大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

長谷の名所めぐり その3(犬飼町)

 今回は大字黒松の名所旧跡を紹介します。この地域は狭い範囲に名所がたくさんあり、短時間で次から次にめぐることができます。特に探訪をお勧めしたいのは、千束(せんぞこ)の旧道沿いにある石幢です。少し行き方が難しいのですが、非常に立派な造りであるうえにその立地も相俟って、特に心に残った文化財です。

 

14 黒松の阿蘇

 県道632号沿い、長谷簡易郵便局から少しだけ栗ヶ畑方面に進みますと、道路ぎわに鳥居が立っているのですぐ分かります。車は、鳥居の少し手前に右側の路側帯が広くなっているところがあるので、そこに停めるとよいでしょう。こちらは鳥居や狛犬といった石造文化財がありますし、社殿の造りがなかなかようございます。ぜひ参拝をお勧めします。

 阿蘇社には3基の鳥居が立っています。そのうち県道脇にある鳥居は南北朝時代の造立と推定されているとのことで、石材の太さ、背の低さ、笠木が一石づくり(継ぎがない)で扁平であるなど、古式の特徴を有しております。柱の角を落としている点にも注目してください。だいたい石造りの鳥居というものは江戸時代以降のものが多うございまして、それ以前は木造が多かったものですから、このように古式の石造が残っているというのはたいへん珍しい事例であると存じます。

 両脇には銀杏の木がありますので、紅葉する頃の日の暮れ方など、特に景観がよいでしょう。鳥居を見学したら、田んぼの中の参道を進みます。

 二の鳥居、三の鳥居と続き、なだらかな石段を少し上がれば社殿に至ります。こちらの鳥居は、方々の神社でよう見かける形式のものです。見比べて頂きますと、一の鳥居の特徴がより分かりよいと思います。

 社殿のあたりは明るい雰囲気です。地域の方々により手入れがなされているのでしょう。

 『犬飼町誌』に、阿蘇社についての詳しい説明があります。それを参考に、大要を記します。
○ 祭神は阿蘇津彦命、阿蘇津姫命、菅原神、素戔鳴命、大山紙命、大歳命である。明治42年5月26日に次の7社を合併している(括弧内は旧所在地の字名)。菅原社(屋敷上)、菅原杜(天神鶴)、大歳社(歳ノ神)、大山祇社(山ノ神)、素蓋鳴社(天神鶴)、大山祇社(山ノ下)、大山祇社(ケヤノキ)
○ 由緒について、伝承されている内容は「黒松村は阿蘇嶽の噴火激甚のため田畑に災害を被ることが多く、その災難の軽減を願い、建久3年に肥後国阿蘇神社一ノ宮 阿蘇津彦大神および二ノ宮 阿蘇津姫命の御分霊を捧持して帰り、現在地に社殿を創建して祭祀した」である。実際は「南北朝時代に井田郷を与えられた阿蘇氏が、郷内の自分の所領を阿蘇神社に寄進した。これにより黒松村に阿蘇社が勧請された」である。
○ 明治42年、十七年式にあたり神殿を修繕することになり、2月20日に起工した。以前から神社の前面階下が狭く社務の処理に困難を来していたので、後方に一間さげる工事をしていたところ、鋸が折れて神殿が顛倒した。位置変更宜しからずということで神殿を旧位置に戻すことにして、無事4月8日に式年祭を挙行できた。参詣者が多く、頗る盛大な式典であった。
○ 昭和31年4月19日の三十三年正遷座祭に際して、浄財を集めて神輿、弓の彩色、獅子頭、大旗、提灯を新調した。

 より詳しい内容を知りたい方は図書館で『犬飼町誌』をご覧になるか、ながたに振興協議会のウェブサイトにある「ながたに大好きマップ」の当該項目をご覧ください。

 阿蘇社の狛犬は唐獅子で、デザインや彫りが非常に優れており、近隣在郷でも屈指の優秀作であると感じました。大正14年の奉納です。大正年間と申しましても100年近くが経過していますが、状態は頗る良好でほとんど傷みがありません。

