大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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三重の名所・文化財 その15(香々地町)

 今回は大字上香々地の名所を少し紹介します。夷谷(大字夷)は言うまでもありませんが、大字上香々地もまた、右に行っても左に行っても一面名所だらけ、文化財だらけの感があります。

 なお、今回の写真は夕方に訪れたときに撮影したので、薄暗く感じられるかもしれません。しかし特段見づらいというほどでもありませんし、秋の夕方の風情もまたようございますから、そのまま掲載することにしました。この点、ご諒承ください。

 

52 長小野の日枝神社(山王大権現)

 夷谷から県道を市街地方面へと下り、横断歩道のある三叉路(信号機なし)を左折して折り返すように旧道に入ります。1つ目の角を右折して保育園の横を通り、正面が日枝神社の参道入口です。駐車スペースは十分にあります。こちらの神社はところの名所でありますが、県道からの入口に標識がないのが意外に感じました。

 灯籠、狛犬、鳥居、いずれもたいへん立派な造りで素晴らしい!横には川が流れており、景観も優れています。まず鳥居から見てみましょう。

(鳥居)
山王大權現
煥乎厥明巍然厥徳
民之正直永賜景福
安政六己未稔
別當 大力坊
余瀬鼎作重貞
産子中
石工 樋口■■

 銘を容易に読み取れました。鳥居の「別当 大力坊」の文言は、かつて神社の祭祀に大力坊の僧侶が関っていたことを示唆しています。

 さて、こちらの日枝神社(山王大権現)は霊亀年間の創設との伝承があります。旧長小野村の鎮守で、夷の六所神社との従属関係はありません。『豊後国香々地荘の調査』によれば、年中行事は以下のとおりです。

1月1日 元旦祭
3月 社日祭
4月15日 春季大祭(神楽祭)
6月30日 大祓
8月20日 水神祭(河童相撲) 子供相撲大会と弓取り式があり、戦後しばらくまでは大人の相撲をしていたそうです。
9月 社日祭
10月8日~9日 秋季大祭 かつては御神輿の御神幸が出て楽庭まで行き、六所権現の御神輿とぶつかっていたそうです。ところが夷の人と喧嘩になり死者が出たのをきっかけに、御神幸は途絶えたとのことです。
12月15日 霜月祭
12月31日 大祓

 戦後しばらくまでは、秋季大祭や旧正月には馬場に舞台を組んで田舎歌舞伎がかかっていました。山畑部落から衣装を借りて、山畑の嵐豊三郎さんに習うて地元の人が演じていたとのことです。昔は山畑のほか、伊美(国見町)、馬場尾(杵築市)などに歌舞伎芝居の座元がありました。

慶應四戊辰稔
四月吉辰

 対の唐獅子は大型で、細かい表現が見事なものです。迫力満点のお顔や立ち姿などよう整い、しかも子犬がすがりついている様子が可愛らしく、見ても見厭かぬ秀作といえましょう。

仲坪芳平
垣副源平
垣副直三郎

 後姿も凛々しくて、堂々としたものです。どこから見ても全く瑕疵のない、見事な表現に感嘆しました。背中に乗っている子犬がまたすてきです。

 阿形の朗らかなるお顔といったらどうでしょう。歯をむき出しに、鼻の孔を吹き広げて目をカッと見開いたお顔は怖いものの、なんだか楽しそうな雰囲気も感じられます。前脚と後脚の間にもぐりこんだ赤ちゃん犬にも注目してください。

慶應四戊辰稔
四月吉辰

 余瀬嘉茂太
 吉武信四郎
 吉武元右衛門
里正
 余瀬鼎作重貞

 後ろ髪の渦巻模様の細かさ、力強そうな上腿がよいと思います。背中に負うた子犬がチロリとこちらを見ているのも面白うございます。阿形、吽形それぞれ個性的で、よいところがたくさんあります。

願主
 吉武信四郎
 池田京平

 二の鳥居手前の灯籠も、なかなか格好がようございます。宝珠の下部には請花を伴います。また、中台と竿の境目が段変わりになっており、細かいところですがこの部分の形状がなんとなく、重厚感を生み出している気がします。猫脚の上部には反花を造り出しています。

