このシリーズでは、山香町の名所旧跡を巡ります。まだ写真を撮れていないところばかりですので、写真がある程度たまったら次の地域に進んでいく形で書いていこうと思っています。そのため一気連載ではなく、他の市町村の記事の合間々々に挿んでいくことになります。初回は中山香地区のうち大字野原の名所旧跡を少し紹介します。
1 龍頭橋
山香苑(福祉施設)の裏手に沈み橋がかかっていて、字名からとって一般に龍頭(りゅうず)橋と呼んでいます(冒頭の写真)。龍頭という地名は、立石の龍ヶ尾と対になっています。舟木の十字路を旧山香農高方面に少し行って、すぐ右折して道なりに行くルートが分かり易いでしょう。
この沈み橋は大分県内で最古のものでありまして、明治45年の竣工でございます。八坂川には昔、たくさんの沈み橋がありました。大水が出て流れたりしたので平成にずいぶん数が減りまして、山香町にある八坂川の沈み橋としては今は龍頭橋、名称は分かりませんが龍頭橋の僅かに下流側の沈み橋、高取の沈み橋など僅かになっています。杵築市のうち八坂地区には大左右橋が残るくらいのものですが、平成半ばまでは鹿倉橋や永世橋もまだ残っていました。このうち永世橋(ながせばし…小字の長瀬からゲンを担いで永世としたものでしょう)は明治9年の架橋で、こちらが日本最古であったのですが平成半ばに大水が出たときに流れてしまいました。それで今では龍頭橋が日本最古となっているわけでございます。
なお、龍頭橋の架かっているところが、旧の「二文字渡し」跡地と比定されています。この二文字とは仁王像の阿吽のことであるそうです。
2 旧村境の石仏
県道42号を上村(かんむら)方面にまいります。貫井(ぬくい)部落を過ぎますと人家が途切れます。今は川べりの新道を通りますが、この部分のみ改良が遅れて平成末期までは小さな峠を越していました。貫井部落を過ぎてすぐ右折しすぐさま左折すれば旧道です。今も車で通れます。その旧道の頂上付近、道路際の法面に龕をこしらえて数体の仏様が安置されています。
中央の馬頭観音がたいへん立派で、しかも保存状態がよく細かいところまでよく分かります。偶然見かけた仏様です。お参りをして、しばらく見惚れてしまいました。向かって右端は紀元二千六百年の記念の塔です。この石仏群は旧中山香町と旧上村の境界にあたりまして、昔は川べりの崖道の難所であったと思われます。通る人もいなくなった旧道沿いにひっそりと佇む仏様は、眼下の新道の交通安全を今も見守ってくださっています。
3 野原不動
こちらは駐車場がありませんので、杵築市役所山香庁舎に停めて歩いていくとよいでしょう。山香庁舎のグランドの奥詰めから里道に入り、墓地に沿うて山裾を進んでいきます。道なりに行けば東野原部落の山手に出ます。角に人家がある十字路を右にとって上がって右に行けばすぐ野原不動の堂様が立っています。
近年、化繊のロープでこしらえた注連縄を方々で見かけるようになりました。こちらは昔ながらの注連縄です。境内はきちんと整備されており、今も近隣の方の信仰が続いているようです。
4 東野原のお稲荷さん
野原不動の左から参道がのびていて、これを上がればお稲荷さんの祠やお弘法様、一字一石塔などがあります。用地は野原不動と一体でありますが、一応別項扱いといたします。
参道はやや荒れ気味で、野原不動ほどのお参りはないようです。この参道を上がって、お弘法様の祠のところを右に入ります(直進して上まで行っても貯水枡で行き止まりです。
奥にお弘法様の祠が見えます。ここを入って、祠の手前から左に石段を上がります。
左がお稲荷さんでございます。昔は鳥居があったのかもしれませんが、今ではお狐様の存在でかろうじてお稲荷さんであると分かるような状態であります。祠の前が狭い坪になっていて、他にも石灯籠や一字一石塔などが残っています。
法華一字一石之塔 ※「法」と「華」は異体字
あちこちで、よく「大乗妙典一字一石塔」を見かけます。この大乗妙典とは法華経を指すとのことで、結局「法華一字一石」とは「大乗妙典一字一石」と同義であるということです。それにしても、このすぐ下の不動堂ではなく、現状では荒れ気味でほとんどお参りがないと思われるお稲荷さんの敷地に一字一石塔が立っているということは、昔はお稲荷さんの参詣者がそれなりに多かったことということでありましょう。
5 西野原の金毘羅さん
山香庁舎に車を置いて、山香苑方面に車道を歩いて下ります。カーブを過ぎたところから背戸道を右に入ったところが金毘羅さんです。
こちらの灯籠は火袋が小さく、素朴な印象を受けました。
境内は、このようにいつもきれいに整備されています。近隣の方のお参りがあるのでしょう。拝殿の左奥に石造物が寄せられています。
ごく狭い区画に庚申様、国東塔、宝塔などいろいろな石造物が寄せられています。こちらを見つけたときは小躍りするほどの喜びでございました。山香町には、庚申塔はあまり多くはないように思います。ですから刻像塔を見つけた嬉しさも一入でありました。しかも、国東塔もどっしりとして立派なものです。
碑面が荒れており諸像の状態はあまりよくありませんが、今のところ一つひとつの姿ははっきりと分かります。斜めに亀裂が走っており、修復の跡がございます。その影響でしょうか、主尊の表情が全く分からなくなっているのが惜しまれます。失礼ながら稚拙さは否めないデザインでありながら、デフォルメされた造形には何となく可愛らしさが感じられまして、殊に完全に外向きに開いた足の表現などおもしろいではありませんか。下の枠の猿と鶏を見ますと、向かって左に猿が3匹、右向きに並んでいて、右側には鶏が2匹、左向きに並んでいます。通常は猿が中央で鶏が外側であったり、または猿と鶏が交互に並んでいたりするものですが、このように猿3匹と鶏2羽が左右に分かれているのは少数派でありましょう。
7 阿南家跡地
金毘羅さんのところから右に上がれば阿南家の跡地です。家屋は残っておりませんが阿南家は大庄屋であっただけのことはあって、立派な石垣とその広い敷地が往時を偲ばせます。なお阿南は、山香や日出周辺では「あなみ」と読むことが多いようです。
この石段を上がって行けば上の広場に出られます。
説明板の内容を起こします。
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大庄屋阿南家跡地
阿南家は日出藩主の命により、享保元年(1716)藤原村より転付し、山香郷・内河野村の大庄屋となり、その後、享保14年(1729)この地、野原村の大庄屋として明治4年廃藩置県まで、7代142年間続き、旧野原村の民生に力を尽くしました。
詳細については、東屋に説明板を掲げています。
平成17年3月、11代文祟氏の時、不慮の火災で焼失する。東方向からの石畳と石垣が庄屋屋敷の面影をのこしている。
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東屋に掲げられているという説明板を見逃してしまいました。
奥の石垣の高さは、並のものではございません。
石段の雰囲気がよいので、金毘羅さんとあわせて散策されてはいかがでしょうか。
今回は以上です。旧村境界の石仏以外は、山香庁舎に駐車して歩いて散策されるとよいでしょう。