 特に阿形は、迫力満点のお顔立ちが素晴らしいではありませんか。舌には赤い彩色が残っています。台座のぐるりには寄進者のお名前がイロハ順に彫ってあります。

 台座末尾の梅鉢模様は何でしょうか?花びらの中に、田・中・工・梅?・園の文字が彫ってあります。

神殿新築寄附碑銘
姓名以呂波順
(以下略)

 通常、寄附碑銘というものは金額の大きい順に書いてあることが多うございます。ところがこちらはイロハ順とはさても珍しいことじゃわと思いましたが、やはり金額順であり、同額の中で夫々がイロハ順になっているようです。

 こちらも神殿新築寄附碑銘です。

 阿蘇社は地域の信仰が篤く、今なお春と秋のお祭りが続いており、黒松獅子と黒松神楽が奉納されるそうです。長谷地区でお神楽が残っているのは黒松のみです。

 

15 宮脇の石造物

 阿蘇社の西隣に、県指定文化財の宝塔ほか数基の宝塔や五輪塔が立っています。宮脇と申しますのは字名で、お宮(阿蘇社)付近の土地の意であることは明白です。阿蘇社の左側の細道を上ってもよいし、境内の左奥から行くこともできます。尋ねた時季が悪かったようで藪が茂りがちで、県指定の宝塔以外は草に埋もれている状況でした。

 この宝塔は紀年銘によれば貞和4年(1348年)の造立であり、700年近くも前の造立とは思えない状態のよさに感嘆いたしました。笠の隅と火焔が少し傷んでいるほかは、ほぼ無傷といってよいでしょう。露盤の連子や基壇の格狭間もよう残ります。茶壺型の塔身の形がよく、首部や笠の様子には古式の面影が色濃く感じられます。特に格狭間の形のよさは折紙付きであります。さても優美な姿に見惚れてしまいました。簡単に見学できますから、阿蘇社に参拝する際にはぜひ立ち寄ってみてください。

 

16 新飼の田園風景と彼岸花

 阿蘇社下から車で県道を先へと進みますと、ほどなく新飼バス停があります。この辺りで柴北川が大きく蛇行し、谷がやや狭まります。山と川、田んぼの風景がよく、何でもない光景ですけれども心に残りました。

 秋は特にようございます。黄金波打つ稲田と道路端の彼岸花の風景を見て、心がほっとしました。新飼(しんかい)という地名は、「新開」の意ではあるまいかと推量いたします。

 

17 黒松庵の石造物

 新飼バス停のすぐ先、右側に「金輪山正福寺」という扁額のある堂様があります。一般に黒松庵と読んでおり、昔はお寺であったと思われます。黒松庵には宝篋印塔、その裏山には宝塔などたくさんの石造物があります。道が荒れており宝塔の見学は諦めたので、ひとまず宝篋印塔と一字一石塔を紹介します。車は、一旦通りすぎたらすぐ左側に黒松生活改善センター(公民館)がありますので、その坪に停めるとよいでしょう。

 この宝篋印塔は、宝珠の欠損と基壇の劣化のほかは、まずまず良好な状態を保っています。笠と露盤は一石造です。苔などで細部が見えづらくなっているのが惜しまれます。

 宝篋印塔のすぐ横から山手に上がる細道があります。その上がりはなから振り返って撮影した写真です。この向きから見ますと、相輪の軸が少しぶれていることが分かりました。倒木などによる破損が懸念されます。

 碑面が荒れて全部は読み取れませんでしたが、一字一石塔のようです。このほかにも、急斜面にたくさんの石仏が点在しているのが見えました。道が崩れかけており、竹が伸びて近づくのが難しかったので、写真は省きます。

 県指定文化財の2基の宝塔へは、左側の道を上ります。先述のとおり藪や倒れた竹などで道が荒れており今回は諦めましたので、また寒くなった頃にでも行ってみようかなと考えています。

 

