大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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菅尾の名所めぐり その3(三重町)

 前回に引き続き、菅尾地区の名所旧跡を紹介します。今回は間所石幢を皮切りに、大字井迫のうち森迫部落の石造文化を計4か所をめぐります。3基の石幢をはじめとして、庚申塔、宝篋印塔、宝塔、板碑など多種多様な石造文化財をたくさん見学できるので、菅尾地区の探訪コースの一例としてみなさんにお勧めいたします。特に間所の石幢は、当日10基以上見学した三重町の石幢の中でも特に心に残りました。興味関心のある方は、菅尾石仏に参拝するついでにでもぜひ足を伸ばしてみてください。

 

11 間所の石幢

 国道326号、菅尾駅前バス停から市街地方面に少し進み、横断歩道のある角を右折して踏切を渡ります。道なりに左カーブしてすぐ右折し、尾根を越して反対側に下ります。

 下り切る手前、この場所が石幢への入口です。それと知らなければ、この先に立派な石幢が立っているとは思えないような入口ではありませんか(入口にすら見えないかもしれません)。当初、まさかここから入るとは思いませんで、もう少し下ったところの田んぼと山との境界辺りから捜し始めてどうしても見つからず、最後の望みをかけてここから入って無事見つけられたのです。少し通り過ぎた左側に邪魔にならないように車を停めたら、写真の場所から茂みの中に入って行きます。

 中は平場になっていて、右側には防空壕跡かと思しき洞穴が口をあけています。中野確認はしませんでした。はて石幢はどこぞやと奥に進みますと、崖の上に立っているのが遠目に見えました。

 文化財の標柱が遠慮がちに立っています。この場所は旧道とのことですが荒れ放題でもはや道の体をなしておらず、こんなところを歩く人はいません。できれば車道からの入口に標柱を移していただきたいものです。石幢に近付くには、標柱の後ろから急坂を登るしかありません。枯れ竹やら倒木が折り重なり、見るからに通行に難渋しそうでした。どうにか転ばずに上り下りできましたがその歩きにくいこと、辟易いたしました。でも、この石幢は非常に特徴的な龕部を有しておりますので、頑張って登ればこそ間近で見学でき、結果的にはよかったと思います。

 円形の笠は大きく破損しています。龕部以下は矩形で、風化摩滅は目立ちますけれども笠のように原形を損なうほどの傷み方ではありません。龕部には六地蔵様、大王様、十王様の、合計17体もの像が彫ってあります。わたしの知る限りでは、県内に数ある石幢の中でも最も多くの像を彫り出したものであり、たいへん珍しく貴重です。龕部については別の写真で詳しく説明します。中台にはへりに連子模様、その下には線彫りで蓮の花を彫ってあります。

 豊後大野市のウェブサイトを参照しますと、幢身に多くの施主らしい名が確認できるとのことですが、現状では目視による読み取りは困難でした。紀年銘は見当たらないものの室町時代の造立と推定されているとのことです。

 この面には上の枠の中にお地蔵様が3体、下には2つの枠をとってめいめいに十王様が1体ずつ彫ってあります。左寄りのところの傷みが進んでいますが、諸像の姿はよう分かります。像の数が多いので1体ずつは小さいものの、夫々の特徴をよう捉えた表現です。特にお地蔵様は、衣紋の袂や裾のふっくらとした感じや優しそうなお顔がよう分かりました。

 この面には3つの枠をとっています。おそらく下の2体が十王様、上が大王様でしょう。大王様と申しますと閻魔大王かなと思うのですが、閻魔様は十王様の中に含まれます。十王様とは十王様を統べる存在なのでしょうか。その辺りは、不勉強でよう分かりません。

 右の面は、2つ上の写真です。左の面には田の字に枠をとって、十王様が4体彫ってあります。めいめいに所作が異なり、特に右下の像は横向きに彫ってあり、一般に思い浮かべる十王様の像とはずいぶん様子が異なります。

 この面は、最初に紹介した側と同じく上にお地蔵様、下に十王様が彫ってあります。お地蔵様の優美なるお姿が心に残りましたとともに、大きく亀裂の入っているのを見てとても残念な気持ちになりました。この立地にあっては倒壊も懸念され、何かのはずみで龕部が割れてしまう可能性もあります。これほど立派な石幢は滅多にみかけませんので、可能であれば安定のよいところに下ろして、適切な保存修理が望まれます。

 

12 塔ノ下の石造物

 間所の石幢入口から、田んぼの中を抜けて森迫部落の家並みの方に進みます。辻を直進して左カーブし、ガラス屋さんの作業場の裏の道を行きます。しばらく進むと、道路右側には仏様、左側には石幢と庚申塔が並んでいます。ゆっくり見学したいときは、どこか離れたところに車を置いて歩いて来た方がよさそうです。

 木の名前に疎くて、種類が分かりません。幹が何本にも分かれており、立派な樹形が印象深うございます。その根が浮いて、崖口が不安定になっているようで気にかかりました。そのねきに、御室におさまった仏様と野晒しの仏様が並んでお祀りされています。御室の仏様は風化摩滅により像容の判別が困難になってきています。少し高いところになるので、お供えのために階段をこしらえてあり、近隣の方の信仰の篤さが感じられました。

