大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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美和の名所めぐり その1(豊後高田市)

 このシリーズでは豊後高田市のうち美和地区の名所旧跡を紹介します。美和地区は大字美和・鼎(かなえ)・払田(はらいだ)からなります。 このうち美和と鼎は明治8年の合併による地名です。旧美和村は田福(たふく)・川原(かわばる)・野部(のうべ)・雷(いかずち)の旧4村、旧鼎村は智恩寺(ちおんじ)・高宇田(たかうだ)・鴨尾(かもお)の旧3村により成立しました。前者は美称的な新設地名であり、後者は3つの村が合併したことから3つ足の「鼎」を地名としたものでありましょう。いずれも旧来の地名とは趣を異にしますが、平等性に留意したものと推察されます。「美和」「鼎」いずれも成立してから100年以上が経過しています。

 さて、この地域の名所旧跡のうち著名なところを申しますと智恩寺、青宇田(あうだ)の延命寺跡(画像石・磨崖仏)、穴瀬(あなんせ)の横穴墓群があげられましょう。ほかにも各地に点在する庚申塔や石造仁王像、鴨尾の東見庵跡の国東塔、鼻津岩屋など、文化財・史跡が多数あるようです。まだ行ったことのないところばかりなので、今後の探訪が楽しみな地域です。

 初回は大字鼎のうち、智恩寺部落と高宇田部落の名所や文化財を少し紹介します。

 

1 智恩寺

 市街地から県道34号を田染方面に行き、ローソン森店の三叉路を左折します。橋を渡り、北部中核工業団地入口の交叉点の1つ手前の角(※)を右折します。角に「智恩寺」の看板が立っているのですぐ分かります。ここから先は普通車までなら通行できますが、離合不能の細い道をくねくねと上っていくことになります。少しずつ改修工事がなされているものの、全線改修はすぐのことではなさそうです。現状としては、一旦車で進入しましたらお寺の坪まで上がらないと駐車できませんし、転回も困難です。運転が不安な方は、※印の角よりも少し手前に路側帯の広いところ(自動販売機あり)がありますので、そこに停めて歩いて上った方がよいと思います。

 左に壊れた石灯籠が立っています。ここが分かれ道になっており、道標のとおり直進します。ここまで車で来た場合ちょっと進入がためらわれるような道ですが、普通車までなら通れます。

 上り着いたらすぐ説明板が立っています。車を停めたら、まず目を通しておくことをお勧めします。内容を転記します。

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良薬山 智恩寺

智恩寺の成立
 良薬山智恩寺は、本尊に薬師如来を祀る六郷満山本山本寺のひとつで、伝承によれば八幡神の化身 仁聞菩薩が養老2年(718年)に開基したとされる古刹です。
 過去の発掘調査では、智恩寺境内からは奈良時代の古瓦片が出土しており、六郷満山の中でも特に古い時代のものといえます。また、貴重な遺構として、鎌倉時代の梵鐘の鋳造跡・鋳型の一部が発見されています。

○中世の智恩寺
 智恩寺境内で最も目をひくのは、南北朝時代につくられた智恩寺国東塔(大分県指定有形文化財)です。高さは300cmほどで、安山岩製です。国東塔の象徴ともいえる蓮弁の形状が立体的で美しく、全体としての姿は縦にすらりと伸びており、豊後高田市内では特に優秀な作とされています。
 中世の智恩寺では、鎌倉時代から大友氏の家臣 小田原氏が歴代院主を務めました。中でも鎌倉時代に活躍した小田原良範は、本山寺院全体を統括する権別当にも任じられており、六郷満山の僉議において強い影響力を持っていたと考えられます。武士による支配の名残として、境内の周囲にある寺屋敷や西城には、堀などの防御施設の跡が確認できます。

○講堂と修正鬼会
 智恩寺講堂は、智恩寺の信仰の中心となる建物で、かつては「鼎の大堂」と呼ばれていました。峯入りの柱銘が残されていることから江戸時代後期の建物と考えられています。
 この講堂では、昭和30年代までは旧暦の1月3日に修正鬼会を盛大に執り行っていました。現在では鬼は登場しませんが、かつて修正鬼会が行われた旧暦の1月3日に修正会と呼ばれる法会を実施しています。

豊後高田市観光協会

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 この説明板には昭和30年頃の修正鬼会の写真も載っています。講堂の中に僧侶が集まり、その下では学生服を着た5人の男子中学生が楽器を演奏しています。正装・一張羅ということで、制服で参加したと思われます。

 いま、智恩寺は無住であり、伽藍は講堂を残すのみとなっています。見るからに古い建物で、歴史を感じます。屋根は葺き替えているようですが、柱や壁は修正鬼会をしていた昭和30年代当時と変わっていないのではないでしょうか。

 天井板はなく、垂木がむき出しになっています。中は広々としており屋根は高く、素朴ながらも伝統的な建築技法の粋を感じました。どなたでも自由にお参りできるようにしてくださっていますので、お参りと同時に柱や屋根の造りを見学されてはいかがでしょうか。なお、峯入の札には「六郷満山仁聞大菩薩古跡入峯行者拾人」と書いてあります。