18 千束の旧道と石造物

 新飼から、車で県道を栗ケ畑方面に進みます。しばらく道なりに行き、左に松厳寺を見送ってなおも進んだ先に千束(せんぞこ)バス停が、そのすぐ先の辻には左側に小さい青看板があります。青看板の「→千束」の表示に従って辻を右折し、坂道を上ります。千束上村の数軒の民家を過ぎると、しばらく人家が途絶えます。左側の路肩が広くなっているところに車を停めて、折り返すように簡易舗装の道を歩いて上ります。畑地に出たら舗装が途切れます。枝道には入らず、ずっと道なりに行きます。軽トラックであればどうにか通れそうな道ですが、歩いて行った方がよいでしょう。しばらくなだらかに下り、二股を左に行きます。

 二股を左にとると、写真のような道になります。歩きにくいようなところは全くありません。この道は、県道開通以前の旧道です。いまは、黒松から栗ヶ畑に行くには柴北川沿いの県道を通ります。千束バス停を過ぎて栗ケ畑の最初の民家のところに出る間は、高い法面の下を通ることになります。県道の開通以前、この区間は崖が直接川に落ち込んでいるような地形であり、川べりには道がありませんでした。千束からは一旦柴北川べりを離れて、山を越すしかなかったのです。

 道なりに行けば石幢が見えてきます。案内もなく、半ば山勘で歩いてきたものですから、山道にしてはそれなりに道幅があるとはいえだんだん不安になってきた矢先のことで、首尾よう行き当たった嬉しさに思わず駆け寄ってしまいました。ここは、案内や道順の情報なしで辿り着くのはなかなか難しい場所です。全く道を間違えずに到着できたのは運がよかったというよりほかありません。

 正面に回り込んで感激いたしました。誰も通らなくなった山道に物言わで立ち続ける石幢。長い歴史を感じられる景観のよさは言わずもがな、石幢自体がたいへん立派で、ため息が出ました。この石幢は総高256cmもあり、町内で最大のものです。しかも笠のへりが少し傷んでいるほかは、ほとんど完璧な状態を保っています。バランスがよく、優秀作であると断言できます。全ての部材が円形であるのは大野地方ではたいへん珍しい事例で、犬飼町ではこの石幢だけです。犬飼町誌によれば、歯痛止めの霊験あらたかとの伝承があり、以前はお参りをする方があったとのことです。

 笠の内刳りが丁寧で、カーブがきちんと外周と並行になっておりなめらかな仕上がりになっています。垂木には赤い彩色が僅かに見て取れました。龕部には六地蔵様と閻魔様、お釈迦様が彫ってあります。細やかな彫りで諸像を表現しており、この部分にも痛みはほとんどありません。

 宝珠も見事な造りです。二重線彫りで表現した蓮の花が上品な感じですし、火焔にびっしりと施された文様も素晴らしいではありませんか。

 隣には板碑が倒れていました。卍が彫ってあり何らかの供養塔の類ではあるまいかと推察しますが、銘が読み取れず詳細は分かりませんでした。

 

○ 県道開通記念の唱歌

 『犬飼町誌』に、明治35年に土師・長谷間の道路開通記念に、長谷尋常小学校長であった足立金吾さんにより作詞された唱歌が掲載されておりますので、その文句を記しておきます。どんな節で唄われたのか分かりませんが、鉄道唱歌でも、勇敢なる水兵でも、好きな節で唄ってみてください。

〽千代万代に限りなく 村の為なり国の為
 土師長谷の文明は 鏡に懸けて見る如く
〽開き進まん心地よや 柴北川の清流も
 その源は御座ヶ岳 流れ流れて犬飼で
〽大野の川と合流し 千石船を浮ばせる
 土師長谷のこの道路 数千年の昔より
〽牛馬で背負う産物も 今から夢見る馬車となる
 人の行来も一力車 祝う今日こそ楽しけれ

 

今回は以上です。次回は犬飼地区の名所旧跡を紹介します。

過去の記事はこちらから