大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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長谷の名所めぐり その2(犬飼町)

 前回に引き続き、犬飼町は長谷地区の名所めぐりです。石橋、宝篋印塔、五輪塔庚申塔など、石の文化財が目白押しです。

 

7 両村橋

 前回の末尾に紹介した愛宕様(石幢)から道なりに下っていけば、圓行寺の辻に出ます。このお寺には立派な石幢があるのですが、写真がないのでまたの機会とします。右折して、県道632号を進みます。しばらく行くと左側に立派な石橋が架かっています。

 老朽化のため車両通行止めになっていますが、歩行者用の橋として今なお活躍しています。少し上流に新しい橋がかかっており、その上から全体を眺めることができます。

 この橋は昭和14年の竣工で、それ以前は飛び石で渉っていたそうです。この谷の深さでは、崖を上り下りして飛び石づたいで渉るのは骨が折れたことでしょう。橋の対岸は井田村(のちの千歳村の一部)で、この道は井田村と長谷村を結ぶ重要なルートでした。特に井田村側は、当時大野郡の玄関口として繁栄していた犬飼町(旧)に出るための需要が高かったと思われます。

 ところで、このように2つの地域を結ぶ石橋は、両側の地名をとった名前を付けた事例が多々見られます。ところがこちらは「両村橋」です。この橋名には、長谷村と井田村、両村の融和・発展を願う心が端的に表れています。「長谷井田橋」とか「井田長谷橋」とすると、どちらが先だ後だとなってしまいますから、それを避けたかったのではないでしょうか。

 長谷側、県道の反対側には記念碑が立っています。片仮名を平仮名に、旧字を新字に改め、句読点を補って内容を記します。読み取れないところは伏字にしました。

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両村橋之碑
一国の産業は道路よりと云ふも可なり。井田長谷の両村に在りては各其中央に県道の通ずるものありて、概ね物資の輸送に益する処多し。然るに一歩部落に入れば不便なる地又寡しとせず。中にも柴北久保山の両部落は一■の間に在るも、柴北川の谷深く渡るに橋無く、只一条の飛石によるのみなれば其不便さ限り無し。
時に両村当局は、両地方の要請により県費補助金九百十八円を得、之方架橋決議し、柴原村足立初夫氏との間に金四千八百円を以て石橋及び付属工事の契約も為したり。
昭和十二年十二月一月起工式を挙げ、越へて十四年五月十日工成り●終●て竣工式を●に衛藤善太郎氏老夫妻の渡り初めを●●●に式を終る。多年宿望●●●し両村民の親交愈厚く其喜びも亦一入なり。
此架橋の●●●は犬飼町橋本弥三郎氏、長谷村武藤恒雄氏、井田村宇津宮●二郎氏、●●●●郎氏、故人甲斐定二氏等の尽力に与る処●●し、斯くして竣工したる石橋は永久に天変地異起るとも豪も弛む所無きを期し、此処に記念碑一基を建て永く青史に残すものなり。
昭和十四年十二月吉日

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 碑文を読みますと、衛藤善太郎さん夫妻の渡り初めを見守る地域の方々の笑顔が目に浮かんでくるようです。そのときの写真があれば見てみたいものです。

 

8 柴北川の景勝

 柴北川は水がきれいで、両岸の田園風景と相俟って風光明媚な景観を作り出しています。特に両村橋の上から見る景観がよく、景勝地といえましょう。この辺りは両村橋の記念碑にあるとおり谷が深く、半ば渓谷の様相を呈しています。

 柴北川を愛する会という地域の方々の組織を中心に、桜の植樹や草刈りなどが行われています。彼岸花も見事なので、四季折々の風景を楽しみながら県道をドライブしてみてはいかがでしょうか。

 

8 市の恵比須様(○ 柴北の市について)

 両村橋を渡らずに、県道を道なりに進みます。ほどなく左側に石祠があります。

 灯籠は片方壊れて、石祠もやや傷みが進んでいます。現地では何の石祠か分からなかったのですが、『犬飼町誌』により恵比須様であることが分かりました。昔は鳥居があったものの、台風で破損したので熊野神社の裏に保管してあるそうです。ここで、孫引きになってしまいますが『犬飼町誌』に掲載されている2つの内容を引用しておきます。いずれもこの石祠の歴史に関する重要なことがらです。

~~~長谷尋常小学校郷土史』より

柴北市ハ、元河原ニシテ、市ガ立チ居リシガ故ニ、鳥居ノ立チ居リシモノニシテ後、迫ノ田ニ移シタルモノナリト。彫刻ノ字ハ禅阿弥ト記シアリテ、元ハ仏ヲ祭リシモノ約三、四百年ノ昔ナリシ。而シテ此地ヲ市法師ト云ヒシト。

