大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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井田の名所めぐり その2(千歳村)

 久しぶりに井田地区のシリーズの続きを書きます。前回の末尾にて、大迫磨崖仏を紹介しました。そのとき、境内の石造文化財にふれていなかったので、今回はその補遺として大迫磨崖仏の続きから始めます。

 

4 大迫磨崖仏・その2

 磨崖仏についての説明や道案内などは、「井田の名所めぐり その1」の3番「大迫磨崖仏・その1」を参照してください。今回は磨崖仏周辺の石造文化財や神社を掲載します。繰り返しになりますが、一応磨崖仏の写真も掲載しておきます。

 何度拝見しても見飽きません。個性豊かな容貌がものすごいインパクトで、通りがかるたびに立ち寄って参拝しています。詳しい説明は繰り返しません。磨崖仏に目を奪われますけれども、境内には板碑や五輪塔、宝篋印塔、庚申塔、石仏などいろいろありますので、ぜひそれらも忘れずに見学してください。今からそれらを紹介します。

 崖際に4基の板碑と、五輪塔か何かの残欠がぎゅっと寄り集まって立っています。板碑の銘は読み取れませんでしたが、状態は概ね良好です。特に中央の板碑は形がよう整うていますし、額部が少し張り出しており、ほかの3基にくらべても手の込んだ造りであると感じました。

 この辺りは草や枯葉が目立ち、塔も半ば土に埋もれがちになっております。けれども2基の五輪塔に関して言えば、そんなに傷んでいません。左の五輪塔は水輪がやや扁平で、殊にどっしりとした印相を受けました。右端は宝篋印塔ですが軸がぶれて、相輪も失い、傷みが目立ちます。

 小さい仏様は、あの磨崖仏のインパクトに比べますとほんにささやかなものです。けれどもその優しいお顔を拝見いたしますと、心がほっといたします。

 参道脇のところの灯籠は非常に凝った造りで、装飾性に富んでいます。基壇の上に火袋のような形状の部材、その上には蓮台、火袋ときて、笠は石幢の笠のような形状です。蓮台を見ますと、花びらの一枚々々が中膨れでへりを僅かに反らせた形状になっており、本物の蓮の花そっくりではありませんか。華奢な造りなので傷み易そうな気がするのに、ほとんど傷んでいません。個性的な造形には石工さんのひらめきや工夫が感じられます。文化財に指定されてはいませんが、この場所にある数々の石造物の中でも特筆すべきものであると存じます。

 

5 大迫の稲荷厳島

 磨崖仏の敷地と地続きのところに神社が鎮座しています。神額には厳島社と稲荷社が併記されており、地域内の2社が合併したものでしょう。

 境内は手入れが行き届いています。鳥居には新しいシメがかかり、お祀りが続いていることが分かりました。

 神社の敷地の端に並ぶ石造物です。大迫磨崖仏の堂様の周囲にある五輪塔などと一連のものでしょう。こちらの方が平坦なところに立っているので、より状態がよいようです。特に五輪塔は、形がよう整うており、格好がようございます。右端の庚申塔の銘は「庚申塔」で、ごくシンプルな文字塔です。碑面が大きく前屈しており、形がよう整うています。このように前屈した形状の庚申塔は玖珠地方でよう見かけますけれども、大野地方全体で見ますと珍しい事例のような気がします。

 

6 イチリゲの二柱社

 大迫磨崖仏のところから県道57号(旧国道)を犬飼町方面に行きます。高添バス停の先、信号機のある辻から、県道の左側に並行に通っている道に入ります(左奥へ)。最初の角を左折して折り返すように上り、突き当りを右折します。少し行くと右側にゲートボール場があり、そのすぐ隣の木森の中に神社や石幢があります。ゴミ捨て場のところが入口で、ゴミ収集の邪魔にならない時間であればその前に寄せれば1台は駐車できます。

 ゴミ捨て場横から木森の中に入って、右側が石幢、左側が神社です。先に神社から紹介します。イチリゲというのは、このあたりのシコナか小字と思われます。

 参道入口には2基の石灯籠が立っています。杉木立の中を伸びる参道には敷石などありませんが、明るい雰囲気で気持ちがようございます。

 これはお手水でしょうか。それにしては、形状が突飛である気がします。けれどもこんなに大きなものが直立していたとは考え難く、はじめからこのように置いてあったと思われます。もしかしたら何らかの文字を彫ってあるのかなとも思いましたが、何のことやらよう分かりませんでした。

