大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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野津市の名所めぐり その3(野津町)

 今回は大字老松は花原(はなばる)部落から大字都原(みやこばる)は生野原(しょうのばる)部落へと歩を進めます。途中に出てくる音波橋(おとわばし)の対岸は、上南津留地区(臼杵市)です。記念碑などは臼杵側に立っていますが、都合により野津市のシリーズの中で紹介することにしました。

 

10 花原の石幢(上)

 前回の末尾にて、表平の石幢を紹介しました。車で通れる方の道順(詳細は前回の9番 芝尾の観音堂を参照してください)でその石幢のところまで行き、そのまま道なりに進めば花原部落に至ります。石幢を過ぎると離合困難の区間が長く続きます。普通車までなら問題なく通れますが、対向車とはちあわせるとどちらかが延々とバックするしかありません。その区間をどうにか抜けると、左にコの字にカーブして花原部落へと下りはじめます。そのかかりの右側に墓地があります。そこで石幢を見つけました。花原にある、県指定文化財の石幢とは別のものです。一応、区別のために項目名に「上」と付記しました。

 幢身以下が失われており完成系ではありませんが、2基の石幢が並んでいます。このうち、左の龕部はたいへん珍しい特徴を有しています。矩形の枠の中にお地蔵様の坐像を彫った面と、何かを浮彫りにした面とが互い違いになっているのです。浮き彫りになっているのが何なのかさっぱり分かりませんでしたが、このような事例は珍しいのではないでしょうか。大野地方から北海部地方は石幢の宝庫の感があり、優秀作・個性的な作が多数あります。こちらの2基は、残欠とはいえこの地方の石幢の形態を研究するうえで貴重な作例であるような気がしました。

 さて、花原部落の中を道なりに下っていきますと、もっとも下手にあたる民家の坪に先ほど申しました県指定文化財の石幢が立っています。坪が道路よりも高いので、外からはほんの少ししか見えませんでした。見学は遠慮したので、今回は飛ばします。

 

11 音波橋

 花原部落をあとに道なりに下り、突き当りを右折します(左折すれば芝尾部落に戻ります)。渓流沿いに下る道で、落石等に注意を要します。道なりに欄干のある橋を渡った先の二股は左に行きます。ここから先はいよいよ道幅が狭く、普通車までなら通れますが軽自動車の方がよいでしょう。特に欄干のない橋で対岸に移るあたりは注意を要します。左にカーブすれば右側に田んぼを見ながら進んでいくことになり、道路状況は幾分緩和されますが、相も変わらず離合不能区間が延々と続きます。稀に対向車が来ますので、退避場所を確認しながら進みます。しばらく行くと再び木森の中をくねくね進む道になり、三叉路に出ます。これを右折すればすぐ音波橋です。普通車までならどうにか渡れる幅があります。渡った先に駐車可能な場所があります。

 この橋はどのルートをたどっても途中の道が狭く、運転が苦手な方は往生するかもしれません。でも、アクセスの悪さを押してでも訪れる価値があります。まず橋自体がものすごく立派です。しかもこの辺りは臼杵川が渓谷の様相を呈して、自然美を極めるの感があります(冒頭の写真)。四季折々のよさがありますが、特に新緑の頃か晩秋の晴天の日がよいと思います。

 対岸から渡ってきて撮影しました。残念ながら木々に隠れがちで、この角度でなければ全景が撮れませんでした。そう急斜面でもないので、川原に下りられないこともないかと思いますが、この日は時間の関係で諦めました。とても大きくて立派な橋ですのに、それが伝わるような写真が撮れなかったのが残念です。橋のみならず、橋に至るまでの堤も見事な石積みにてこしらえてあります。

 おばしまはどっしりとした造りです。少し傾いて傷んでいるところもありますけれども、明治45年竣工ということで優に100年を超していることを思えば、よう残っているうちではないでしょうか。親柱も4本とも残っています。

音波橋記念碑

 この記念碑は一段高い区画に立っています。その区画は石造で、短い石段までついていました。よほど肝煎りの事業であったことが覗えます。

 裏面に委細が彫ってありますので、その内容を転記します。

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大正二年十月建之

此橋以明治四十五年七月十六日落成望之如闕門就乃如坦途春秋風雨来徃不痛之衆人乃便與工事之難過客亦察工費皆出於麻生音波氏衆稱音波橋茲建一堅石以表紀年云
大正二年十月吉辰
今永万喜太識■書

南津留村  村長 今永万喜太
架橋組合會 議員 小野薫
         小野嘉市
         荻野倉蔵
         小野正慶
         佐藤倉蔵
         白根増二郎
      書記 矢野茂
野津市村  村長 木本佐間太
架橋組合會 議員 久原佐間太
         赤峰太市
         穴見浪五郎
         赤峰衛
     勲八等 白野■士郎
         廣瀬谷五郎
北海部郡■員
    工事監督 神田傳三郎
石橋工事頭領   竹尾伊三郎
      石工 児玉芳五郎
      仝  港八百蔵
      仝  河野善蔵
石碑工事頭領   三浦■五郎
世話人   花原 穴見浪五郎
      高須 小野正慶

