大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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養老の名所めぐり その1(大野町)

 このシリーズでは大野町は養老地区の名所旧跡を紹介します。まだ行ったことがない場所ばかりなので、初回はたった2か所のみの短い記事になります。

 さて、養老地区は大字酒井寺(さかいじ)・桑原(くわばる)・北園(きたぞの)・大原(おおはる)・屋原(やばる)からなります(いずれも町村制施行以前の村)。著名な名所旧跡としては落水磨崖仏や醍醐寺、坊ノ原古墳があげられましょう。ほかにも、方々に鎮座している神社や道路端の石造物、大原の広大な畑の風景など、いろいろあります。これからの探訪が楽しみな地域です。

 

○ 地名「養老」「酒井寺」の由来

 「養老」という地名は、近隣の旧町村名とは明らかに毛色が違うのでその由来が気になっていました。このシリーズをはじめるにあたって調べてみましたので、内容を記しておきます。

 地名「養老」の初出は、明治22年4月1日の町村制施行時です。旧5か村(酒井寺・桑原・北園・大原・屋原)が合併して養老村を名乗りました。ところが早くも明治40年には大野村・田中村・中井田村・土師(はじ)村と合併して東大野村になり、昭和3年には町制を施行し大野町となっています。この町域の大部分が平成の大合併まで維持されました。一般に、町村制施行時の旧町村は昭和30年頃の合併まで継続した事例が多い中で、大野町は一足早く成立したのです。それがために「養老村」が存在したのはたったの18年間であり、今は「養老」という呼称はバス停に残る程度になっています。しかしながら明治以降の地名ではあるとはいえ、この地域の古事に由来するものです。

 この「養老」の由来を説明するにあたって、旧酒井寺村(現・大字酒井寺)について記しておく必要があります。酒井寺村は、明治8年に岡倉村・平野寺村・門前村が合併して成立しました。酒井寺と申しますのは旧門前村にある醍醐寺の旧称であります。ここで、醍醐寺(酒井寺)の由来について田山花袋著『新撰名勝地誌』より引用します。この本は、国会図書館のデジタルサービスにより、ウェブ上で閲覧することができます。

~~~『新撰名勝地誌』より
 醍醐寺は養老村大字酒井寺にあり。天平勝宝四年、釋正覚此地に巡錫して偶々酒泉の出づるを認め、是れ霊区なりとて一浄刹を建て名づけて酒井寺といひ、世々台教を奉ず。後大友親秀の第八子僧となり此に住す。天正以降廃寺となりしを岡藩主中川久清修復して、碧雲寺天南老子閑栖の地たらしめしより、今の寺号に改め同時に臨済派の禅門となる。
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 このように、お酒の湧き出る泉(酒井)を見つけた釋正覚がその地に酒井寺を開基したという伝承があります。そしてこの酒井というのが、「養老村」の由来にも関係しているのです。これについても『新撰名勝地誌』に詳しいので、引用します。

~~~『新撰名勝地誌』より
 豊日志に曰、土師氏女あり、其母酒を嗜めども家貧にして得ること能はず。其女百方労苦之を給す。適ま一厖眉来り教へて曰く、其処に醸泉あり以て之に充つべし。且つ善く齢を延べ疾を医すと。遂に山下を走りて之を覚むれば則石罅泉あり。之を甞むれば味醇美なり。大に喜び日に汲んで之を供す。郷里之に頼り其の孝徳を感敬す。乃今の酒井なりと云ふ。蓋し養老の村名も亦之に起因せるなるべし。
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 そう難しい文章ではないので、解釈は省きます。「養老村」の呼称は、酒井寺にあったとされる酒井を題材にした孝女の話が由来であることが分かります。群馬県の養老の滝の由来によく似た話です。世代がかわり、こういった地域の伝説・昔話を知っている人がだんだん少なくなっています。それで、経緯・由来を詳しく書いてみました。

 

1 神松の石造物(バス停そば)