文化七午天
九月九日
願主
 垣副源吉

 笠の角を少し打ち欠いている外は、ほとんど傷んでいません。石灯籠というものは地味な存在ですけれども、ずいぶんいろんな形があります。私は今のところ、灯籠への興味関心は庚申様や石幢に比べますと二の次三の次となっているのが正直なところですが、いろいろと見比べてみるのもおもしろそうです。

 さて、馬場を進んでいけば右側に低い塚があり、そのぐるりを庚申塔が取り巻いています。刻像塔はなく、文字塔ないし庚申石が15基以上あります。

 私にも銘の読み取れる塔は1基しかありませんでした。あとで詳しく説明します。ほかの塔は銘が消えたか、はじめから無銘であったか、判断に迷うところです。

 1つ上の写真の左から2番目や、この写真の右から4番目の塔には、位牌型の彫り込みが見て取れます。これとよう似た特徴を有する文字塔が、上佐古部落は市丸のお伊勢様横や、越路の墓地上に残っています。わりあい古い年代のものではないでしょうか。

 庚申様の周りは少し草が伸びていることもあるようですが、近隣の方のお世話が行き届いており定期的に草刈がなされているようです。この石塔群が庚申様であるということは地域の方に認識されているようですし、神社の境内ということもあり今後も粗末になることはないでしょう。

 先ほど申しました位牌型の彫り込みの見られる文字塔です。上部の円形の枠の中には梵字を墨書していたものと思われます。その下の縦長の枠の中の銘もさっぱり分からなくなっています。これも墨書であったのかもしれません。その枠の上の方から左右にのびている蕨手はどんな意味があるのでしょうか。

■奉修庚申石二世安楽

 文字がずいぶん薄れているものの、この塔だけは銘を読み取れました。末尾の「楽」の字については実物を見るだけでは分かりませんでしたが、『豊後国香々地荘の調査』内の庚申塔の項に記載がありました。

 反対側の様子です。馬場に面してずらりとたくさんの塔が並んでいるのに対して、こちら側はまちまちですが、ごく小型の塔ないし庚申石が半ば埋もれるように並び、少し間を置いて3基の塔が立っています。これらは銘が全く読み取れません。

 さて今度は冒頭にも掲載しました宝篋印塔を紹介します。神社の境内にこのような仏塔が立っているのは、国東半島らしい景観といえるかもしれません。

大乗妙典一字石
享和四季歳■甲子
三月吉日敬建
■一切功徳 慈眼視衆生
福■■無覚 是故応頂礼
施主 上薗甚兵衛
石工 夷村  猪俣勇助
   同   鬼丸泰蔵
   同   猪俣要蔵
   羽根村 野上吉右衛門

 この宝篋印塔は一字一石塔です。基壇が3重でスラリと背が高く、存在感があります。しかも上から下まで、ほとんど傷みがありません。塔身が龕になっており中には仏様が安置されており、伽藍塔の様相を呈しています。

 宝珠の下の請花は、花びらがふっくらとして写実的な彫りです。露盤の上の請花は矩形で、角々の花びらの尖端がきれいに尖っているのがよいと思います。隅飾りは大きく外向きに広がっており、二重線で彫った蕨手が見てとれまして、めいめいの面の中央には梵字が彫っており四方仏の様相を呈しています。くるりくるりと曲線を描き、非常に優美な雰囲気を醸し出しています。装飾性を極めるの感があり、より古い時代の宝篋印塔のどっしりとした雰囲気が薄れて、より華奢になっていった過程がよう表れているといえましょう。

 斜めから見ますと、この宝篋印塔の形のよさ、造形美がもっとも分かりよいと思います。角々がまっすぐ揃うている点などは当たり前のようですが、実際にこれほど精確にこしらえるのは容易ではないことは言うまでもありません。先ほど銘を転記した中に、4人の石工さんの名前が出ていました。どのような役割分担であったのかは分かりませんけれども、鑿と鏨でこれほどのお塔をこしらえるのはよほど熟練の技、匠の技がなければ無理でしょう。

