大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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百枝の名所めぐり その2(三重町)

 久しぶりに百枝地区の名所旧跡を紹介します。百枝地区は石造文化財の宝庫の感があり、石幢や宝塔、宝篋印塔、庚申塔などの優秀作が、文化財指定の有無を問わで数々残っています。今回は大字西泉と向野(むこうの)の名所旧跡・文化財の一部を掲載します。その中でも西原の三社大権現前の庚申塔は、このシリーズの目玉といえましょう。

 

4 向野の庚申塔

 三重市街地から県道519号を千歳村方面に進み、百枝入口交叉点を左折します。ほどなく、青看板「→西泉・向野」に従い信号のない三叉路を右折して、県道693号に入ります。道なりに行って橋を渡れば大字向野です。右に生目様を見送って少し行けば、道路左側に庚申塔と仏様の御室が並んでいます(冒頭の写真)。道路端なのですぐ分かります。この中から今回は庚申塔を紹介します。小さい地名が分からなかったので、一応項目名は「向野の庚申塔」としました。今後、大字向野のほかの場所でも庚申塔を見つけたら、何か区別のための符牒を考えたいと思います。

 このように3基横並びになっていて、中央が刻像塔、左右が文字塔です。やや荒れ気味のように見えますけれども、めいめいの前にシャカキのお供えが上がっています。地域の方が気にかけておいでになるのでしょう。

青面金剛6臂、2童子(または猿)、ショケラ

 風化摩滅が進んでいるうえに地衣類の侵蝕が著しく、残念ながら細部の確認は困難を極めます。それでも主尊のお顔立ちはおぼろげながら判別できる程度で、凛々しい雰囲気が感じられました。大野地方でよう見かける小さい刻像塔です。腕の長さがまちまちであったり弓が異常に小さかったりと、自由奔放な表現が目立ちます。ショケラは辛うじて輪郭が分かる程度にまで傷んでいます。また、主尊の両脇には小さい立像の痕跡が見て取れましたが、はたしてそれが童子なのか猿なのか、さっぱり分からなくなっています。

庚申塔

 この塔は上部が破損しています。「庚申塔」の銘は容易に読み取れましたが、紀年銘はさっぱり分かりませんでした。

梵字庚申塔

 この場所に並ぶ3基の庚申塔の中では、こちらが最も良好な状態を維持しています。昔のめいめい墓の墓標のような形状の塔で、厚さもしっかりしています。上の方に大きな円をとって中に梵字を彫り、塔の上端が円弧をなしておりますのがよう合うておるように感じました。紀年銘もよういに読み取れる状態なのですが、この日は方々を廻った疲れで、右側に絡みつく蔓草をはぐって確認するのを忘れてしまいました。こんなふうに蔓草が絡んだり落ち葉がかかったりしているときはなるたけ除去するようにしているのですが、このときはうっかりしていました。

 

5 西原の三社大権現

 向野の庚申塔から、元来た道を後戻ります。橋を渡れば大字西泉は西原(にしばる)部落です。なお、西泉と申しますのは西原と法庵の合成地名です。西原に入ってほどなく、右側に三社大権現が鎮座しています。神社の鳥居前には庚申塔をはじめとして、たくさんの石造物が寄せられています。神社の敷地外のような気もしましたが、ここでは鳥居前の石造物と神社とを同一の項目で紹介することにします。駐車スペースは十分にあります。

 この一角には仏様のおさまる御室や庚申塔(刻像)などがだいたい前後2列に並んでいます。おそらく、地域内に点在していたものをこちらに集めてお祀りしたものと思われます。お供えがあがり、前にはシメをかけています。神様というよりは、仏様が主の区画ではありますけれども、神社の前にてこのようにお祀りしてあるのでしょう。説明の都合上、庚申塔はあとで詳しく紹介します。

 

○ 旧向野橋架橋の経緯

 神社前の一角に向野橋の記念碑が立っています。

 内容を転記します(片仮名を平仮名に、旧字を新字に改めて、句読点を補います)。碑銘の下の方が地衣類により見えづらくなっており、ところどころ読み取れませんでした。その部分は伏字(■)にしましたが、全体の意味・内容の理解には特に差し支えはないと思います。

