかもが非常においしくしかも安価です)。ここから中央線がなくなります。道なりに行けば道路右側に弥生のムラの駐車場があります。大規模なイベントでもない限り十分空きスペースがあるので、迷惑にはならないでしょう。ここに停めて先へと進めば、右側にカーブミラーと、宝篋印塔の残欠などが並んでいるところがあります。この角を左に入ります。少し行けば右側の角に十王堂があり、その坪に庚申塔や十王像が並んでいます。十王像は写真がよくないのでまたの機会として、取り急ぎ庚申塔のみ紹介します。冒頭の写真のように2基並んでおり、このうち左の塔が市の文化財に指定されています。祭祀は、原部落のうち上ノ台組です。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 この塔は中央に大きく亀裂が走っているほか、上端の形状を見るに元は笠が乗っていた痕跡があり、諸々の傷みが進んでいることが見て取れます。しかしながら幸いにも諸像の姿は比較的よう残り、像の傷みに限って言えば主尊の右わき腹あたりを打ち欠いている程度です。

 お気づきの方もおいでになるかと思いますが、デザイン的には国東町周辺で盛んに見かけるタイプであり、これまでにこの類型を何度も紹介してきました。全てが同一の作者とも思えないし細部は少しずつ異なります。優れたデザインなので、流行したのでしょう。

 瑞雲は、コケで見えづらくなっていますが牡丹くずしの風情です。その下端を波形に縁取って、そのへりに沿うて弓矢主尊の頭がうまいこと収まっています。童子は左右対称でいくぶん形式的な感じもいたしますが、それが却って行儀よう主尊に付き従う様子を表しているように思います。鶏と猿は夫々小部屋に収まり窮屈そうです。

 最下部には8名のお名前が細い線で彫ってあり、容易に読み取れます。「源七」さんなどが確認できます。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼、4夜叉、ショケラ

 この塔はオールスターとも言うべき、庚申塔に配される一般的な像を全て並べたさても豪勢なものです。国東町内にはこれとそっくりの塔が複数残っており、これまでに上小原や治郎丸、岩屋などに残る数基を紹介してきました。その都度、このデザインの特徴を再三申してきましたので、今回は少し違う視点で見てみようと思います。

 庚申塔(刻像塔)の個性のひとつとして、碑面の取り方があります。ものすごく大雑把に言えば、全体を平面的にこしらえる方法と、下3分の1程度を残して大きく彫りくぼめる方法に大別されましょう。前者は全ての像が薄肉掘りないし半肉彫り程度であるのに対して、後者は帯状に残した下部に猿や鶏を配し、彫りくぼめた箇所に主尊や童子を配しますので、主尊が厚肉彫りになります。この塔は前者であり、しかも像の数が多うございます。ショケラは主尊と一体なのでこれを1と数えれば、1主尊+2童子+3猿+2鶏+1邪鬼+4夜叉で、合計13体です。そう大きくもない碑面に13もの像を収めるのですからどうしてもレリーフ状の彫りになります。しかしながら、このような表現の制約をものともせず、細かい部分にも巧みに前後差をつけてあり、立体感に優れています。しかも丸っこい部分は彫り口に角を立てずになめらかに、そうかと思えば直線的なところは彫り口を立てるなど、巧みに彫りの技法を使い分けています。実物をご覧になる際には、このような点にも注目されてはいかがでしょうか。

 寛政9年の造立で、200年以上が経過しているにも拘らずほんのりと赤い彩色が残っています。

 

25 原のお稲荷さん周辺の石造物

 十王堂の角を曲がって、田んぼの中の簡易舗装の道を行きます。左側の民家を過ぎて右側に民家が立っている手前の辻を左折します。少し進めば右側に農業倉庫が建っており、その倉庫の辺りから山裾に入っていく小道を辿れば、五輪塔や仏様が寄せられている一角があります。

 通路を辿ると、石造物の裏側に出ました。お世話が大変になっているようで、やや荒れ気味です。五輪塔は破損したものが多く、見受けられます。おそらく全部が全部この場所にあったわけではなくて、近隣の耕地整理の際に移されたものもあろうかと思います。

 どうにか表に回り込みました。合掌する仏様のお顔の、なんとお優しそうなことでしょう。ほんにありがたい感じがいたしますし、お顔を拝見しますと胸の曇りも晴れてまいりました。

 すぐ右隣りは碑面が荒れて、銘の読み取りが困難でした。1文字目は「三」のように見えたので三界万霊塔かなとも思いましたが、確証を得ません。

 仏様の裏を過ぎて、道なりに右に折れます。坂道を少し上れば、正面に庚申塔、左側にお稲荷様がお祀りされています。入口さえ分かれば、特に問題なくたどり着けると思います。

 大きな木の根が岩を巻き込んでおり、その岩の上に庚申塔が立っています。自然の力を感じました。この場所に庚申様をお祀りしたくなるのは、分かる気がします。手前にはお供えもあがっており、信仰が続いていることが分かります。

