大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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諏訪の名所めぐり その1(野津原町)

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 昨年から、庚申塔をさがして野津原町を何度か訪れています。その度に、庶民のエネルギーに満ち満ちた石造物がものすごくたくさん残っていることに感銘を受けています。野津原町はまさに石造文化財の宝庫といえる土地ですが、残念ながらその素晴らしい文化財のほとんどが、全く知られていない状況です。これから少しずつ、この地域の名所旧跡・文化財を紹介していきたいと思います。

 さて、一口に野津原町といっても広いので、このブログでは便宜上、旧村域によって野津原地区・諏訪地区・今市地区という呼称を用いて説明していくことにします。大まかに言うと、大分市稙田地区の先が野津原地区、そこから急坂を登った台地上の地域が諏訪地区、さらに登り大野・直入地方との境界にあたる地域が今市地区です。なお、旧野津原村と旧諏訪村は元から大分郡ですが、旧今市村については大字今市が直入郡、大字荷尾杵(におき)と高原(たかはら)が大野郡からの編入です。このシリーズでは、諏訪地区の名所旧跡を紹介してまいります。

 

○ 原村について

 今回は、大字下原(しもはら)は原村のうち都甲路(とぐろ)部落の石造文化財を紹介します。下原という大字は下詰(しもつめ)と原村(はらむら)の合成地名でありまして、この2つの地域が明治8年以前の村名でございます。かつては下詰村、原村であったわけですが、どうして後者のみ「村」が残ったのでしょうか。思えば、他地域においても「中村」「谷村」「北村」「志村」など、町村制以前の村名が2音以下の場合は「村」が残っている例が多々ございます。諏訪の原村も同じことでしょう。つまり下詰村のことは通常「村」を略して「しもつめ」と呼んでいたが、原村は普段から「はらむら」と呼んでいたので、明治8年以降も地名に「村」が残ったと思われます。

 ところで、大分県では「原」がつく地名(近年のものを除く)の場合、「はる」と読むのが普通です。まず、野津原がそうです。「のつはる」です。単独で原の場合も「はる」で、杵築や別府など方々にこの地名がございます。ところが原村は「はるむら」ではなく「はらむら」でありまして、これは珍しい例です。旧来の地名というものは得てして用字よりも音が主でありますので、或いは、同じ「原」でも「はる」と「はら」では原義が異なるのかもしれません。

 原村には、通称「表」と「裏」の2つの谷筋と、その間の丘陵地にいくつかの集落が点在しています。都甲路は裏谷の奥詰めです。簡単に道順を説明いたします。大分市は稙田地区から、野津原地区を過ぎて諏訪地区に登ります。右方向に今市経由で長湯方面に至る道が分かれます。ここは曲がらずに直進して道なりに行きますと、また右方向への道が分かれます(中央線のない道です)。ここが裏谷への入口です。右折しますと、雨川(あめご)経由で都甲路に至ります。

 なお、原村の歴史・民俗・産業については『原村小史』に詳述されています。この書籍はインターネットサイト「NAN-NAN」で閲覧できます。特に民俗関係の内容がたいへん充実している、よい本です。興味関心のある方には、ぜひお勧めいたします。ただ、できれば図書館で実物を手にとっていただいた方がよいでしょう。巻末にたいへん詳しい文化財地図が載っているのですが、このページは「NAN-NAN」では閲覧できません。

 

1、都甲路の庚申塔と新四国札所

 雨川から都甲路に至る道は、中央線こそないものの自動車で問題なく通行できます。この道路が開通したのは昭和55年で、それ以前は塩手野(しおでの)からの道を通っていたそうです。『原村小史』によれば、昭和15年に塩手野から都甲路への道を改修してはじめて都甲路に自動車が入るようになったとき、その記念式典に折詰の弁当を注文していたが時間に間に合わないといって、タクシーを雇ってその新道を通行していた折、路肩が崩れてタクシーが転落してしまったそうです。新道開通のその日にさっそく第一号の自動車事故が発生し、なんとも幸先の悪い開通記念式典となったわけです。その後、昭和25年の改修工事でやっと、自動車が安全に都甲路に入れるようになったとのことで、今の立派な道路のありがたさを感じました。