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向野橋記念碑

由来百枝村の地勢は大野川の貫流に依りて向野区を左岸に隔て、昭和の今聖代尚昔の■■渡舟によりて交通するの外なく、為めに一度河水の氾濫に際しては物資の運搬の全く絶へ、有望なる学童の通学亦途なし。従って産業の発展、文化の向上も後■■■の恩恵に均霑せざるものあり、識者の深慮実に此にありき。
偶々政府に於て時局匡赦土木工事の施行せらるるあり、時恰も未曽有の旱魃■■■るも、此の機を逸しては千歳好機の再来せざらんことを念ひ、理事者率先■■■■県当局に申請して巨額の補助を仰ぎ、村費及地元の醵出を算じ総■資壹万貮百余円を投じ、近代的鉄筋混凝土、橋長百貮米、有効幅員参米の橋■■■■し昭和九年十二月工を起し、然も設計宜しきに適ひ工事の指揮者、従業者■■■尽して工程支障なく多年の宿望を達して、昭和十年六月目出度渡初■■■■。
吾等は更に克く此の負担に勘へ、進んで◆村の更生に新紀示を画し■■■■■永久の光輝あらしめんことを冀に以て記念の詞とす。

昭和十年六月 大野郡百枝村

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※◆=林の下に辰=「たがやす」 文字化けを懼れて伏字にしました

 昭和10年まで向野・西泉間の交通は、吊橋や沈み橋、とんとん橋どころか、渡し舟によるほかなかったということが分かりました。物資の運搬はもとより、,学童の通学問題が向野の方々の最も大きな困りであったことは想像に難くありません。多額の資金を投じてかけられた鉄筋コンクリート製の向野橋は、当時としては最先端の立派な橋であり、地域の誇りであったことでしょう。残念ながら当時の橋は残っていませんが、記念碑により当時の事情・地域の方々の思いを知ることができます。

 今は市街地以外の地域においても、道路改良がずいぶん進んでいます。でも、何の気なしに通行する橋やトンネルでも、その一つひとつに、昔の方の生活の困りやその改善の努力といった背景があります。ですから、この碑が神社の近くにきちんと保存されているのは意義深いことだと思います。

 写真は省きますが、すぐそばに水害復興記念碑も立っています。現地を訪れた際にはあわせて目を通してみてください。

 

では、ほかの石造物の紹介に戻ります。

 左は、立派な碑ですが読み取れません。4文字の漢字で、上から2文字目は「飛」、その下は「冨」のようです。

 右は納経供養塔です。

 記念碑の後ろ側にいくつかの板碑が集積してあり、横倒しになっているうちのいちばん上は、破損したものを向かい合わせに置いてあります。夫々梵字がよう残り、片方には「庚申塔」の銘が確認できました。これ以外は銘の確認が全くできませんでしたが、おそらくすべて庚申塔でしょう。圃場整備か道路工事などで元の場所から動かした際に、このように安置したと思われます。

 この背景を考えるに、今から紹介する3基の刻像塔はきちんと立ててあることから、文字塔はそれに付随するものとしての扱いなのではなかろうかと推量しました。それと申しますのも、大野地方や南海部地方などで1か所に数基(たいてい1~2基)の刻像塔とたくさんの文字塔が並んで立っている場合、刻像塔がその中心または一段高いところに立っており、お供えも刻像塔のみにあがっている事例をしばしば見かけます。重岡地区(宇目町)や川登地区(野津町)、中野地区(本匠村)などのシリーズで、そのような例を何度も紹介してありますから、よければ索引から辿ってご覧になってください。その場所に刻像塔と文字塔が何基あったとて全てをひっくるめての「庚申様」であり、その代表が刻像塔ということなのでしょう。

 では、刻像塔を見てみましょう。この項の冒頭の写真のところに、ほかの石造物に半ば隠れるように立っています。現地を訪れる際には見逃さないように気を付けてください。3基の刻像塔が横並びではなく前後に並んでいたので正面から撮影できませんでしたが、夫々の特徴は分かると思います。特に最後尾の塔は優秀作です。前から順に紹介します。

青面金剛6臂、ショケラ

 この塔は小型ながらも、主尊の表現がよう工夫されており、個性的なところ・おもしろいところがたくさんあります。それだけに上端の破損と碑面の荒れが惜しまれてなりません。

 まずご覧いただきたいのは、主尊のお顔です。凛々しい眉毛や厳めしい目付きにも拘らで、なんとなく愛嬌と申しますか、親しみやすさが感じられました。御髪や繭には墨を入れてあります。特に御髪など、本来の輪郭線をはみ出して墨を入れ、炎髪のボリューム感がよう表現されています。破損により一部しか残っていませんけれども、それがよう分かります。白い戟をお顔のすぐ横に掲げており、顔が切れはすまいかと心配になります。肩や腕にかけては筋骨隆々、丸みをもったラインで表現してあり、その外側には4本の腕が長さもまちまちに伸びています。宝珠を持つ腕など手首から先しか見えていません。なんとなくちぐはぐな感じもしますが、全体としてはバランスが整うておる気もしてきました。得てしてこの種の像は短足であることが多いものを、こちらは脚の長さが十分にある点にも注目してください。