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 写真をご覧いただくと分かるかと思いますが、経緯の説明は漢文にて上の枠の中に記してあります。そして中央に大きく紀年銘を配して、その右側に南津留村、左側に野津市村の各組合員名が並んでいるのですが、夫々中央から外に向かって配列してあります。つまり右半分は通常の縦書きとは逆の並びになっているのです。これはできるだけ平等性に留意した結果でしょう。また、この工夫により音波橋が両村をつないでいるということが端的に表されています。しかしながら横書きで転記するにあたっては、その意図を反映することはできませんでした。もし音波橋を見学される際には、ぜひこの碑銘にも目を通してください。実物をご覧になると、その配慮・工夫がすぐ分かると思います。

 漢文はごく易しいので書き下しは省きますが、大雑把に申しますと「この石橋が竣工したことにより悪天候により交通が途絶することなく、往来に困らなくなりました。これは費用を全額負担してくれた麻生音波さんのお蔭ですよ」というような内容です。

 

12 生野原の石造物(大山神社下)

 音波橋を渡らずに先へを進みます。相も変わらず離合困難の狭い道をくねくねと進めば、臼杵市大字武山は一ノ瀬部落(大工川)に出ます。国道502号に突き当たったら左折して、野津町に戻ります。ここからは中央線のある立派な道なので安心して通行できます。しばらく人家が途絶えます。生ノ原バス停のところを右折して、右に小さく膨らんだ旧道と思われる場所に入ります。路側帯に邪魔にならないように駐車したら、旧道の膨らみが現道に合流するところから右に入り、簡易舗装の道を歩いていきます。左の山すそに沿うて右に田んぼを見ながら歩いて行けば、ほどなく前方に石幢が見えてきます。

 この道の入口は、軽自動車でも通れそうな幅があります。でも、ご覧のように途中から車の通れない道になりますので、歩いて行きましょう。初めて訪れて、車を停めたところからそう遠くない場所で石幢に行き当たったので、たいへん嬉しく思わず駆け寄ってしまいました。

令茲寛永十五歳
逆修善根主蘭園龍心禅定門
季春吉辰
香野村生ノ原児玉新右門

 ちょうど下から近づいて行く格好になりますので、石幢がいよいよ立派に見えました。もちろんどの角度で見ても立派な造りなのですけれども、こういった石塔の類は低い位置から見上げると特に格好よう見えることが多いような気がします。

 この石幢は龕部が六角形、ほかはすべて円形です。笠はわりあい扁平で、内刳りがそう深くないので龕部が外からでもよう見えます。装飾性を極点に排除した、引き算の美のようなものが感じられました。それは各部材の比率がよう整うておればこそでしょう。状態は頗る良好、幢身の銘文も容易に読み取れます。

 龕部もごくシンプルです。各面のお地蔵様をレリーフ状の彫りで表現してあるので、くっきりと面をとった六角柱の造形美が感じられました。そして平面的な彫りなればこそ、細かい線をたくさん彫り込んで諸像を緻密に表現することができているばかりか、風化摩滅も全く見受けられません。

 いかがですか、細かい彫りがとても丁寧で、全体のバランスもよいと思います。しかもこんなに薄肉なのに斜め向きの像を上手に表現できているではありませんか。彫りの技術はもとより、絵画のセンスに優れた石工さんでなければ無理でしょう。

 石幢のすぐ上にはたくさんの庚申塔が並んでいます。刻像塔は1基、文字塔は10基以上あります。立っているのは数基で、ほとんどが倒れているばかりか真っ二つに割れているものも見受けられました。

青面金剛6臂、2猿、2鶏、ショケラ、2髑髏

 なんと珍妙でおもしろい塔でしょう!しかも彩色がよう残り、風化摩滅がほとんどなく細部まではっきりと分かります!一見して、大分市は吉野地区のうち奥部落の2か所で見かけた庚申塔に雰囲気が似ていることにすぐ気付きました。前回、芝尾部落は表平の庚申塔も、デザインの方向性としてはこの仲間と言えましょう。このタイプは漫画的な表現が目立ち、写実性よりも分かり易さを優先したデザインです。作者のひらめきや工夫は称賛に値すると思います。こんなに親しみやすくておもしろくて、しかも堂々としているデザインを考えついてそれを具現化するとは、並大抵のことではないでしょう。