 大字大原は神松バス停そばの墓地の入口にある石幢と庚申塔を紹介します。大野市街地より県道57号(旧国道)を朝地方面に進みまして、養老バス停と歩道橋のすぐ先の交叉点を左折します。道なりに行って、突き当りの右側角に目的の石幢・庚申塔が立っています。道路端なのですぐ分かります。車は、この突き当りを左折したところの神松バス停前の路側帯が広いので、バスの時刻を見て邪魔にならないようなら少し停めてもよいと思います。

 この石幢は笠や中台の破損が目立つうえに、残念ながらその傷みが龕部にまで及んでいます。しかしながら、元々は細部まで行き届いた作であったと思われます。詳しく見てみましょう。

 まず龕部は矩形で、1面あて2体の像が彫ってあります。傷んでいる像があるので全ての確認は困難ですが、六地蔵様と何か別の像が2体彫ってあるようです。写真に写っている左面の左の像は、右手で杖をついてやや前傾して立ち、左手を上げています。こんな所作のお地蔵様はあまり見たことがありません。右の面は大きく破損しているものの、残っている像を見ますと立派な舟形光背を伴い、明らかに左の面の像とは様子が異なります。夫々彫りが浅いものの、細やかに表現されています。中台はひどく傷んでいるものの、へりの残部には連子模様が見てとれます。

 幢身には四面に梵字がくっきりと残り、そのぐるりを円形に白く色づけしてあります。文化財には指定されていないものの、大野地方に数多く残る石幢の形式のひとつを示すものとして貴重なものではないでしょうか。墓地が近いこともあってかお世話が行き届いてあり、花立てにはお花があがり、お線香を燃した跡もありました。

(左)
梵字庚申塔

(右)
奉待庚申塔

 左の塔は正徳年間の造立です。中央に大きく亀裂が走っていますが、うまく修復されています。中央の塔は銘の読み取りが困難でした。右の塔はごく小型ですが、台石の上に立っています。

(倒れた塔の右)
梵字青面金剛

 左の塔はひとつ前の写真と重複しています。小型の庚申塔ばかりですが、めいめいに花立てがあって、全部にいろとりどりの切り花がお供えされていることに驚きました。近隣の方が気にかけておいでになるのでしょう。しかも、倒れた塔にもお花があがっています。また、石幢と同様、お線香を燃した跡もあります。刻像塔はまだしも、文字塔がこれほど鄭重にお祀りされてある事例は稀になってきていると思います。

卍(以下不明)

 卍の下の銘がすっかり消えてしまっています。この形状で、上端に卍を置く庚申塔を近隣でも数基見かけています。立地から考えても、これは庚申塔でしょう。

 

2 落水の霊場

 今度は落水(おつるみず)磨崖仏を目指します。こちらは、磨崖仏以外にも庚申塔や石仏、神社などいろいろありますので、項目名は落水の霊場としました。神松の庚申塔から元来た道を後戻って、左側に住吉公民館のところを右折して少し行くと左側に鳥居があります。その鳥居のところから下っていきます。詳細は、下のリンクから過去の記事をご覧ください。

oitameisho.hatenablog.com

 

○ 酒井寺の田植唄「半節」

 酒井寺で昔唄われた田植唄を紹介します。

〽今日の苗取りゃ(ヨイヨイ) ヨイサ若手の揃いエ
 どこで約束(ヨイヨイ) ヨーイサして来たなエ
〽どこで約束(ヨイヨイ) ヨイサしちゃ来ぬけれどエ
 道の辻々(ヨイヨイ) ヨーイサ出合うて来たよ

  この種の節をもつ唄は、昔は大野地方から直入地方にかけて広く唄われていました。大野町や千歳村では「半節」という符牒で呼ばれています。そのほとんどが田植唄でしたが、大野町や千歳村では盆踊り唄としても唄われていました。

 「半節」には1節ずつに下句の半ばで折り返していく節と、返しをつけない節とがあります。酒井寺のものは返しがありません。上句と下句がほぼ同じなので単調なようで、節が細かくて唄い方が難しうございます。今は田植唄を唄う機会がないし「半節」の盆踊りも廃れているので、すっかり忘れられてきていますが、節回しが情趣に富んでおりなかなかよい唄だと思います。

 

今回は以上です。次回は百枝地区のシリーズの続きを書きます。

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