大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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大野の名所めぐり その2(大野町・緒方町)

中原の畑作地帯

 今回は大野地区に点在する庚申塔などの石造物を中心に紹介します。沈堕の滝などを訪ねた際、通りがかりに偶然見つけたものばかりです。帰宅後にグーグルストリートビューで捜してみますと、ほかにも庚申塔、石幢、三界万霊塔などがあちこちで見つかりました。それらはまたの機会としまして、ひとまず写真のある分を全部載せます。

 

6 両家の庚申塔

 前回の末尾に紹介した沈堕の滝(男滝)から、車で県道に返って平井川べりを進みます。矢田本村を過ぎて「←朝倉文夫記念館」の標識のある角を左折します。ずっと道なりに行くと、両家部落のかかりにて道路右側に庚申塔が並んでいます。

 文字塔が4基(この写真では1基が刻像塔の右後ろに隠れています)、刻像塔が1基です。祭壇をこしらえて鄭重にお祀りされています。3方を囲まれていますので破損の心配が少なく、何よりではありませんか。文字塔は銘の読み取れないものもありましたが、4基のうち3基が「庚申塔」という銘でした。刻像塔を詳しく見てみましょう。

青面金剛6臂、3髑髏

 一目拝見して、珍妙を極めるデザインに釘付けになりました。主尊は高貴な方の冠のようなものを頭に載せています。そしてお顔のまわりの光輪が碑面いっぱいに広がり、塔の上部は光輪のカーブがそのまま縁取りになっているのです。その光輪の中、お顔の横にささやかな日月が浮き彫りになっています。月は三日月です。まるで天体や時間の流れをも統べるような、くすしき力が感じられるではありませんか。お顔の表現も風変りで、凛々しい眉毛の下には三角形の目が浮彫りになっていて、まるで漫画のようです。立派な団子鼻やたらこ唇にはどことなく愛嬌が感じられます。髑髏が3つもついた首飾りをしている点にも注目してください。
 衣紋は上部が袈裟懸けになっていることから胸周りは露出しているものと思われます。ですからその部分の横線は胸筋を表しているのでしょう。ずいぶん強そうなのに腕や脚はヒョロリとしているのがおもしろいところです。衣紋の下部はたっぷりとしたドレープ状の仕立てで、何とも風変りです。左側の下の腕で持った弓の異常なる小ささが可愛らしいではありませんか。また、右側の上の腕で持った鉾が、体の後ろを抜けて右足の横にまで達しているのもほんに珍妙なことでございます。
 猿も鶏も伴わない素朴な塔でありながら、その個性的な表現方法が素晴らしいと思います。今後も地域の安寧や交通安全など、長く見守っていただきたいものです。

 

 両家の庚申塔のすぐ先、「止まれ」の三叉路を鋭角に左折します。道なりに橋を渡った先が大字夏足(なたせ)は津留部落です。

○ 津留の盆踊りについて

 津留部落は大野町きっての踊りどころで、明治初年に志賀から伝わってきて以来たくさんの種類の踊りが受け継がれてきました。やはり志賀の盆踊りがいかに近隣に影響を及ぼしていたかが覗われるわけですが、津留では志賀とは違い太鼓を使いますし、口説の節も少し違います。伝承の過程で夫々に工夫して、差異が生じたのでしょう。

 演目は、昭和55年の時点で「二つ拍子」「祭文」「杵築踊り」「大阪踊り」「三勝」「佐伯踊り」「弓引き」「風切り」「団七踊り」「猿丸太夫」「麦搗き」「かますか踏み」「三つ拍子」の13種類もありこれだけでも驚きですが、さらに昔、最盛期にはなんと25種類もの演目が伝わっていたとのことです。手踊りのほか綾踊り(扇子や銭太鼓など道具を使う踊り)が多いのが特徴で、口説と太鼓に合わせて手を変えしなを変え、次から次に踊っていきます。難しい踊りが多く、著しい高齢化・人口減少により伝承に難渋していることが推察されます。どうにか受け継がれていくことを願うてやみません。

 

7 大渡の石造物

 津留部落をすぎて、ずっと道なりに行きます。一山越して下っていけば大野川べりの大渡(おわたり)部落に出ます。その中ほど、道路左側の一区画にたくさんの石造物が寄せられています。車は路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかありません。