~~~武藤モヨさんのお話

「市は、柴北市組の管理のもとに、恵比須様のまわりでにぎやかに行われていたと母から聞いています。冬の寒い頃市が立ち、近郷からは農家の人達が畜産物や農具・織物などの日用品を持ち寄り、鶴崎臼杵からは商人が海産物を持ち込み、これらの品々が取り引きされて繁昌していたそうです。この市は明治の初めまでは行われていたということですが、その後はすたれてしまい、以後は庄屋横の歳ノ神様といっしょに恵比須祭りをしてきました。それも第二次大戦までで、今では祭りも行われなくなりました。」

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9 大聖寺の石造物

 県道を進み、柴北バス停を過ぎて2つ目の辻を左折します。橋を渡った先を右に行けばすぐ大聖寺に着きます。車を停めるスペースは十分にあります。このお寺にはたくさんの文化財があります。屋内の阿弥陀様、達磨様、弁天様のほか、境内にはたくさんの五輪塔、宝篋印塔、庚申塔などがところ狭しと並んでおり、見事なものばかりです。参拝に立ち寄りましたら、ご住職が御親切にいろいろと教えてくださいました。ここでは、屋外の石造文化財を紹介します。

 境内の端、道路より一段高い平場にたくさんの五輪塔が並んでいます。少し草が伸びていたので一部しか撮影できませんでしたが、実際は88基もの塔が2列に並んでおり壮観です。これは近隣の地中に埋もれていたものが大半で、平成元年の圃場整備の際に出土したそうです。それを平成14年1月に、この場所にお祀りされました。廃仏毀釈等の影響で地中に遺棄され、地域の方々からも忘れられていたと考えられます。それが再びきちんとお祀りされて何よりでした。金輪際粗末になることはないでしょう。

 山門をくぐって境内に入りますと、左側に文化財に指定されている大きな五輪塔が立っています。写真を撮り忘れたので今回は省きます。その近くには、写真のように水輪を何重にも重ねて串団子状になった五輪塔が数基立っています。以前、本匠村は因尾地区のシリーズの中で、串団子型の五輪塔を紹介しました。因尾地区の事例は元からその形であったと考えられますが、こちらは後家合わせでしょう。

 境内に石造物の数ある中に、この区画には特に立派なものが多々あります。左端から順に、数基を詳しく見てみましょう。

寛政十二庚申■■月十一日
庚申塔
柴北村

 この塔は不整形の石板型で、なかなか格好がようございます。「庚申塔」の字体がほんに堂々としており素晴らしいではありませんか。「申」の字の両側が三角形に剥離しており、紀年銘にかかっているのが惜しまれます。

醍醐經石書之塔 ※之は異体字

 一字一石塔です。「塔」の上の文字は初めて見たのですが、調べたところ「之」の異体字であることが分かりました。銘の字体が堂々としていて、墨を入れてあります。

大乗妙典一石一字塔

 こちらはごくささやかな字体の銘ですが、状態がよいので容易に読み取れました。

青面金剛6臂、2童子

 この庚申塔は傷みが激しく、辛うじて主尊の輪郭が見える程度にまで風化しています。やわらかい材質の石材は像を彫りやすいものの、その分傷みやすいようです。持ち物は、目を凝らして見れば三叉戟と弓のみ辛うじて分かります。主尊の両脇には童子の痕跡が僅かに見て取れますが、猿や鶏は全く分かりませんでした。

大聖寺殿

 3基並ぶ宝篋印塔のうち、左のものです。傷みが少なく、宝珠をとりまく火焔以外はほぼ完璧な状態で立っています。隅飾の蕨手や、露盤、線彫りの蓮花、基礎の格狭間など細かい部分の彫りまでよう分かります。全体的に装飾性に富んでおり豪勢な感じがいたしますし、各部のバランスもよく、秀作といえましょう。総高209cmあり、わりあい大型の部類ですので存在感があります。『犬飼町文化財』により以下の内容が分かりました。
○ 『豊後国志』に「大友親綱墓、大聖寺中亦有一塔、刻日、長禄三年二月」とあり、黒松の宮脇宝塔とともに大友家13代親綱の墓と伝えられてきた。長禄3年であれば、560年以上も前の造立である。
○ 塔身正面の銘「大聖寺殿」は、親綱の戒名である「大聖寺殿前左京兆耀山光君公菴主」の頭書の部分である。裏面には「耀山光君大居士長禄三己卯二月初六日」と彫られている。

