大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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旭日の名所めぐり その1(国東町)

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 先日、上治郎丸の庚申塔を中心とする石造文化財を見学してまわりました。狭い範囲内に興味深い文化財がたくさんありまして、しかも国東史談会『くにさき史談第九集』により要領よくまわることができました。一度にたくさんまわったので、忘れてしまわないうちに旭日シリーズとして書いていこうと思います。

 旭日地区は大字で申しますと治郎丸、綱井、重藤、池ノ内からなります。旧旭日村は、昭和の大合併の際に池ノ内と治郎丸の一部が武蔵町に、残りは国東町に入りました。今では同じ国東市のうちですけれども、このブログでは基本的に平成の大合併以前の市町村別に記事を書いていますので、このシリーズでもこの点に留意して記事を分けていきたいと考えています。今のところ治郎丸はそれなりにまわりましたが、綱井は一部のみの探訪にとどまり、重藤と池ノ内については適当は写真が全くない状態です。ですからひとまず治郎丸と綱井の一部まで数回に分けて書いて、重藤と池ノ内はまたいつかということになります。こんな始末なのでゴールが見えない状態ですが、気長にお付き合いくださいませ。

 

1 焼野の石造物(イ)

 直近の探訪でもっとも心に残ったところを冒頭にもってきました。こちらは場所が分かりづらいものの、興味深い石造物がたくさんございます。石造文化財に興味関心のある方にはぜひお勧めしたい場所です。

 道順を申します。武蔵市街地から県道201号(旧国道213号)を通って国東方面にまいります。綱井を過ぎて、左側に「←上治郎丸、下治郎丸→」の旨の青看板がある角を左折します。ここから先は道路沿いに、後ほど紹介します名所や庚申塔が次々にございますがひとまず通り過ぎて奥へ奥へとまいりますと、広域農道(オレンジロード)に出ます。左折してすぐ右折して、左に田んぼを見ながらさらに上っていくと、民家の手前が二股になっています。これを右にとって道なりに行き、左側の民家が一旦途切れるところが少し広くなっているので邪魔にならないように車を停めます。この右側の竹林の中に、目指す石造文化財がございます。

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 一見して分かりづらいと思いますが、写真中央辺りに上り口があります。旧の参道はもう少し右側にあったようですが、下の道路を拡幅する際に削り取られてしまったようです。急傾斜の坂道を竹につかまりながらオイサオイサと登っていけば、左上に石造物が見えてきます。そこから左方向に旧参道の痕跡がありますが石段が崩れて上れないので、一旦斜面を横切って右奥に上がり、適当に折り返して石造物のある平場を目指すとよいでしょう。うっすらと踏み跡はありますし短距離ですけれども滑落が懸念されるような道ですから、雨上がりなどはやめておいた方がよさそうです。

 当日、上り着いてほっといたしましたとともに、多種多様な石造物(冒頭の写真)がずらりと並んでいたので感激しました。それと申しますのも、国東史談会の書籍等によりこの場所に庚申塔が立っていることは分かっていましたが、まさかこのように多様かつ立派な文化財がたくさん並んでいるとは思いもよらなかったのです。まったく、嬉しい誤算でありました。

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 向かって右端の2基の石祠と灯籠です。何の祠なのかは分かりませんでした。すぐそばに大きな竹が生えているのを見て、今後さらに竹が生えたらそれに押されて祠が倒壊してしまうのではないかと心配になりました。

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 庚申塔を中心とする3基の石造物については、一つひとつ詳しく紹介します。この立地にあっては、近隣の方のお世話が続いていても枯れ竹や枝等ですぐ荒れてしまうのは致し方ないことと思います。大きな枝は、一応除去しました。

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 右の石造物には3つの御室があって、その上には右から順に大龍大神、鹽竃大神(鹽は略字)、宮地嶽大神と刻まれています。大龍大神は、八大龍王様でしょうか。きっと雨乞いや治水等の祈願をされたものと思います。中央の鹽竈大神(塩釜大神)は、ハットセ節で有名な宮城県は塩釜が大元で、その名の通り製塩や漁業等に関する神様として沿岸部の地域で全国的に見られます。県内ではあまり見かけた覚えがありませんけれども、例えば杵築市大内地区のうち塩浜部落に石祠がございます。どうしてこの山間部の地域に塩釜様が祀られているのでしょうか。そしてその隣の宮地嶽大神はどこでもお馴染みの神様で、大元は福岡県は福津市です。

 それぞれ、全く関係のない神様ですから一つひとつ別個に石祠をこしらえてお祀りされていそうなものを、このように3連のものとして一体化してあるのは珍しいような気もいたします。ただ、岐部地区でも3つの御室がつながった石造物を見たことがあります(別の機会に紹介します)し、本匠村は一矢返部落に至っては1つの石祠に五柱の神様をお祀りしてあるのも見かけましたので、ここだけの事例というわけではないようです。