 なお、大渡部落も大字夏足のうちですが、前回申しましたとおり昭和30年に緒方町に分離編入されました。いまでは同じ豊後大野市の仲間ですけれども、平成の合併以前の大字夏足は、大野町と緒方町に跨っていたのです。

 一枚岩に浮き彫りにした六地蔵様の造りが見事なものです。めいめいに舟形光背を掘り込み、半肉彫りにしてあります。大野地方におきましては六地蔵塔(石幢)の作例が多く、このように横並びに表現した六地蔵様は少数派であるような気がします(国東半島はこれと反対の傾向にあります)。

 左のお弘法様は、銘によれば四国八十八所の巡礼供養塔です。この地からお四国さんに出て満願成就と相成った紀念に、地域の方々のために造立されたものでしょう。文化2年のことにて、本場の四国八十八所を巡礼するのは容易なことではなかったはずです。右のお地蔵様は文化財に指定されている両面地蔵様です。説明板の内容を転記します。

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県指定有形文化財 昭和50年3月28日指定
大渡石造地蔵菩薩像 緒方町大字越生

 凝灰岩の自然石に、上半身はやや肉厚をつけてあらわし、下半身は線刻により刻み出すなど技法的な変化をもたせている。両貌は両目を吊りあげ両口端が上がった古拙の笑みをたたえている。頸部は短く、両肩が張り地方的要素が濃い。また、裏面にも線刻された地蔵菩薩がある。表面は丁寧に刻まれているが、裏面は粗い彫り出しである。一枚岩に線刻された仏像はめずらしく、地域の人々の間で両面地蔵と広く進行されている。左側に「永享二庚戌歳八月廿四日 願主道恵 敬白」という銘文が印刻されている。

緒方町教育員会
※永享2年=1430年

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 一点補足しますと、地名が「緒方町大字越生」となっていますが、正しくは「緒方町大字夏足」です。分離編入以降、大渡部落は対岸の大字越生(こしお)の各部落と一体の地域となっています。それで、おそらく大渡の所属する行政区は「越生」となっているのでしょう。つまりこの地名は、所在地ではなく文化財の管理者「越生区」を表現したかったのだと思います。そうであるなら「緒方町越生区」と表記すべきです。細かいことですが、気になりました。

 銘は読み取れませんでしたが庚申塔と思われます。

 下段には願の中に仏様を収めた石造物が並んでいます。古い墓碑のような気もしますが詳細は分かりませんでした。

 

8 川南の庚申塔

 今度は大字田代は川南部落の庚申塔群を紹介します。大渡からの道順を説明すると繁雑になるので一旦区切ります。大野総合運動公園を起点として、道なりに県央飛行場の下をくぐります。右カーブしてすぐ、道路右側にたくさんの庚申塔が並んでいます。車は道路端に邪魔にならないように停めます。通りがかりにたまたま見つけた庚申塔群の中に、思いがけず刻像塔も1基ございまして、たいへん嬉しくなり喜び勇んで見学いたしました。

 さて、この場所では文字塔11基、刻像塔1基を確認しました。藪に埋もれがちであったので、気付かなかった小さな塔がほかにもあったかもしれません。端から順に説明します。

 この4基の銘は、左から2番目のみ「猿田彦」、あとの3基は「庚申塔」です。文字の部分にほんのりと赤い彩色が残っていました。

 この4基の銘は全て「庚申塔」です。左端の比較的大きな塔には、銘の上部に○で囲うた中に梵字が確認できました。いずれも碑面の状態はそこまで悪くないものの、ごくささやかな線彫りで銘を刻んでありますのでだんだん見えづらくなっているのが惜しまれます。この左に小さな刻像塔がありますが、それは後回しにします。

 無縁墓への通路を挟んで、左側にも3基立っています。右の塔は碑面が荒れて銘が読み取れませんでした。中の塔は、上に梵字を彫ってその下に「庚申塔」です。左の塔は梵字のような文字が彫られていますが読み方が分かりません。これのみ薬研彫で、立派な字体です。上部の破損が惜しまれます。