 まず上端の日輪と月輪、これがボリューム感のある炎髪に密接しているものですから、主尊が天体や時間の経過をも統べるような神怪しき力を持っているかのように見えてまいります。スペースの都合上こうなったのかもしれませんが、意図的なものかと思えるほど効果的な配置であると感じました。炎髪の前には、馬頭観音様の馬の顔のように髑髏が浮かび上がっています。そして腹にも、両手の指の間に髑髏が見てとれます。髑髏を表現した庚申塔はたまに見かけますが、どのような意図なのでしょうか?太い腕は全てが左右対称にカクカクと曲がり、ことさらに大きく表現した武器などを持っています。杖に見替えの鉾と同じ太さの、異常なる大きさの矢!弓とそんなに変わらない大きさです。ショケラの珍妙な姿にも注目してください。なんだか達磨落としのような体型ではありませんか。

 厳めしい顔で睨みを効かす庚申様(青面金剛)に守られて楽しげに戯れる猿や鶏がまたおもしろく、浮かれ調子にてやっさやっさと飛び跳ねて踊っているような雰囲気があります。鶏のつぶらな瞳の可愛らしさ、異常なる大きさの脚!猿は猿で鶏に見守られながら組踊りの首尾かいなと、楽しい空想が広がる素敵なパターンです。猿と鶏、夫々の本来の意味合いはもとより、夫婦和合とか、子供が仲良く遊ぶ様子などが想起されます。

 とても分かり易くて、デザインの工夫の妙が感じられる見事な作例だと思います。拝見して、野津町の庚申塔の多様性・個性を再認識しました。

宝暦十二年
奉待庚申塔 ※庚と塔は異体字
午九月朔日

 銘の字体が素朴です。中央線がぶれて、少しよがんでおりますのも微笑ましいではありませんか。「午」は、普通「宝暦十二年」の下に来そうなのに、左の行の頭に来ているのが意表を突く配置です。左右の字を揃えて対称的な配置にしたかったのかなとも思いましたが、これ以外にも干支を左上にもってきた例があり、しかも字数は関係ないものが大半でした。

宝暦■巳■
梵字庚申塔 ※庚と塔は異体字
九月十日
願主中 十四人

 こちらの方が、銘のバランスがよう整うています。「願主中」という言い回しは珍しいのではないでしょうか。

(左)
天明元年
猿田彦太神 ※猿と彦は異体字
丑七月十九日

(右)
延享四■■
梵字庚申塔 ※庚は異体字
十二月四日
生野原 村中

 猿田彦の銘をもつ庚申塔は、野津町では少数派のようです。文字塔は概ね「庚申塔」とか「奉待庚申塔」が大半を占めています。右の塔は「庚申塔」の銘はたいへん立派ですが、「十二月四日」はまたぞろ軸がぶれてよがんでいました。

明和二年
奉待庚申塔 ※庚と塔は異体字
酉八月十七日

 小さな塔ですが、尖端の三角形の角がきれいに出ており、形がよいと思います。

奉待庚申

 この塔は紀年銘が見当たりませんでした。倒れていますが、基礎にどのようにして建っていたのかが一見してよう分かります。

寛延二年午天
梵字庚申塔(蓮の花)
中■廿有一菟 ※廿は異体字
■敬拝建 ※拝は異体字
生野原邑 ※邑は異体字
(8名)

 この場所にある文字塔の中では群を抜いて立派なものです。倒れているばかりか、上の方が折れて銘にかかっているのが惜しまれてなりません。まず梵字の細やかな彫りがよいし、蓮の花もまたよいではありませんか。銘は、完全には読み取れませんでした。「廿有一」とは21ですが、その下の「菟」はその月の21日が卯の日の意でしょうか?それならば「卯」の字を書きそうですし、何が何やら分かりませんでした。また「邑」の異体字、すなわち「口」と「巴」を横並びにした字体は初めて見た気がします。

 それなりに幅のある塔ですが、基礎に差し込んでいたと思しきホゾのような部分は思いのほか細うございます。

梵字庚申塔 ※庚は異体字
生埜原邑
施主中 拾四人

 こちらも真っ二つに折れて、ちょうど紀年銘にかかっており造立年が分かりませんでした。地名にある「埜」は「野」の異体字です。しかしながら、両者は字形があまりに異なるので、こと地名においては両者が混在する事例は少ないように思います。当時は「生野原」よりも「生埜原」の用字が一般的だったのでしょう。

 文字塔の紹介は以上です。数が多いので、残欠のみのものは省きました。

 

13 生野原の大山神社

 庚申塔群のすぐ先が大山神社です。

 ここまで、麓の道からそう遠くありません。道がよいので簡単に参拝することができます。

大山祇大明神
牛王大明神

 牛王大明神とは牛頭様のことでしょうか。鳥居には真新しい御幣のついたシメがかかっています。秋のお祭りをした後だったのかもしれません。

 木々に囲まれた静かな空間で、参拝いたしますと庚申塔の見学でわくわくしていた心が落ち着きました。

 

今回は以上です。次回もこのシリーズの続きで、ものすごく立派な石幢や個性的な庚申塔が出てきます。今から頑張って書きますので、少しお待ちください。

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