 馬場の正面奥には日露戦争の記念碑と忠魂碑が立っています。いずれも自然石の風合いを生かした見事な碑です。周囲は環境整備が行き届いています。戦歿者供養と世界平和を願うて、大切に維持管理がなされていることが見てとれました。

 この碑を見学したら少し右に行きますと、神門があります。

 この神門は、瓦は新しくやりかえているようですが、おそらくそれなりに古い建造物でありましょう。神門をくぐった先にも、見るべきものがたくさんあります。参拝をしたら、辺りを見回してみてください。いろいろ見つかります。

 右側にはたくさんの石祠がずらりと並んでいます。近隣の小社を合祀したものでしょう。

 あっと驚きました。国東塔の塔身と笠の間に火袋を入れて、灯籠に転用しています!そして相輪を下ろして宝珠にすげ替えてあるではありませんか。非常に立派な構造物ですが、国東塔の元の姿を想像しますとなかなかの優秀作でありますので、複雑な気持ちになりました。国東塔、仏塔としての信仰が薄れてこのように造り替えたのでしょうか。または、神仏分離の際に神門の内に国東塔があることとに障りが生じて、外に動かすのに難渋して苦肉の策で灯籠にやり替えた可能性も考えられます。

 国東塔として見たときに、台座の造りがなかなか見事であると感じます。請花・反花は一石造で上下が対称、大きい花びらと細い花びらが互い違いになって、なかなか存在感がございます。ましてすてきなのが基壇で、格狭間ではなく蔓草とお花が浮き彫りになっています。ほんに風雅で素晴らしい。

 そっくりの石灯籠が対になっています。灯籠というものは対になっていてもおかしくありませんが、国東塔が対になっていると考えると、珍しい気がします。もちろん、笠や塔身の形など少しずつ違いますけれども、明らかに同じ方向性の表現です。

 国東塔の相輪は、摂社の基壇になんかけて安置してあります。残念ながら半ばでぽっきり折れており、このままでは乗せ替えることはできません。ただ、本当に国東塔の信仰が薄れて灯籠にやりかえたのであれば、このように相輪を保存したりしないと思います。粗末にならないように、摂社の近くに安置したのでしょう。このことは国東塔が灯籠になった経緯を示唆しているように思うのですが、どうでしょうか。

 右の灯籠の左隣の石祠に「山王権現」の文字が彫ってあります。おそらくこちらの日枝神社の元宮様か何かを移したのでしょう。

金毘羅拝石
村内安全
五穀豊穣

 長小野のどこか(おそらく山の上)にあった金毘羅様の遥拝所から下ろしたものでしょう。基礎は船の形になっています。これは金毘羅様が航海の守護に霊験あらたかという伝承によるものであることは言うまでもありません。そして特に印象的なのが、上に乗っている象です!なんとかわいらしいことでしょうか、丸まった猫のような姿勢でにっこりと笑い、長い鼻をくるりと曲げています。この象は、讃岐の金毘羅大権現が鎮座する象頭山(ぞうずさん)に因んだものと考えられます。有名な拳唄の文句を思い出しました。〽金毘羅船々追手に帆かけてシュラシュシュシュ 廻れば四国は讃州那珂郡象頭山金毘羅大権現

 左に回り込むと、石祠の後ろに仁王像が立っています。石祠には中央に「大神宮」、その左右に「八幡宮」「春日宮」とありました。二柱の神様を合同でお祀りした石祠です。仁王様が後ろに立っていますのは、これも神仏分離以降のことでしょう。本来は、前に立っていたはずです。

 

 珍妙なお姿が心に残りました。これとよう似た仁王さんが、上佐古は市丸の伊勢堂に残っています。版木を押したような平面的な表現やことさらにデフォルメしたお顔だちなど、優れた作例とは言い難いかもしれませんけれども、作者の非凡なる発想・アイデアを感じます。わたしの大好きな仁王さんです。ご覧になると、どなたも笑顔になると思います。参拝時には見逃さないように気を付けてください。

 