 この神社には社殿はありません。大きな木のねき、塚になったところの上に2基の石祠が並んでいます。左の石祠が大きく傾いているのが気がかりです。明治13年の銘があります。左に置いてある神額には「二柱社」とあります。これは神社を合併したことによる名称と考えられます。夫々が何の神様なのか現地では分かりませんでしたのでした。『千歳村誌』を読めばわかるかもしれないので、今度確認してみようと思います。

 

7 イチリゲの石幢

 今度は石幢ほか、二柱社と同じ木森の中に立っている石造物を紹介します。神社の敷地外のような気がしたので一応別項扱いとします。入口から見えるのですぐ分かります。

 この石幢は、総高が2m以上あります。県指定の文化財で、豊後大野市の説明によれば永禄4年の銘があり、道明禅門と妙西信女の逆修塔とのことです。饅頭型の大きな笠が目立ち、笠の内刳りが深いので、龕部が半ば隠れています。この種の特徴を持つ石幢は、臼杵市から吉野(大分市)にかけての地域で特に盛んに見かけます。以前、中臼杵地区や吉野地区のシリーズで数基紹介していますので、よければ見比べてみてください。こちらは、笠のへりにほどこされた垂木の装飾が外から見てもよう分かるほどくっきり残っています。笠の上面に一面こけがついておりますのも、これだけ均一になっていると却って美しいような気がしました。宝珠もまた凝った造りで、わりあい大きいのでよう目立ちます。蓮の花の文様は花びらの一つひとつが細長く、互い違いになっています。火焔もよう残ります。全体的に見て、中台と幢身のの接合部が少しよがんでいるほかはほとんど傷みがありません。

 幢身にはびっしりと銘文が彫ってあります。おもしろいことに幢身に格子状のごく浅い線を入れて、まるで原稿用紙のように升目をこしらえて1升あて1字ずつを彫ってあるのです。こんな手法をとったのは、見た目をよくするためでしょう。長い銘文を幢身一面に、均等に彫りたかったのではないでしょうか。無地の葉書に文章を書くことを想像してみてください。短い文ならさておき、ある程度長い文章の場合、余白を残さないように均等に書くのはなかなか難しいものです。幢身いっぱいに長い銘文を彫る場合はなおのことでしょう。それで、予め文字数を数えておいて、幢身の幅と高さから適切な升目の大きさを割り出して線を引いたのではあるまいかと推量します。最後の方で収まらなくなったら元も子もないし、かといってそれを懼れて文字を小さくしすぎると余白が広くなりすぎてしまいます。格子をとる手間を惜しまずに、仕上がりのよさをとったのでしょう。

 横並びの五輪塔はやや傷みが進んでいます。石幢と関連のあるものかもしれません。

 龕部には六地蔵様(立像)と2体の坐像が彫ってあります。坐像(この写真では左側の2体)は出家姿にて、道明禅門と妙西信女の像と思われます。幢身に銘文を彫ってある側にきているので正面にあたると見てよいでしょう。

 反対側の面です。お地蔵様はお顔の表情までよう分かりますし、めいめいに儀軌に沿うた所作になっています。しかも、夫々のぐるりの彫り込みの上部は円弧をなし、光輪の様相を呈しているではありませんか。細部までよう行き届いています。内刳りの深い大きな笠に守られているので、これだけ状態がよいのでしょう。

 

8 石五道の権現様

 二柱社の木森のところでUターンして道なりに行き、最初の十字路を右折します。中九州自動車道の上の跨道橋を渡ってすぐ、左側の側道入口のところに邪魔にならないように駐車します。ここから先は適当な駐車場所がないので、歩いて行った方がよいでしょう。すぐ先の三叉路を右折して少し行けば、左側に石幢や五輪塔などがたくさん寄せられています。ここは高添部落は石五道(いしごどう)組の権現様です。