青面金剛6臂、ショケラ

 残念ながら碑面が荒れてきておりますけれども、彩色がよう残っています。しかもただ1色ではなく、臙脂色、朱色、黒との3色で丁寧に塗り分けています。主尊は目を瞑ったお慈悲の表情にて、青面金剛というよりはお観音様のようにも見えてまいりまして、さても優しくそうな、ありがたい感じがいたします。腕の付け根が離れようがコチャ知らぬとばかりの自由奔放な表現にて、特に中の腕がことさらに短く、指の表現など失礼ながら稚拙でありますけれども何となく可愛らしい感じがいたします。がに股でどっしりと立つ姿の力強さとの対比もおもしろいではありませんか。また、ショケラは彩色によって表現してあります。これはずいぶん風変りな手法で、おもしろく感じました。

 この刻像塔は、横並びのどの文字塔よりも小さく、ささやかなものです。それだけに主尊のかわいらしい姿が一層引き立ちまして、なぜか愛着が湧いてまいりました。

 こんなにたくさんの庚申塔が並んでいるのは、近隣に点在していた庚申塔を集めてお祀りしたためと思われます。道路端で、基礎をきちんとしてあるので倒伏の心配がなくなっています。地域の内外を問わず興味関心を持つ方が増えて、粗末にならずに維持されることを願うています。

 

9 七辻の石造物

 七辻部落の石造物は、もう15年ほど前になろうかと思いますが、この辺りの道路端にただ1本ぽつんと立っている百日紅を見に行ったときに偶然見つけたものです。その百日紅をまた見たやと思いまして先日、大字中原(なかばる)から片島にかけての丘陵地帯を行きつ戻りつ、ずいぶん捜しましたがとうとう分かりませんでした。でも七辻の石造物には首尾よう行き当たりまして、当時気付かなかった庚申塔(刻像塔)も見つけることができ嬉しさも一入でした。

 川南の庚申塔から道なりに行き、突き当りを左折します。しばらく行くと、県道26号との交叉点が「止まれ」になっています。これを直進してなおも道なりに行きますと、七辻部落の入口、道路右側の角の木蔭に石造物が寄せられています。

 以前訪れたときはきれいに草を刈ってあったのですが、再訪の時季が悪かったのでしょう、草に埋もれ気味になっていました。

 御室の屋根、特に破風のところなど豪勢な感じがして素晴らしいと思います。中の仏様は、ずいぶん風変りな髪型です。または何かを被っているのでしょうか。詳しいことは分かりませんでした。

 たいへん高貴なお顔立ちの仏様です。前に打ち合わせたたっぷりとした袂、裾まわりの表現や、蓮の花の表現の工夫など何もかもが見事なものではありませんか。台座に彫られた文字は読みが分かりませんでした。

 小さな庚申塔が7~8基程度寄せられています。刻像塔が1基、あとは全部文字塔でした。左奥の塔以外はどれも傷みが進んでいて銘の確認は困難を極めましたが、2~3基は「庚申塔」と読み取れました。

青面金剛6臂

 碑面が荒れ、しかも地衣類の侵蝕も著しく、細かい部分の確認は難しい状態です。

 大野地方で見かける庚申塔はほとんどが文字塔で、たまに刻像塔も見かけますがその数としてはおそらく全体の1割にも満たないでしょう。そして、朝地町・大野町で見かけた刻像塔はすこぶる小型で、眷属を伴わず主尊のみを配したものばかりでした。ただ、大野地方と申しましてもたいへん広いので一概には言えません。実際に、野津町では国東半島のものに近いような刻像塔も数基見つけています。今後、当地方の各町村の庚申塔をもっと見つけ出して夫々比較すれば、地域性が見えてくると思います。

 七辻の庚申塔の周りは一面が畑です。ここから少し行けば冒頭の写真の場所に出ます。こちらの丘から向こうの丘まで見渡す限りの畑を見ますと、やはり大野町は畑どころの感がいっそう強くなりましたし、「大野」という地名も宜なるかなといったところでございます。特に名の知れた景勝地ではありませんけれども、ドライブを楽しむのにもってこいの場所です。

 

今回は以上です。このシリーズは一旦お休みにして、次回は安岐か津房の名所を考えています。