大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

深秣の名所めぐり その1(三光村)

 三光村は深秣(みまくさ)地区の名所をめぐるシリーズです。深秣地区は大字西秣・上秣・下秣・上深水(かみふこうず)・下深水からなります。この地域は石造文化財や史蹟がすこぶる多く、まだその全貌を掴みかねているところです。時間をかけて少しずつ項目を追加していこうと思います。

 さて、この地域を名所を訪ねるとあれば、何はともあれ長谷寺でございます。こちらはその霊験あらたかなるばかりか、広大な敷地に点在する石造文化財の数々や素晴らしい自然環境、トレッキング(新四国霊場のお山めぐり)など、杖を曳く者を惹きつけてやまない名所中の名所なのです。とても1回の記事には収まらないので、2回に分けて紹介します。その後で井堀の不動堂や金現観音堂(寄せ四国)などを紹介していこうと思います。

 

1 長谷寺

 中津日田道路の三光下秣インターチェンジを起点に道順を申します。インターを下りて右折したら、ほどなく「長谷寺3km」の看板が出ていますのでその角を右折します。その直後の分かれ道は左方向にとって、あとは一本道です。中央線のない道ですが離合で困るような場面はありません。道沿いには香紫庵、貴船神社、開山堂、不動堂などがありますのでお参りをしながら辿ってもよいと思います。ただし、長谷寺でお山巡りをする場合には2時間程度の余裕を見て動いた方がよいでしょう。

 西秣の谷の奥詰め、長谷部落の家並みを過ぎた辺りの左側に立派な駐車場が整備されています。この駐車場の隅に小型の板碑が立っていました(冒頭の写真)。駐車場の整備か耕地整理などの際に移転したものと思われます。駐車場に「長谷寺周辺案内図」の立派な看板があります。必ず目を通して、もしお山巡りをしたいときはスマートホン等で撮影しておくことをお勧めします。

 この地図を見て、どのあたりまでお参りするか検討されるとよいと思います。まず本堂にお参りして周辺の石造文化財を見学したら、熊野権現白山神社奥の院あたりまでが一般的な参拝コースでありましょう。お山めぐりをするときは案内図にあります「八十八ヶ所石仏道」を辿ります。その道順を申しますと、奥の院から左に行き時計回りに「奥ノ洞」を経て尾根筋に上がり、「さりや洞」まで行ったら中央の尾根道を「堂ノ上」まで下ります。地図上では「奥ノ洞」から「くぐり洞」まで道がつながっていますが、実際は道が崩れていて通行困難です(令和4年3月現在)。ですから地図上右半分の「かさね石」などは、「堂ノ上」から反時計回りに進むことになりますが、こちらのルートも「阿弥陀岩」から先はそれなりの装備がなければ難しそうでしたので、無理はしない方がよいでしょう。右下の尾根筋にある「こもり穴」「堀田平石塔群」への道は安全に通ることができますので、見学したら奥ノ院に戻ります。お山めぐりの詳細は次回に譲るとして、今回は奥の院までを紹介します。

 駐車場から参道を見た写真です。正面奥に小さく本堂が写っています。今からそちらに向かうわけですが、先に山門前に立っている碑銘を紹介します。

浦風墓 深秣中

 説明板がありませんでしたので詳細は分かりません。堂々たる書体で「浦風墓」と彫られていますが、墓碑には見えません。浦風とは、お相撲さんの四股名でしょうか。そして深秣中とは、旧深秣中学校のことでしょうか。どのような由来があるのかたいへん気になります。

 この碑銘の正面からゆるやかな坂道を上っていくと、直進と右方向の二股になっています。本堂にお参りするには右に行きますが、案内図によれば左手の崖上に庚申塔とお六部さんの塔が立っているはずなので先にそちらを見学しました。

 数基の文字塔が立っています。残念ながら藪に覆われ、銘の確認は困難でした。普段、塔にからみつく蔓などはできるだけ除去するようにしています。けれどもこちらは素手で除去するのは大変そうでしたので、諦めました。お六部さんの塔に至っては藪に埋もれているようでどこにあるのかさっぱり分かりませんでした。

 気を取り直して、二股に返って本堂の方に上がりましょう。短い通路に一石五輪塔と国東塔がございますので、見学しながら歩を進めます。

 石垣の中に一石五輪塔が組み込まれています。こちらは五輪塔を石垣の部材として転用したというよりは、きちんと立った状態であることから、五輪塔としての意味合いを保ったうえで石垣に組みこまれているのでしょう。説明板の内容を転記します。

~~~

中津市指定有形文化財
一石五輪塔

鎌倉から南北朝時代の作と推定される供養塔。一石で空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の各部が彫刻された五輪塔で、水輪に種子(仏または様々な事柄を表す梵字)が刻印された跡があるが不明である。総高67cm。

昭和52年4月1日指定 中津市教育委員会