○ 民話「さか相撲」

 先ほど説明した忠魂碑のところの左側に、民話の説明板が立っています。

 話の筋がおもしろいし、看板に書いてある絵が非常に味わい深うございます。内容を転記します。

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さか相撲の話

 昔、佐古村と長小野村の境付近に論田橋(ろんでんばし)という土橋がありました。
 ある日の夕暮れ、佐古村に住む酒好きな権平じいさんが、酒のいっぱい入った五合徳利をぶらさげて論田橋のたもとまで来ると、六つか七つくらいの子どものように見える河童が話しかけてきました。
「権平じいさん、相撲ととろう。おれが勝ったら酒をくれ。じいさんが勝ったら魚をやる」
それを聞いたじいさんは「このやせ河童め、放り投げて魚をとってやる」と軽く応じて早速相撲をとると、思わぬ河童の体当たりにあって、まんまと酒をせしめられました。
 それからというもの、じいさんの頭の中は河童をやっつけるということでいっぱいでした。やっとのことでよい知恵が浮かび、急いで論田橋に出かけました。そして、じいさんは「さか相撲で」と河童に言いました。河童は、それを聞くなり一目散に逃げていったということです。

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 さか相撲と申しますのは、逆立ちをしてとる相撲です。河童は頭のお皿の水がなくなると死ぬとの伝承があります。それで、じいさんはわざと「さか相撲」を持ちかけたというわけです。

 

53 旧長小野村庄屋余瀬家跡

 駐車場所に戻ります。保育園の敷地の角に、余瀬家跡の説明板があります。

 石垣や石段に昔の面影を留める程度で、この説明板がなければこの場所の歴史的な背景はまるで分かりません。内容を転記します。

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旧長小野村庄屋余瀬家跡

 現在、保育園が建っている場所は、かっては余瀬家の屋敷があったところです。この余瀬家は、江戸時代には豊後国国崎郡長小野村の庄屋を務めた家で、石垣などにそうした庄屋屋敷の面影はわずかに見ることができます。長小野村の村社であった山王社も近く、江戸時代には、ここが長小野村の中心地ともいうべき地でありました。

香々地町教育委員会

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54 越路の石塔群(真玉氏滅亡の地)

 日枝神社の項の冒頭で申しました旧道入口のところまで後戻って、県道(新道)を僅かに市街地方面に行きます。すぐさま、1つ目の角(右側にカーブミラーとゴミ捨て場あり)を左折します。右なりに進んで上り坂にかかり、竹林と木森の中の道をしばらく行けば右側にたくさんの五輪塔がずらりと並んでいます。ここは上佐古部落のうち、字越路です。以前越路の庚申塔群を紹介しました。あの麓にあたります。

 このようにたくさんの塔が密集しており、壮観です。道路端なのですぐ分かります。塔身の下に半花を伴う塔や、宝篋印塔の部材と後家合わせになっているもの、一石造のものなど、いろいろな形の塔があります。見比べてみてください。

 この場所には、元は120基を超す塔があったそうです。ところが盗難に遭い、ずいぶん減ったと聞きました。五輪塔を盗んでどうしたのでしょうか?せいぜい庭の装飾品として自分が使ったかどこかに売ったかが関の山でしょう。五輪塔の意味も知らずに盗んだのでしょうが、ウスラトンカチであると言わざるを得ません。まったく救いようがない痴れ者、悪の権化です!必ずや仏罰が当たっていることでしょう。

 小型の板碑も見つけました。この石塔群にはいわれがあり、石碑にそれが記されています。

真玉統寛主従追悼之碑
真玉郷土研究会長 桑原清 書 ※桑は異体字

 側面に記載してある内容を転記します。

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真玉統寛主従追悼之碑
天正十八年(一三九○)庚寅閏三月十二日真玉掃部助統寛家臣を率いて竹田津に向う途次此地に於て叛乱に遭い将士と共に長小野の露と消え之に因り初代重実より九代に至る真玉氏は二百三十八年にして滅亡した。我等一同はこの遺蹟を看過するに忍びず同志糾合して浄財を集め■四百年を■して茲に小碑を建立し以て聊か追悼慰霊の微衷を表せんと云■

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今回は以上です。次回は豊後高田市杵築市の記事を予定しています。少し先になるかもしれません。

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