 このように、文化財の標柱が立っているのですぐ分かります。五輪塔は壊れたものも多く、部材が安置されています。標柱の左に写っているのは石幢の残欠と思われます。

 道路端にある、この石幢(残欠)が文化財に指定されています。ひとつ前の写真に写っていた石幢残欠(幢身)とこれが組み合わさるわけではなさそうです。この石幢の幢身はどこにいったのでしょう。

  笠の縁を大きく打ち欠いておりますものの、中台や宝珠は状態良好です。中台には二重線を彫って蓮の花を表し、花弁にはごく僅かに彩色の痕跡が残っているように見えました。花びらを互い違いにせずに、めいめいが少しずつ離れて単独で彫ってあるのは珍しいと思います。豊後大野市の説明によれば大永6年の銘があり、凡そ500年前の造立です。龕部には10体の像が彫ってあります。

 この2面は六地蔵様です。1面あて3体ずつ彫ってあります。スペースの関係もあるかと思いますが、1体ずつ枠をとるのではなく、各面に大きく1つの枠をとってその中に3対ずつ横並びになっています。よう見ますとめいめいに所作が違いますし、お顔や光輪の丸っこいところなど丁寧に彫ってあることが分かります。しかし傷みが進み、破損が像にまで及んでいるのが惜しまれます。

 右の面の坐像は二王様(十王様のうち2体)と思われます。左の面の2体は何の像か分かりませんけれども、2体のうち右はお不動様のような気もします。矩形の龕部の各面2体ずつ、六地蔵様と二王様、合計8体の像を彫った事例は大野地方で多々見られますものの、このように8体を超す像を彫った龕部も散見されます。以前、菅尾地区など三重町の記事で8体を超す像を彫った龕部を持つ石幢も数基紹介しておりますので、よければ見比べてみてください。その像の種類や配置など、いろいろなパターンがあります。

 奥に写っている大きめの石祠の中は空になっています。何の権現様かは分かりませんでした。

 

9 楠神社

 車に戻って、先ほど渡った跨道橋を後戻り、辻を右折します(二柱社からなら直進)。右方向への三叉路を右折し、道なりに行き中九州自動車道にかかる跨道橋を渡ります。突き当りの左側から楠神社の参道が伸びています。車は路肩に寄せて停められます。

 このように、手すりのついた立派な石段です。安全に通行できます。楠と申しますのは大字石田の字です。神社の名前に地名をとっているのは、村社など社格を有する場合や、地域内の複数の神社を合併して新設した場合が多いように思います。楠神社の由来は分かりませんけれども、手入れが行き届いており地域の信仰が篤いようです。今なおお祭りが続いており、大迫神楽がかかります。

 参道脇の木の幹の曲がり具合がようございます。なんだか急に曇ってきてしまい、薄暗い写真になってしまいました。鎮守の森の中とはいえ、鬱蒼としているわけではなく明るい雰囲気の場所です。秋も深まりて空がいよいよ青みを深める頃などに参拝しますと、特に気持ちがよいと思います。

 本殿の素晴らしい建築に惚れ惚れいたします。釘を使わずに鑿と鉋でお細工をほどこし、互い違いにかみ合わせているところなど、芸術の域に達しているといえましょう。脇障子の彫刻も見事なものです。見切れていますがおばしまの曲線にも注目してください。また、基礎の石組の堅牢なること、紙切れ一枚の隙間もないほどです。何から何まで、匠の技の粋を極めるの感があります。

 社殿右側にはたくさんの石祠が横並びにお祀りされています。近隣から合併したものでしょう。特に大きい石祠の屋根のカーブの取り方が優美ですから、見落とさないようにしてください。

地神墓

 地神塔は特別に玉垣をこしらえて、鄭重にお祀りしてあります。大野地方では地神塔をよう見かけます。こちらはまるで庚申様のように腰の曲がった地神様です。「地神墓」と申しますのは、お墓の意ではありません。「庚申塔」を「庚申墓」と彫ってあるのと同様の事例です。

 社殿左側、裏参道の下り口近くには1基の宝塔が立っています。この宝塔は相輪がナタで切ったように破損しているのが惜しまれますが、ほかは頗る良好です。茶臼型の塔身の上には首部が目立ち、納経のためと思しき孔が確認できます。基壇には格狭間がよう残り、ほんに優美な雰囲気が漂うております。

 