 講堂横、車道を上がってすぐ左側のところの石造物です。左の石祠以外は破損が著しく、残念に思いました。

 この国東塔が説明板で言及されていたものです。見事な造形に惚れ惚れ致します。すぐ横には石幢の龕部も安置されています。それぞれ詳しく紹介します。

 見ても見厭かぬ素晴らしい造形でございます。説明板によれば南北朝時代の作とのことですが、そんなに古いものなのにほとんど傷みがありません。相輪のほっそりとしたところから、小さい蓮坐から露盤の格狭間、笠にかけての緻密な造りといったらどうでしょう。笠はやや扁平で、照屋根の様相を呈しています。隅の反りがささやかで品がよいではありませんか。首部は目立たず、茶壺型の塔身もまた程がようございます。

 そして、このお塔で特によいのが台座です。請花は立体感に富んだ彫りで、花弁のふっくらとした感じを上品に表しています。反花の花びらはならだかに膨らんで、下端にてふっくらと丸みを帯びており、請花とはまた異なります。基壇の格狭間もよう残っています。

 この石幢は龕部から上だけが残っています。龕部は矩形で、1面あて2体の像が彫ってあります。この種の矩形の龕部は、大野地方が本場といえましょう。国東半島では珍しい事例ではなかろうかと考えます。傷みがひどいものの、細やかな彫りでお地蔵様などを表現してあることが見てとれました。

 この宝塔はおそらく笠が後家合わせでしょう。首部が異常なる大きさで、一見してちぐはぐな感じがいたします。委細は分かりませんけれども、個性的な造形が心に残りました。


豊後高田市中核工業団地
開発地域に眠る有縁無縁
一切之萬物之霊位

 近年に造立された三界万霊塔です。智恩寺のすぐ近くには、鼎台と申しまして山を開いて工業団地が造成されています。その区画にはおそらく、古い五輪塔などの無縁墓があったのでしょう。そのお供養のためのものと考えられます。

 講堂前から右の方に行きますと、やや荒れ気味ですが古い道が「イヤの谷」の方向に伸びています。後ほど申しますが、イヤの谷にはかつて坊が立ち並んでいたようです。その頃には、盛んに利用された道でしょう。

 

2 智恩寺山祇神社(六所権現)

 智恩寺の講堂のところから左に行くと、地続きのところに山祇神社が鎮座しています。その位置関係から、本来両者は一体のものであったことは明白で、神仏分離以前は六所権現と称していました。国東半島特有の、お寺と神社が同居している光景といえましょう。

 講堂から山祇神社にかけての一帯は小高い丘の上にあたり、字を堂山と申します。かつて、この堂山は樹木が伸びてやや鬱蒼としていました。ところが、久しぶりに参拝しましたら伐採されており、明るく広々とした場所に変わっていました。ずいぶん様子が変わったものぞと思いましたが、おそらく元々は今のように開けた場所であったのでしょう。

 石灯籠の竿は御大典記念とあります。そう古いものではないものの、装飾性に富んだ緻密な造りが見事なものです。

山祇神社 五百五十年祭記念碑

 お参りをしたあと、この奥にも何かあるかなと見回してみましたが、石塔の類は見当たりませんでした。

 

3 智恩寺観音堂

 車を置いたまま、講堂脇から車道を後戻ります。坂道を下って、壊れた石燈籠のところを左折して舗装路を少し下りますと、左側に観音堂があります。

 施錠されておりましたので外からお参りしました。この辺りも環境整備が行き届いています。紅葉の時季は特によいと思います。

 この観音堂のある谷筋がイヤの谷で、下って行けば坊跡に至ります。斜面を段々にして平場を造成してあるのが見てとれます。

 

4 智恩寺庚申塔

 観音堂から引き返して、壊れた石燈籠の辻を左折します。元来た道を少し後戻っていき、右カーブするところから直進気味に分岐する山道を下って行きます。いま、この分岐の付近の車道(右カーブする側)の改良工事がなされていますので、いずれ取り付きが変わるかもしれません。下り方向の分岐がほかに見当たらないので、すぐ分かるとは思います。

 簡易舗装の急坂を下って行きます。距離は知れたものですが、途中で枯れ竹などが倒れて少し荒れ気味でした。左にカーブした先の右側に、庚申塔が立っています。道路端なのですぐ分かります。なお、この道を下り切れば智恩寺部落に出ます。しかし下からだと入口が分かりにくいし駐車場所に困ります。上からの方が簡単です。

 上から下ってくると小道の右側、斜面に小さな平場をこしらえて1基の庚申塔が立っています。今は樹木や竹が茂って展望が利かないものの、ここは麓の智恩寺部落を見晴らす場所であったのでしょう。付近には庚申石の類は見当たりませんでした。塔の右横には五輪塔の残欠と思しきものが安置されています。