~~~

 それにしても、一石五輪塔と申しますとやや稚拙ともいえるような造形のものも多い中で、こちらは一見して通常の五輪塔と見分けがつかないような造形であることに感心いたしました。

 こちらの国東塔は基礎が一重で、しかもその部分が半分埋まっていますので下から見上げますと反花が地面に接しているように見えます。請花はありません。茶壺型の塔身がすらりと長いのが特徴で、首部も目立ち、スマートな印象を受けました。説明板の内容を転記します。

~~~

中津市指定有形文化財
長谷寺国東塔

室町時代に造立された石造供養塔。国東半島に分布する国東塔の影響がみられる。基礎の上に反花状の台座を置き、首部をつけた茶壺形の塔身を立て、反りの大きな笠で覆っている。総高183cm。

昭和54年11月7日指定 中津市教育委員会

~~~

 本堂前の一角です。小さなお弘法様のそばに数基の五輪塔がございます。先ほどの一石五輪塔と見比べてみてください。

 説明板の内容を転記します。長谷寺の由来です。

~~~

真言宗 大久山長谷寺
本尊 十一面観音菩薩

 長谷寺縁起によれば、孝元天皇の22年創めてこの地に神を祀った。文武天皇の甲辰(704)の秋、仁聞が岩窟に錫を留めて修行していた。ある夜のこと、白髪の翁が現れ「われは白山権現なり。この山に垂迹すること年久し。汝この山を開闢せば、われ永く法灯を守護せん」と言って姿を消した。仁聞は夢から覚めてすぐに一刀ごとに三礼し観世音菩薩と脇士、不動明王毘沙門天像を彫刻して岩窟にて安置した。
 その後、神亀4年(727)の春、三界上人が留錫していた際、白山権現のお告げにより創めて堂を建て長谷寺と号した。上人は永い間この地に留まり衆人の信望極めて篤く、晩年この地で入定(即身成仏)したといわれるが、これは我が国で最初の入定であるという。
 当山は歴代国主の祈願所として栄え、境内のあちこちに昔を偲ぶ数多くのものが残されている。また飛鳥仏である周防凡直百背が娘の死を悼み供養のために作った観音菩薩立像が安置されている。毎年4月20日に本尊とともに御開帳される。
 なお元明天皇和銅年間、彦山及び紀州熊野権現の神勅をうけ西国三十三所霊場を開くに当たり、第二番札所に列せられている。

昭和59年3月 三光村教育委員会

~~~

 六地蔵様は覆い屋の中におわしまして、祭壇の上にて鄭重にお祀りされていました。めいめいにかぎ針で編んだ色鮮やかな前掛けに、楽しい柄のおちょうちょもかけています。お花もあがって、明るく賑やかなお地蔵様でございます。

 こちらのお寺は無住で、信徒の方、地域の方により維持されています。御開帳日以外は御本尊の拝観はできませんが、こちらの「大悲殿」の仏様はご覧のとおりいつでも自由にお参りすることができます。蝋燭やお線香も用意してくださっています。火災防止のため、お参りをしてその場を離れるときには必ず蝋燭の火を消しましょう。

 築山の上には立派な修行大師像がございます。残念ながら枝が伸びておりましたので下部は見えにくいものの、却って難所の山路を辿るお弘法様のお姿が想起されて、ほんにありがたい感じがいたしました。

 ものすごいお顔のお不動様に目が釘付けになりました。思わず身が竦むような、おそろしいお顔立ちでございます。三角形の碑の銘を確認するのを忘れてしまいました。後になって写真を拡大してみても後の祭りです。

 この近くに、竹の杖をたくさん置いてくださっています。もしお山めぐりをされる場合、杖を借りるとよいでしょう。

 杖を借りたら、下の道路から一直線に上がる参道(庚申塔の下の道)に出ます。右に折れて奥の院を目指します。少し上れば長い石段になります。傷んできていますが浮石はなく、手すりも整備されており安全に通行できました。歴史を感じられるよい景観であると存じます。この石段の上がりはな、右側に護摩堂跡の立札があります。

 護摩堂跡には俳諧の碑が立っています。近くに寄って内容を確認してみることをお勧めします。この付近には五輪塔の部材と思われる石がいくつも転がっていました。

~~~

   享保十六辛亥年二月七日
   梅花仏

元禄七甲戌年
俳諧元祖芭蕉
十月十二日

   安楽坊
   寛保元辛酉年六月廿二日