10 楠の大乗妙典地蔵尊

 楠神社の三叉路を左折し、次の二股を右にとってずっと道なりに行きます。溜池よりは手前、道路右側の崖際に覆い屋を設けて、お地蔵様がお祀りされています。偶然行き当たり、通りがかりに立ち寄ってお参りしました。

 左の像は3面6臂です。台座には「大乗妙典」と彫ってありました。道路より少し高いものの、短い階段をつけてくださっているので簡単に参拝できます。

 

○ 千歳村の盆踊りについて

 千歳村では、かつては部落ごとに供養踊りをしていましたが高齢化や人口の減少で途絶え、長らく「千歳夏祭り」のときに村全体の盆踊りをしていました。ところが市町村合併後は「千歳夏祭り」も途絶えてしまい、今では盆踊りを踊る機会がほとんどなくなっています。千歳村の盆踊りは、長谷地区(犬飼町)の盆踊りと似通ったところもありますが、踊り方や節回しは夫々異なります。かつては「由来」「三勝」「祭文」「弓引き」「佐伯」「由来」「かぼちゃすくい」「団七」「半節」「銭太鼓」「切り上げ」など、10種類ほどの演目がありました。

由来(長峰
〽ごめん下され お座元様よ(ヤレショー ヤレショー)
 それについでは村方様よ(ヨーイヤセー ヨーイヤセー)
※坪借り

かぼちゃ(長峰
〽それじゃどなたも かぼちゃでござる(ヤレショー ヤレショー)
 私ゃ貰うても長いこたやれぬ(アヨーイヤセー ヨーイヤセー)
〽それじゃここらで 理とのぼりましょ(ヤレショー ヤレショー)
 今度願うのはお京の口説(アヨーイヤセー ヨーイヤセー)

※由来と共通の節で、踊り方が違う。

三勝(長峰
〽国は近江の石山源氏(ヨイトセー ヨイトセー)
 エイエー 源氏娘におつやというて(アーヤートセイセイ ヨイヤサノサ)
〽おつや七つで利発な生まれ(ドッコイショー ドッコイショー)
 一つなるとき乳たべ覚え(アーヤットセイセイ ヨイヤサノサ)

弓引き(長峰
〽弓は袋に剣は鞘に(ヨイトセー ドッコイセー)
 源氏平家の御戦いに(アラヤッチョンナンサー ドッコイセー)
〽平家方なる沖なる船に(ヨイトセー ドッコイセー)
 的に扇をさらりと上げて(アラヤッチョンナンサー ドッコイセー)

団七(長峰
〽国は備前の岡山町で(ヨイトセー ドッコイセー)
 エー長者娘におつゆというて(アーヤットセイセイ ヨイヤサノサ)
※三勝と共通の音頭で、こちらは3人組の棒踊り。

佐伯踊り(長峰
〽佐伯エー 領土は堅田が宇山(アヨイノヨイ)
 山じゃござらぬ名所でござる エーイソコジャ(ドスコイドスコイ)
 名所なりゃこそお医者もござれ(マードンドセー ヨーヤルナー)
〽お医者エー その名は玄了様と(アヨイノヨイ)
 玄了息子にゃ半蔵というて エーイソコジャ(ドスコイドスコイ)

 年は二十一男じゃ盛り(マードンドセー ヨーヤルナー)

祭文(柴山)
〽今度踊りは祭文踊りホホンホー(アラドスコイ ドスコイ)
 みんなお好きな祭文やろな(ソーレ ソーレ ヤットヤンソレサ)

祭文(長峰
〽月に群雲花に風 チリテンツンショ(アドスコイ ドスコイ)
 心のままにならぬこと(ソレー ソレー ヤットヤンソレサイ)
〽浮世に住める習いかな ホホンエ(アドスコイ ドスコイ)
 筑前筑後肥後肥前(ソレー ソレー ヤットヤンソレサイ)

半節(柴山)
〽唄え半節(ヨイヨイ) さらりと上げて
 桧板屋に(ハーヨイヨイ) ヨーイサ響くほどエー
 (ヤー響くほど 板屋の桧エー)
 桧板屋に(ハーヨイヨイ) ヨーイサ響くほどエー

 

今回は以上です。次回は中井田地区(大野町)の名所を紹介します。

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