青面金剛6臂、2童子、2鶏
天明二年
四月吉日

 一目見た瞬間に目が釘付けになりました。この庚申塔には興味深い点がたくさんあります。上から見ていきましょう。

 まず笠の造りがなかなか凝っています。まるでお宮の屋根のような雰囲気で、切妻の三角形と破風の三角形とがよう合うて、かっちりとした感じがいたします。日輪には僅かに赤い彩色が残っています。そして主尊の珍妙なお姿といったらどうでしょう。にっこりと笑うたお顔が朗らかで、拝む者の心を照らしてくれるような優しさがにじみ出ているような気がしました。アッパッパのような衣紋は大きく末広がりにて、松山恵子の衣装のようなボリューム感があるのも見事なものではありませんか。童画のような表現の足は言うまでもなく、自由奔放な表現の腕がまたおもしろうございます。長さがちぐはぐであろうと、付け根が離れようと、そんなことはコチャ知らぬとばかりの潔さです。

 主尊の下の左右に並ぶのは猿か童子か、迷うところです。大きさからすれば猿のような気がしますし、猿か童子のいずれかを欠くならば童子を欠くのが相場です。しかしながらその姿をよう見ますとスカートのような衣紋が見てとれますから、童子ではるまいかと推量しました。鶏は大きく立派な姿で、恐竜を見るような迫力が感じられます。失礼ながら稚拙な表現が目立ちますけれども、個性的なデザインは強い印象を残します。石工さんの自由な発想力が感じられました。

 

5 高宇田の歳神宮

 智恩寺から車に乗って下の道路まで戻り、右折します。工業団地上り口の交叉点を直進して、すぐさま右折して狭い道に入ります。道なりに行けば左側に歳神宮が鎮座しています。

 こちらは道路端で簡単に参拝できますうえに、仁王像を見学することもできます。個々の写真を撮り忘れてしまいましたが、そのお顔立ちや所作など、よう工夫された表現です。特に立ち方がよくて、細部にわたって細かい彫りが施されておりかなりの力作であると感じました。それだけに腕や天衣の破損が惜しまれます。左奥に写っている常夜灯にも注目してください。

 

6 高宇田の山神社

 歳神宮のすぐ横並びには山神社も鎮座しています。拝殿はないものの、こちらにも対の仁王様が立っているほか、石灯籠も6つも立っています。

 こちらの仁王様は歳神宮のそれに比べますとずいぶん小さそうございます。阿形は天衣と腕を破損し、吽形に至っては頭部が失われています。また、両者とも膝から下が折れています。これは廃仏毀釈の影響によるものでしょう。一時は粗末に打ち棄てられていたものを、地域の方が再度立て直してお祀りされたのではないでしょうか。

 すぐ近くには壊れた五輪塔が半ば草に埋もれるようにして立っています。

 

7 大辻稲荷

 歳神宮と山神社の並ぶところのすぐそば、道路端から長い参道が伸びています。すぐ分かります。

 このように上がり端は石段になっていますが、途中から坂道になります。特に危ないところはありませんでした。この上にはお稲荷様だけでなく庚申塔もありますので、歳神宮や山神社とあわせて参拝・見学するとよいでしょう。

 参拝時、上の鳥居が壊れて倒れていました。数年前の様子なので、今は再建されているかもしれません。石祠の前にはそれなりの広さの平場があります。かつては拝殿を有した可能性があります。3基の石祠の右側に、左を向いて庚申塔が立っています。

青面金剛1面6臂、2鶏、3猿、ショケラ

 この庚申塔は残念ながら傷みがひどく、一部確認が困難なほど碑面が剥落しています。しかしながら残部の様子から推して、元はよう整うた作例であったと考えられます。

 日輪と月輪は線彫りで、真円にて表現してあります。その下を帯状に彫りくぼめて、主尊と鶏が彫ってあります。主尊の炎髪は櫛の目も鮮やかに、お顔立ちは分かりづらいものの青面金剛のお顔として違和感のない表現です。残念ながら外に伸ばした腕が剥落してしまい一見して6臂には見えません。かすかに残る矢などから、元の腕の姿を想像できます。6本の腕が上手に収まり、違和感のない表現であったことでしょう。ショケラは鞘豌豆のような姿で珍妙な感じがします。以前、これと同じような表現のショケラを大野地方で見たことがあります。主尊の足元には、左右に鶏の痕跡が見て取れます。こちらも残念なことにすっかり剥落し、シルエットを残すのみです。

 その下には、また帯状に彫りくぼめたところに3匹の猿がガニ股でしゃがみ込み、めいめいに見ざる言わざる聞かざるのポーズをとっています。非常に滑稽でおもしろい表現です。ところが、左側の猿の周囲が大きく崩れて、その姿を確認するのも困難なほど傷んでいます。このような壊れ方をした庚申塔を方々で見かけます。彫り易い石材ほど、傷み易いということなのでしょう。

 

今回は以上です。次回は三重地区のシリーズの続きを書きます。先日、『香々地町誌』や『香々地町庚申塔』に載っていない庚申塔を見つけましたので、それを紹介します。

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