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 左は金毘羅様ですが、右は何と書いてあるのでしょう。一見して「人間大神」と書いてあるように見えたのですがこれでは意味不明です。それで、よう見ますと2文字目は「間」ではないような気もいたしました(門構えの中の「日」に見える部分の右の縦角が上下で繋がっていません)。でも、つくづく考えますにやはり2文字目は「間」であって、1文字目が「人」ではなくて「尺」、つまり「尺間大神」と書いてあるのではないかと思い至りました。「人」の右上に小さく横画が見えるような気がします。「尺」の上部を簡略化して書いてあるか、または傷んだかで「人」の字に見えたのでしょう。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏、4夜叉!、邪鬼、ショケラ

 オールスターのたいへん豪勢な庚申塔です。残念ながら夜叉や邪鬼は傷みが進んでおりますけれども、この見事な造形を一目拝見して感激いたしました。国東町内には、小原地区を中心にこれとよう似た庚申塔が何基か残っています。このブログで以前紹介したものでは、上小原の金毘羅様のところの庚申塔や、豊崎地区は小畑の墓地付近の庚申塔がこの仲間です。同じ作者によるものでしょう。この素晴らしいデザインが評判を呼び、庚申塔を造立する際に我も我もと近隣在郷から次々に注文がかかったことが推察されます。

 まず主尊を見ますと、控えめなお顔立ちながらほんに恐ろしげな表情で睨みを効かせており、底知れぬ法力が感じられます。あの細い腕でショケラを軽々とぶらさげ、その腕の半ばに衣紋のヒラヒラとしたところをちょいとひっかけているのもよいと思います。童子は主尊に向いて恭しく控えており、特に向かって左の童子など高貴な家の女中さんなどがお盆を高く捧げ持って運んでいるような風情で、ほんに控えめかつ実直な雰囲気ではありませんか。童子の下の鶏は簡略化した表現で、右の鶏は雄鶏と思われますがあからさまなデフォルメが面白うございます。

 主尊に踏まれた邪鬼は細部が傷んで、顔のみが確認できるような状態です。これが、あたかも強い主尊に踏まれたためにその身も消え果てんとするような、今わの際の様子に見えてまいりました。中央の猿は正面向きで、両端の猿はお相撲さんが向かい合うて構えているかのようです。中央の猿が行司にも見えてまいります。しかも3猿と邪鬼が一体化して主尊の台座のようになっておるものですから、いよいよ主尊の威厳が際立っております。一部に彩色の残る夜叉はめいめいに所作を違えて立っています。この部分の傷みが惜しまれてなりません。一つひとつの表現の工夫を凝らして、しかもそれらの調和がとれている秀作といえましょう。

 

2 焼野の石造物(ロ)

 竹林の中の石造物を一通りお参り・見学して車を置いたところまで戻り、左下の民家の方に下って行く道を少し歩いてみましたら、別の石祠を見つけました。

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 大杉様と水神様の石祠を移転した記念碑です。大杉様の大元は茨城県にございまして、国東半島でも広く信仰されています。特に7月26日頃に、初盆の供養踊りとは別にお宮の境内で「大杉踊り」の輪を立てる部落もかなりございました(演目は供養踊りのときと同じです)。最近はだんだん減ってきましたが月遅れの8月半ばに変更する等して続けている地域もあります(杵築市宮司、武蔵町池ノ内、安岐町西本など)。

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 お参りをしたら車に戻り、次の目的地に移動します。

 

3 論地池

 焼野部落から車で奥に上っていき、人家が途切れるところに溜池があります(写真はありません)。その池を過ぎて、二股を右にとって道なりに行けばほどなく左側に上の溜池が見えてきます。こちらが論地池です。

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 山の中の、気持ちのよい場所です。紅葉や新緑の時季はもっとよいと思います。こちらの「論地池」という名称は、小字名によるものと思われます。論地という地名は全国的に見られるもので、土地の境界や水利について揉めたりして話し合いをしたという経緯に由来することが多いそうです。

 ところで、論地池と焼野部落そばの池は少し離れていますけれども、この2つの池は2段構えのものとして水利的には一体のものであると思われます。旱害に悩まされることの多かった国東半島では、昔の方の智恵として2つないし3つの池を接続して、下の池から順々に水を落とす等により水不足の予防を試みた事例が甚だ多く、こちらもその一例でありましょう。

 国東半島には溜池が甚だ多いので、この論地池も一見してどこにでもある池のように見えます。でも、その背景にある事情や昔の方が難儀をして堤を搗いたこと、感慨の工夫などに思いを馳せますと、やはり各種石造文化財と同様に、溜池一つとっても国東半島を象徴する史蹟と考えられます。農業文化遺産に指定されたことで、各地に説明板が整備されてきたのはよいことだと思います。

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 土手のそばに、碑銘が2基並んでいます。左の碑銘を見ますと明治元年のもので、論地池が完成した記念碑のようです。右の碑銘には明治末期に改修した際の寄附者がずらりと刻まれています。

 

もう少し紹介しようかとも思いましたが文字数が多くなるので、切りのよいところまでといたします。次回も上治郎丸の名所・石造文化財を紹介します。