~~~

 元禄7年10月12日は、松尾芭蕉の命日です。梅花仏は各務支考蕉門十哲の一人)の諡、享保16年2月7日はその命日です。安楽坊(春波)は支考の門人で、元文から延亭年間に九州各地をまわりました。享年は宝暦6年ですから、碑銘にある「寛保元年6月22日」とは安楽坊がこの地を訪れた日ではないかと推量いたします。貴重な石造物と思われますので、説明板が欲しいところです。

 石段を少し上がれば、左側に「乳の清水」の札が立っています。ここからやや荒れ気味の通路を左に行けば、仏様の乗った井の子があります。

 こちらの井ノ子には滾々と水が湧いています。柄杓も置いてくださっていますが、飲用は控えました。どうして「乳の清水」と呼ぶのか、その由来が気になります。

 石段も残りわずかとなり、懸造の奥の院が見えてきます。この建築を見学するのを楽しみにしていたものですからいよいよ期待が高まってまいりまして、勇み足にて登っておりますと文化財の説明板が目に入りました。これは立ち寄らないわけにはいきません。

 説明板の内容を転記します。

~~~

中津市指定有形文化財
熊野権現宝塔

南北朝時代の貞和4年(1348)に造立された石造供養塔。二重の基礎の上に茶壺形の塔身を置き、笠で覆っている。基礎には奉納孔があり内部が空洞となっている。塔身に次の刻銘がある。総高144cm。

敬白

 貞和四年戌子十一月十三日
  大願主信四郎◇◇

昭和54年11月7日指定 中津市教育委員会

~~~

 この説明板のところから宝塔は見えません。やや荒れ気味の通路を左の方に行けば熊野権現の堂様がございます。宝塔はその横に立っています。

 こちらの宝塔は茶壺型の塔身はよいけれども首部がやや目立ちすぎるような気がいたします。また、笠の形はよいのに宝珠が失われておりますのが惜しまれます。しかし基礎の部分を見ますとその造りが個性的ですし、そもそも650年以上も前の造立であることを思えばそれだけでも貴重で、ありがたいものでございます。

 熊野権現は元の堂様が崩れたのでしょう、非常に簡易的な造りの建物でした。

 中央の像が権現様なのでしょうか、または猿田彦など何か別の神様なのでしょうか。写真では分かりにくいと思いますが、非常に細やかかつ写実的な彫りでおじいさんの姿が表現されています。

 参道石段を登り詰めたところの左側に白山権現がございます。こちらは、長谷寺の縁起について記された説明板の内容を示したとおりです。いわばこの地の元宮様とでも呼ぶべき権現様であり、立派な社殿です。

 奥の院の敷地に上がり着いたら、右側に境内林の説明板が立っています。お山めぐりをされる際には先に一読されますと、自然探勝を兼ねたお四国さんとしてより楽しい道中になることでしょう。内容を転記します。

~~~

大分県指定天然記念物
長谷寺の境内林

 長谷寺奥の院の東斜面に発達する小椎林と、背後の岩上に発達する赤松林からなる自然林。

●小椎林
小椎・藪椿・姫榊・藪柑子・細葉金蕨林で代表される森林で、全体的にはこの地域の丘陵に広く分布していた小椎藪柑子林の一部にあたる。

●赤松林
赤松・捩木・姫榊・小羊歯林で代表される赤松林であり、山頂の岩角に発達する赤松山躑躅林の典型的な森林である。

 この2つの森林は県内に数少なくなりつつある小椎の自然林と、虫害等で少なくなりつつある赤松林の自然要素を備えた貴重な自然林となっている。

昭和51年3月30日
 大分県教育委員会 中津市教育委員会
(注)指定地域における無断現状変更、又は採草木は禁止されています。文化財を大切にしましょう。 

~~~

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20220331030131j:plain

 境内林の説明板の近くの六地蔵様と、一字一石塔です。

 奥の院は懸造になっています。まことほんとに素晴らしい建築であります。この見事な建築も残念ながら傷みが進んでおり、近寄らないように注意書きがありました。

 こちらは、お山めぐりの起点・終点でもあります。お参りをしたら左方向に岩棚上を進み鎖で上がって、お山めぐりの道にとりつきます。札所を順々にめぐり右の方から戻ってきたら岩棚に上がって、奥の院に戻るという趣向になっているのです。それが今では接近禁止になっているのですから、ほんに残念でなりません。でも床板を踏み抜きでもしたら大怪我は必至ですし、建物をさらに傷める原因になりますから致し方ないことです。

 

今回は以上です。次回も長谷寺の続きで、お山めぐり(新四国)について書きます。実際に現地を訪れて、道順が分かりにくいと感じたところが何か所かありました。そういったところについても詳しく説明したいと思います。