 さて、雨川道路を通って都甲路に入りますと、道路右側のやや高い位置に冒頭の写真の石造物が見えます。路肩が広くなっているところに駐車してお参り・見学をしましょう。

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 岩鼻を五角形に彫りくぼめて庚申塔を安置しています。この掘り込みをよく観察しますと、上部が微妙に尖っていて、さながら大きな厨子といたところでしょう。よく工夫されていますし、とても手間がかかっています。

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青面金剛6臂、1猿、1鶏、ショケラ

  平板な彫りで一部像容が不鮮明になりつつありますが、比較的良好な状態です。龕の中にあって、雨が当たらないためでしょう。彩色がよく残っています。今は庚申講も途絶えて久しいようですが、昔、待ち上げのときに色を付け直したのかもしれません。こちらの庚申様は、金剛さんの恐ろしい表情から地域では「怒り庚申」と呼んで親しまれてきたとのことです。よく見ますと、手の指など細かいところまで丁寧に表現されています。足先が左右に開き真横を向いていたり、弓を持つ手のあたりの余白が足らなかったのかこの部分を小さく表現していたりと、ところどころに稚拙さが感じられますが、実に堂々としたお姿で「怒り庚申」の呼称がぴったりではありませんか。また、まるでてるてる坊主のようなショケラや、金剛さんの左右に向かい合うた鶏と猿の姿はほんにかわいらしい感じがいたします。鶏の尾羽の表現もよく工夫されています。

 この塔の前の小道を行くと、すぐ並びに南新四国の札所がございます。

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 南新四国は野津原町に開かれた新四国で、その本拠地は原村の塩手野にございます(別の記事で後日紹介します)。この大師講は隆盛を極め、信者がとても多かったそうです。巡拝の日にはこちらの札所にも信者がまわってきて御詠歌をあげたことでしょう。大師講の現状は不明ですが、こちらの札所は今でも地域の方に大切にされているようで、切り花がたくさんお供えされていました。

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 こちらの千手観音様は小ぶりではありますけれど、たくさんの手や衣紋など細かい彫りが見事です。彩色もよく残っております。浅い彫りなのに立体感をうまく表現しており、秀作といえましょう。

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 均整のとれた表現にうっとりと見惚れてしまいました。なんと優しそうなお姿なのでしょうか。一部欠損しているのが本当に惜しまれます。

 

2、台迫の庚申塔

 怒り庚申のすぐ横から、台迫(でんさこ)経由で黒都甲(くろとぐ)に上がる道を登ります(車は怒り庚申のところに置いて歩きます)。右側を注意深く確認しながら登ってください。しばらく行くと小さな石造物が見えてきます。

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 写真に小さく写っているのが庚申塔で、3面であることから三方庚申様と呼ばれています。少し通り過ぎて、折り返すようにあぜ道を登れば簡単に塔の前に行くことができます。

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 なんと、基部が4段になっています。こんなに立派な台座を設けるとは、よほど丁重にお祀りしたかったのでしょう。

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青面金剛3面6臂

 3面の青面金剛像は珍しく、なかなか見かけません。ちらはその優しそうなお顔がとても魅力的で、一目で大好きになりました。猿や鶏はおろか日月すらない、本当に金剛さんだけのシンプルな庚申塔でございます。うっすらと彩色を残した碑面は、雨ざらしになっているにもかかわらずほぼ完ぺきな姿を保っています。これは奇跡的といえるのではないでしょうか。周辺の耕地や都甲路の村をいつも見守ってくださっている、ありがたい庚申様でございます。

 ところで『原村小史』によれば、この塔は祇園様から下ろしたものであるそうです。祇園様は、この前の道をもう少し登ったところから折れて山に上がったところですが、時間の関係で訪れずじまいです。どういった経緯でこちらに下ろしたのかはわからないのですが、庚申塔の立地としては適切な場所に移動されております。こちらの庚申塔は『原村小史』がなければ、私には絶対にわかりませんでした。この本を苦労して編纂して下さった方々のお陰様でこのように立派な庚申様にお参り・見学をさせていただくことができまして、たいへんありがたく思っております。

 

今回はこれで終わりです。野津原町の記事の第1回目でしたので、地域のことについて少し詳しく書いてみました。