開山塔

 こちらは中央の宝篋印塔で、左の塔にたいへんよう似ていますがより大型で、総高262cmもあります。大野地方に宝篋印塔の秀作が数々残る中でも、これほど立派なものは稀であると存じます。『犬飼町文化財』により、以下の内容が分かりました。
○ 貞治5年の造立である。650年以上が経過している。
○ 火焔、相輪全体、笠上部の縦連子とその上の小さな作り出し等の特徴から、当時大野川流域で活躍した名石工沙弥玄正か、その流れを汲む石工によって造立されたものと考えられる。
○ 塔身裏側には「不肯正受禅師貞治五丙午季二月初八烏」の紀年銘あり。

 右の塔は、左および中央の塔にくらべるとやや傷みが進んでいます。特に相輪の破損が惜しまれます。しかしながら格狭間の形がよいし、よう見ますと細部まで行き届いた造りになっています。特に露盤の格狭間やその上の連子模様、蓮の花の細やかさとバランスのよさは素晴らしいと思います。すぐ横並びに近隣でも稀な完成度の塔が立っているのでどうしても見劣りしてしまいますけれども、こちらも秀作といえましょう。

 

10 山田の石仏(郵便局前)

 大聖寺から県道に返って黒松方面へと進んでいけば、大字高津原は山田部落に入ります。右に天満社を見送って、左に長谷簡易郵便局のあるところの右側に数体の仏様と庚申様がお祀りされています(冒頭の写真)。道路端なのですぐ分かります。

 こちらは、基壇が高いうえに覆い屋も設けて、特に鄭重にお祀りしているように見受けられました。近隣の方のお参りがあるようで、お供えがあがっています。この中から数体を詳しく見てみましょう。

青面金剛6臂

 眷属を伴わず銘も見当たらないので、他の仏様の可能性も考えましたが、持ち物や全体の特徴から推して青面金剛であろうと判断しました。大野地方では、このような庚申様をときどき見かけます。それらはおしなべて小型である中で、こちらは特に小そうございます。しかしながら腕の曲がりなどの丸っこいところや、弓の弦などの細かいところが実に丁寧な彫りであり、デザインもようまとまっており完成度が高い造りであると感じました。

 隣のお地蔵様は首が折れたものを、別石ですげかえてあります。整うたお顔立ちとは程遠いものの、朗らかなる笑まいを拝見いたしますと心が穏やかになります。立派にお祀りされており、昔から地域の方の信仰を集めていることが分かります。

 この像はお坊さんでしょうか。お顔や衣紋などの彫りがよく、実に写実的な表現です。特に興味深いのは半跏踏下坐である点で、この坐り方は弥勒様の像でよう見かけますけれども、お坊さんの像では珍しいような気がします。この像では、正面に張り出した部分の一部を大胆にも彫りくぼめて、そこに左脚を下ろしています。その彫りくぼめたところの左側がなめらかなカーブをとっていればそう目立ちませんものを、角を立てて矩形にとっておりますので明らかに下ろした左脚ありきで、便宜上彫りくぼめたように見えます。そんなことはコチャ知らぬとばかりに大胆なデザインで、石工さんの思い切りのよさ、潔さはなかなかんものであると存じます。

 

11 柚河内の石仏と庚申塔(虎御前様上り口)

 長谷郵便局のところから柴北方面に少し後戻り、左に天満社を見送って橋を渡ってすぐ左折します。すぐに二又になっていますので、左の道(2車線)を進みます。なお、この二又を右に行けば磨崖仏があります。またの機会に紹介します。

 左の道をずっと上っていき、左にカーブして下りに転じるところで、右カーブの外側(左側)に旧道が小さく膨らんでいます。その旧道沿いにコンクリート製の堂様を設けて、中に2体の仏様と庚申塔がお祀りされています。ここは大字黒松のうち柚河内部落です。

 造花のお供えがたくさんあがり、色とりどりで華やかな感じがいたします。線香立てや蝋燭立ても用意されており、ごみもほとんど落ちていません。近隣の方々のお世話が続いているようです。中央はお不動様で、炎髪が勢いよう広がっており、お顔立ちと相俟ってなんだかおどろおどろしい雰囲気が漂うております。大野地方はお不動様の信仰が盛んな土地で、方々に磨崖仏や石仏としてお不動様の像が残っています。地方作と申しますか、たいへん個性豊かな像容のものも珍しくありません。こちらもその部類で、自由な発想・表現が素晴らしいと思います。