 ショケラは横を向いています。哀れなるかや髻を掴まれましては、七重の膝を八重に折りてどうか御赦免なされの首尾でありましょうか。

青面金剛6臂、ショケラ

 こちらも碑面が荒れており、主尊も傷んできています。今のところはよう見れば細かい部分も分かりますが、この状態では傷みが進みそうで心配です。

 稚児の描いたる絵を見たような瑞雲を伴う日輪月輪はほのぼのとしていますが、主尊のお顔は、よう見ますとほんに不気味な形相です。白目を剥いた目が吊り上がり、口がすいぶん下の方にあります。おつばには赤い彩色の痕跡が認められます。御髪は総髪で、後ろになでつけたような櫛の目も鮮やかに、鬢も表現されています。肥った体型に対して腕はごく細く、自由奔放に曲げていろいろな武器を持っており、それが碑面いっぱいに広がり迫力満点ではありませんか。丈の長い羽織からは赤いひらひらの飾りが外向きに撥ね出しています。写真では見えづらいと思いますがショケラは正面向きにダラリと下がり、生気がありません。

青面金剛6臂、2猿、ショケラ

 この場所に誇る刻像塔の中でも、しんがりに位置するこちらの塔は明らかに異彩を放っています。苔がついていますが状態は頗る良好で、細部にわたって非常に細やかに表現されていますのがよう分かります。三重町に残る庚申塔(刻像塔)の中でも屈指の優秀作と言えましょう。

 まず特筆すべきは、余白を全く残さで一面に配された牡丹くずしの鱗模様でしょう。これは日輪と月輪のぐるりの瑞雲からの連続で、下端にまで及んでいます。その意図は定かではありませんが、華やかな印象を覚えますとともに、ちょうど庚申様が中空の雲の掻い間より降臨するような神々しい光景を想起させます。これは素晴らしい。こんなに手間のかかる手法をとっている例は滅多に見ません。しかも、その模様の一つひとつに形式的なところが全くなく、右に左に、自由奔放に渦を巻き、それがまたほどよい塩梅で配されているのです。彫りの技術はもとより、絵画的な表現力にも優れた石工さんでなければ無理でしょう。

 主尊のお顔はよう整い、眉や目の形がよいし、顎のラインもシャープです。御髪の形もよいと思います。腕の付け根も上下にずれることなく違和感がないし、弓や矢、宝珠、三叉戟など、武器も厚肉に彫ってありますから夫々の形状がくっきりとしています。三叉戟は杖に見替えの長さにて、腰のあたりに回して棍棒か何かを持っている腕の後ろを通っています。この辺りで少し直線がずれているのはご愛敬といったところでしょうか。衣紋の表現も見事なもので、細かいひだがよう分かりますし、前で結んだ緒の房飾りまで表現されています!ショケラはだらりとさがり、正面向きです。顔が苔で隠れているのが哀れを誘います。
 主尊の足元では、左右に猿が控えています。見ざる言わざる…ではなく、めいめいが長い御幣のついた棒を持っています。このように御幣を持った猿は、国東半島の庚申塔で盛んに見かけますが、大野地方ではあまり多くはない気がいたします。

 さて、数段の石段を上って鳥居をくぐればわりあい幅の広い参道がまっすぐ伸び、正面には大権現の拝殿があります。あまり広い場所ではなくすぐ右側には道路が通っていますが、やはり神社の境内というものは一歩足を踏み入れますと、神聖で清々しい空気が感じられるものです。

 こちらの祭神は大野九郎泰基です。この地方を治めていた大野九郎泰基は源頼朝の家来であった大友能直に攻め込まれ、神角寺山の合戦で敗退し自刃しました。その後、豊後一円に伝染病が蔓延し、飢饉も起こり、これも大野九郎泰基の祟りと噂されまして、神社を建立するに至ったとのことです。

 本殿には紅白の美しい彩色がなされています。ぜひ、参拝時に確認してみてください。

 脇障子の彫刻も見事なものです。こちらは「鯉の滝登り」が彫ってありました。滝も鯉も白一色ですけれども、余白(朱)と丁寧に塗り分けています。

 拝殿に対して直角の向きに並んでいる石祠と灯籠です。最も大きい祠には、木製の戸がついています。

 

今回は以上です。次回は南緒方地区のシリーズの続きを書きます。

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