 石幢は中台を欠きます。笠は饅頭型で、内刳りがほとんどありません。龕部も幢身もすべて円柱状で、幢身は風化摩滅が目立ちますけれども龕部の状態は比較的良好で、お地蔵様の細やかな彫りがよう分かりました。めいめいに蓮台の上に立っており、光輪のやお慈悲の表情を拝見いたしますと、ほんにありがたい感じがいたします。この石幢は文化財に指定されていません。これほどのものがこともなげに道路端に立っているのです。まことほんとに、大野地方は石造文化財の宝庫であり、殊に石幢に関しては県内随一であると確信いたします。

 石幢の並びには3基の碑が並んでいます。左と中央は夫々2連になっており、特に中央は、これとよう似たものを国東半島でも見かけます。左の碑の銘は読み取り困難で、中央は左右の梵字こそよう分かりましたけれどもその下の銘はやはり読み取れませんでした。右の碑は庚申塔です。

宝暦九己卯天
梵字)奉庚申塔
二月初九日

 残念ながら中央で左右に割れてしまい、それが主たる銘にかかっています。碑面の荒れも目立ちますけれども、銘は容易に読み取れました。また、下の方に「市」などの字が見て取れます。これは講員のお名前でしょう。下部が破損して、めいめいの上の1字のみ残ったと思われます。

 

13 回春庵跡の石造物

 塔ノ下の庚申塔をあとに、道なりに行きます。右側にゴミ捨て場、左にカーブミラーのある辻を右折すれば、回春庵の石段に着きます。車は石段下に1台なら停められます。なお、回春と申しますのはこの辺りの字です。

 石段には手すりが設けてあり、安全に通行できます。庵寺は、大友氏の家臣として三重郷を支配していた森迫氏の菩提寺であったと推定されている由、今は公民館になっています。

 上り着いて右側には石幢が立っています。一見して、塔ノ下の石幢とよう似ています。こちらは中台が残っています(宝珠は後家合わせ)。ただ、龕部の状態に関して言えば、先ほどの石幢の方が良好です。めいめいのお地蔵様の衣紋の細かい彫りや足元の蓮の花など、間近に見ればよう分かりますが、地衣類の侵蝕と碑面の荒れが気にかかります。

 豊後大野市の説明文によれば、この塔は、以前は下の道路端に立っていたとのことです。銘により、天正6年に耳川の戦いで戦死した森迫鎮富の供養のため、その娘が天正9年に造立したことがわかる由。肉眼での読み取りは困難になってきています。文化財指定されていればこそ、このような謂れを簡単に知ることができます。

法華石書之塔

 蓋し一字一石塔でしょう。この種の銘ははじめて見た気がします。端的な言い回しで分かりやすく、よいと思います。

 日境内左奥には棚をこしらえて、6体の仏様が横1列に並んでいます。その造形は多種多様です。いずれもお慈悲の表情で、ほんにありがたい感じがいたします。しかも如意輪観音様をはじめとして細かい彫りが見事なものばかりで、保存状態も良好です。

 

14 回春庵墓地の石造物

 回春庵跡の境内左側から細道を上ればすぐ、古い墓地に出ます。それらしい上り口はほかにありませんから、すぐ分かります。墓地には、宝篋印塔、板碑、宝塔など多種多様な石造物が多数残っています(冒頭の写真)。

 説明板の内容を転記します。

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市指定史跡 森迫回春庵墓地

 この墓地は永享6年(1434)以後元禄2年(1689)までの255年間にわたる墓碑や石塔類50基あまりが建てられている。
 回春庵住職や中世森迫氏の墓碑とともに江戸時代中期の庚申塔などがあり、その形式も宝篋印塔、宝塔、無縫塔、板碑など多種類にわたっている。墓碑の中には森迫親正の父、鎮冨のものもあり、歴史や石造文化、民俗学にとっても貴重な仏教遺跡である。

豊後大野市教育委員会

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 説明板にある庚申塔が見つかりませんでした。もしかしたら茂みに隠れていたのか、または倒れていたのかもしれません。

 写真左寄りの塔はほかのものより背が高く、宝珠がことさらに立派です。笠塔婆かなとも思いましたが、どうでしょう。或いは、後家合わせかもしれません。奥には宝篋印塔や無縫塔、宝塔など種々ある中で、破損したものも目立ちます。

 宝珠を欠いたものが多いほか、後家合わせと思われるものもありました。地震などで崩れたものを積み直したのでしょうか。中央に写っている宝塔は、全体のバランスはそこまで優れていないものの、頭身や笠など一つひとつの部材はしっかりこしらえてあります。

 宝篋印塔の相輪を、五輪塔ないし宝塔の部材ですげ替えています。それ以外の部分はそれなりに良好で、格狭間も残っています。小型で素朴な塔です。奥の板碑も、小型なれども形がよう整うています。額部を線彫りにて表現してあります。

 宝篋印塔の相輪が、鉈で切ったように傷んでいます。どうして相輪ばかり傷んでいるのでしょう。やはり、細長い部材ですから外れて落ちたときに折れやすいのかなとも思いました。でも、地面はやわらかい土です。落ちただけではこんなことにはならない気もします。

 左奥の板碑は幅広で、特に立派です。この墓地に残る板碑の中では、特に古い形式を残すものでろうと思います。銘の読み取りは困難でした。この墓地全体が「史跡」として指定されているので、市のウェブサイトなど見ましても個々の石造物の説明はなされていません。わたしの知識では、見た目の特徴以上のことを説明できませんでした。簡単に見学できますから、興味関心のある方は実物を確認して、銘の読み取りなどに挑戦されてはいかがでしょうか。

 

今回は以上です。次回から三重地区の名所旧跡を2~3回に分けて紹介します。

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