 右は庚申塔です。庚申塔の幅に合わせて棚を欠いております。

明治十四年
奉待青面金剛
旧八月朔日

 大野地方は庚申講が比較的近年まで行われていた事例も多く、明治以降の庚申塔もこれまで何度も見かけたことがあります。ただし、概ね全県的に、時代が下がるにつれて主尊が青面金剛から猿田彦に置き換わってきている傾向にあります。柚河内においては明治に入ってもなお青面金剛を主尊としています。銘の線は細いものの墨が残り、容易に読み取れました。

 この塔で興味深いのは、「旧八月朔日」の銘です。明治14年には、公的な暦は当然新暦に移行していましたが、この時代はまだまだ、旧来の年中行事は旧暦で行うのが常でした。ただし、旧暦・新暦・月遅れのいずれを採用するかで問題になるのは、「日付」を目安にする行事だけです。具体的に申しますとお接待や七夕、盆踊りなどで、たとえば春のお接待は、旧暦、新暦、月遅れと地域によってばらばらになっています。ところが庚申様というものは庚申の日が祭日であって、日付は問題になりません。それなのにわざわざ旧暦で記したのは、「旧八月朔日」が意味のある日付であるためだろうと推察されます。旧暦の8月1日は「八朔」と申しまして、昔から豊年満作を願うて八朔踊り(盆踊り)をするなど、特に農村部では需要な日でした。調べたところ明治14年はヨリ年(旧の閏年)で旧暦は7月の後に閏7月があったので、旧暦と新暦が2か月近く離れており、旧暦8月1日は新暦9月23日です。この日は辛巳で庚申の日ではありませんので、意図的に八朔の日に合わせたことが分かります。庚申様の信仰が作の神としてのそれに移行していたことが明白です。

 旧の朔日(1日)は、新月です。月輪をごく細く、繊月に表現してありますのも、朔日の新月に近うて、ただのこじつけかもしれませんけれども風流なことぞと思いました。

 

12 山田の虎御前様

 前項の石仏・庚申塔のところから虎御前様への山道が伸びています。邪魔にならないように車を停めて、歩いて10分もあれば着きます。

 入口から僅かのところで、このように二又になっています。ここは左にとって、折り返して登っていきます。上がりはなが少し崩れていますが、特に問題なく通れました。雨降りの後はやめておいた方がよさそうです。また、雀蜂を見かけましたので、できれば冬場の方がよいでしょう。

 2回折り返したら直線的に尾根筋を上っていきます。枝道はないので、特に迷うような場面はありません。上り詰めたところが古い墓地になっています。そこを通り過ぎてもう少し上ったところの平場に宝篋印塔が立っています。

 一見して、大聖寺の宝篋印塔に比肩する優秀作であると感じました。全体のバランスがよいし、露盤の連子や反花、請花、墨飾などの細かい彫りが丁寧です。隅飾1か所と宝珠のほかはほとんど傷んでいません。塔身の四面には金剛界四仏の種子が彫ってあります。『犬飼町文化財』により以下の内容が分かりました。
○ 南北朝時代、文和3年(1354)7月の造立と塔身に彫ってある。
○ お参りすると歯痛や婦人病に霊験があると言い伝えられている。
○ 戦前まではかなり遠方からもお参りに来る人がいた。

 650年以上も前の造立とはとても思えないほどの状態のよさに、感銘を覚えます。虎御前様と称する石塔(その多くは宝篋印塔)が県内各地に残っています。これまでにも数基紹介してきたので、記事を検索して比較してみてください。由来は以前説明しましたので繰り返しません。

 

13 柚河内の大山神社

 虎御前様から11番で紹介した庚申様のところまで戻って、車で先へと進みます。二又を左にとって細い道に入ってほどなく、左の木森の中に堂様か神社のようなところが見えましたので、車を停めて立ち寄ってみました。

 このように杉木立の中に建物が見えます。短い参道は手入れが行き届き、きちんと掃除されていました。会談には手すりもついています。

 覆い屋の中には、大山神社の石祠がお祀りされていました。基壇を何重にもした、立派な造りです。参拝してすぐその場を後にしましたが、この前の小さな広場には手作りのベンチも置いてくださっています。木漏れ日が差して、とても清々しい場所でした。

 

今回は以上です。次回は大字黒松の名所旧跡を紹介します。

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