青面金剛 原(6名)敬白

 碑面に二重の枠取りを施すという手の込んだ手法をとっています。中央に大きく亀裂が走っており、銘の傷みが目立ちます。私は見落としてしまったのですが、小林幸弘さんのウェブサイト「国東半島の庚申塔」(外部リンク)に寄れば石工さんのお名前として「石屋吉衞門」と彫ってあるそうです。この「石屋」は一般名詞としての石屋というよりは、屋号のようなものでしょう。庚申塔に作者のお名前が彫ってある事例は稀です。

 お稲荷さんの石祠です。お稲荷さんはそれ単体で社殿を持つ場合のみならず、何らかの神社内に、またはこのように野山に、石祠のみという形で鎮座している例も多々あります。国東半島一円でかなりの数になるでしょう。その中で特に著名なのは白川稲荷(大田村)、遠見塚稲荷(日出町)、美濃隈稲荷(杵築市)などです。

 

26 初八坂社

 初八坂社はつい最近、単独で記事にしました。以下リンクよりご覧ください。

oitameisho.hatenablog.com

 

27 高良の帝釈堂

 県道29号を行入(ぎょうにゅう)ダム方面に進み、「ホーヤク祭り高良地区の里入口」の大きな看板を目印に右折します。十字路を直進(左前)して少し行けば、その1の2番で紹介した「馬爪の庚申塔」入口の堂様が左上にあります。通り過ぎれば山の中の上り坂になり、少し舗装が傷んでいるので運転に注意を要します。木森を抜けた先が高良(こうら)部落です。

 人家が途切れてなおも道なりに行けば、左側にホーヤク祭りの説明板が立っています(後で紹介します)。この右側が広くなっているので車を停めます。説明板のところから折り返すように山道を上ってもよいのですが草が伸びていることが多くて歩きにくいので、車道を少し進んでから折り返して簡易舗装の道を上ることをお勧めします。どちらも同じ場所に出ます。

 簡易舗装の急坂を上れば草付の参道と合流して、「帝釈天王」の鳥居のところに出ます。苔むした姿に、長い歴史が感じられます。ここから急な山道を上ります。地域の方が杖を用意してくださっているので、借りた方がよいでしょう。ここから鳥居をくぐってもよいのですが道が少し荒れているので、簡易舗装の道の終点まで歩いてから参道の半ばに合流した方がよいと思います。

 崩れかけた石段が山の上の方まで伸びており、先が見えません。歩きにくく、いったいどこまで登れば着くやら気が遠くなりそうですが、頑張って上っていけばそのうち着きます。

 頑張って上って、帝釈堂に着きました。高い石垣を築いて、半ば強引に平場をこしらえてあります。その入口には立派な灯籠が立っています。文化年間のものとは思えないほど状態が良好ですし、反花のふっくらとした花弁の表現などが見事なものです。この後ろの岩壁の半ばにお弘法様がお祀りされており、台座に「六十二」の番号が見えました。蓋し、近隣の新四国霊場の札所でしょう。そしてこの灯籠は、帝釈堂というよりはお弘法様に付随するものと思われます。

 帝釈堂は少し高いところの岩屋に嵌まり込むような造りになっていて、半ば懸け造の様相を呈しています。手の込んだ建築です。堂様の中には帝釈天様や仁聞様の石像がお祀りされています。それぞれたいへん個性的な像容です。線香立てや蝋燭などを置いてくださっていますが、山火事になるとたいへんなので参拝時には火の始末にくれぐれも用心してください。御幣を置いてあるのは、いかにも国東半島らしい光景です。

 参拝したら、元来た道を転ばないように気を付けて駐車場所まで戻ります。

 

○ ホーヤク祭りについて

 ホーヤク祭りは高良部落の帝釈天のお祭りで、旧暦の6月17日に執り行われています。国東半島に数多く残るお祭りの中でも一風変わった内容で、近年は各種メディアにより広く知られるようになってきました。

 帝釈天様に参拝する際には、上り口(駐車場所)のところの説明板を見逃さないように気を付けてください。内容を転記しておきます。

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ホーヤク祭(帝釈天祭)

 この帝釈堂は養老年間、六郷満山を開基した仁聞菩薩が「満山創立」の本願を祈り、苦行修練した霊窟であるといわれる。六郷満山末山本寺神宮寺の支配堂である。
 岩窟の中には武帝を思わせる衣装をまとった帝釈天像と仁聞菩薩像が安置されている。
 夏祭りの帝釈天祭では、その年に収穫した小麦粉で男女の陰陽の形の団子を作り、供物として奉納することから「ホーヤク祭」ともいう。「ホーヤク」とは淫猥で、陽気で馬鹿げたことに使われる保元。豊作祭りに通じ農耕と性器信仰の結びつきを残した奇祭である。

祭日 旧6月17日
   夜には供養踊りあり
管理者 高良地区
指定年月日 昭和46年11月10日
市指定無形民俗文化財

国東市教育委員会

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 以前は、帝釈堂で供養踊りをしていました。ところが道が難所で、夜にあの参道を上り下りするのは大変です。高齢化等もあり、今は公民館の坪で供養踊りをしています。六調子と祭文を踊ります。

 

今回は以上です。次はどこにしましょうか。目下検討中です。

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