大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上真玉の名所めぐり その9(真玉町)

 上真玉のシリーズに戻ります。今回は写真が多いので3か所のみです。特に岡の石塔群は、庚申塔以外にも回国供養塔などたくさん並んでおり、ところの名所といえましょう。応暦寺(次回掲載予定です)にお参りに行かれる際、あわせて見学をお勧めいたします。

 

43 弥勒寺と三社大権現

 上真玉簡易郵便局の横の道を上り、西払(にしはらい)部落のかかりに狭い駐車場があります。車をとめたら少し後戻って、川べりの小道を辿ります。この道は途中までしか車が上がらないので、間違えて車で進入しないようにしてください。冒頭の景色が向うの方に見えるのですぐ分かると思います。

 弥勒寺は養老2年の開基で、六郷満山の本寺としてかつては5坊を有す大きなお寺であったそうですが、江戸時代には衰微し応暦寺の末寺として維持されていました。今やお寺というよりは堂様といった状況で、昭和50年に建て替えられた新しいお堂にご本尊が安置されています。下城前(しもじょうのまえ)は西払・尾南・重野の3部落の方々によりお世話が続いており、環境整備が行き届いています。以前紹介した尾南の霊場や重野の羅漢様もほど近いので、あわせて参拝されることをお勧めします。紅葉の時季は特にようございます。

 参道の上がり端には三社大権現の大きな鳥居が立っています。三社大権現は弥勒寺と一体のものです。お寺と神社が並ぶ風景は国東半島特有です。

 参道を上がれば右に堂様、左の広場の隅にはぐりんさんが一列に並んでいます。これは近隣に散在していたお塔を、粗末にならないようにこちらに寄せたとのことです。

 一石五輪塔は特別に鞘堂を設けて、鄭重にお祀りされています。陽刻された梵字がよう残り、古式ゆかしい造形が素晴らしい。

 五輪塔群と堂様の間から奥の院跡への参道石段が伸びています。その左脇、崖の上に各種石塔群が並んでいます。写真の左端は墓碑、その隣は供養塔と思われます。

 上がり着いてすぐのところには宝篋印塔が立っています。よう整うた造形に見惚れてしまいました。保存状態がすこぶる良好です。特に相輪上下の請花・反花の細やかな表現が素晴らしいと思います。露盤の連子模様もよう残ります。隅飾は外向きに広がり、宝篋印塔の形状の変遷の過程が覗われます。

 この塔にはびっしりと文字が彫ってあります。読み取りは断念しました。下部には蓮花を彫り出し、露盤には巴の紋を施してあります。

 対の人物像が浮き彫りになっています。意図はわかりませんけれども、或いはこの一帯の何らかの発願者の像である可能性もあるように思います。

 宝篋印塔の右奥にも一石五輪塔が残っています。その並びには浅い岩屋に仏様が安置されていますが、尊名は分かりませんでした。

 三社権現の木造のお社には、権現様の像が安置されています。この岩屋には、元々は弥勒寺の奥の院がありました。写真を撮り忘れてしまいましたが、ここから右に行った狭い平場(※)の上段に岩屋があります。昔はその岩屋が三社権現であったものを、奥の院跡の岩屋に下ろしたとのことです。

※今のお堂のところにあった旧のお堂が傷んだので、明治半ばにこの平場に新しいお堂宇を建て御本尊も移してお祀りしてありました。ところがそのお堂も傷んだので、元々の場所に建て直したのが今のお堂です。

 今の三社権現様の前にはどっしりとした石灯籠が立っています。この灯籠の火袋のところに小さな像が浮き彫りになっていることに気付きました。詳細はわかりませんけれども、ほんにささやかな、かわいらしい像です。

 今度は石段を下りて、御本尊にお参りをいたしましょう。お堂は施錠されておらず、誰でも自由に上がってお参りすることができます。掃除が行き届き、三尊は格子の向こうに安置されていますので盗難の心配はありません。それはもう見事な仏像です。蝋燭やお線香を置いてくださっていますので、お参りをいたしましょう。その際、みなさんにお願いしたいのが火の用心です。お参りをしたら必ず蝋燭の火を消すのと、お線香の始末が大切です。立て方が甘いと、何かのはずみにかやって火事の原因になります。燃え尽きるまでその場を離れないか、または立てずに、2つ折りにして寝かせて使うと安全です。

 お参りをしたら、堂様の坪を五輪様とは反対の方に行きます。

大乗経百部日参供養

 このような銘の供養塔は初めて見ました。お百度参りの塔でしょうか?

 石幢の残欠と思われます。国東半島では単制の石幢はあまり見かけないので、重制の龕部や中台を欠いだものでしょう。

 供養の文字がどうにか確認できます。その上は苔に覆われて全く読み取れませんでした。

 この奥の平場で、明治37年まで修正鬼会が行われていたそうです。その道具(お面など)が今でも保管されています。鬼会は、今や岩戸寺・成仏寺、天念寺、丸小野寺(子供鬼会)に残るのみとなっていますが、昔は方々のお寺で盛んに行われていました。こちらもそのひとつです。

 

44 岡の石造物

 上城前の辻から真玉川に沿うて、大岩屋道を上っていきます。右側の橋を渡ったところに応暦寺の駐車場がありますので、車を停めます。応暦寺に参拝する際に、ぜひこちらの石塔・石仏群も見学してください。駐車場から下手に向かって、杉林の中を川に沿うて歩いて行けばすぐ見つかります。友人に教えてもらうまで、この石塔群のことは知りませんでした。できれば駐車場に標柱が欲しいところです。

 このようにずらりとお塔が並んでいます。駐車場から少し歩くだけでたくさん見学することができます。この辺りは杉林の中に石垣をついて、段々の平場をなしています。応暦寺の坊跡ではあるまいかと推量いたしました。

猿田大明神 ※猿は異体字

 猿田彦庚申塔です。どうして彦の字を省いたのかは分かりません。大明神という大仰な尊号は、ことさらに崇めることにより大きな霊験を期待したものでしょう。この庚申様は道路拡幅その他により、こちらに移されたものである可能性があります。

天下和● 当邑●
奉納経王六十六部中供養塔
日月清和 願主仙右ヱ門
天保十二年庚丑弥生吉祥旦
世話人 岡組
    中村組

 異体字が多いものの容易に読み取れました。天保以下は、右側面に彫ってあります。「和」は、禾と口が入れ替わった字体です。また「部」は、「おおざと」が邑に近い形になっています。

奉納(?)大乗妙典日本廻国

 廻国供養塔です。上部には弥陀三尊の梵字が確認できました。このお塔は銘の字体が装飾的で、特に「典」の中の横画を波形にするなどやりすぎの感もありますけれども、さても風雅な感じがいたします。「妙」の字の崩し方がよいと思います。また、「奉」の下は確証を持てないのですが、「納」を分解して「内」を上に、「糸」を下に並べてあるような気がします。

 非対称の形状の石板に龕をこしらえて、お弘法様がおさまっています。きっと上部に何らかの銘が墨書してあったのでしょう。現状では全く分かりません。

 この塔は銘の文字が小さくて彫りが浅く、しかも杉で隠れがちにて読み取りは諦めました。供養塔の類と思われます。

 お地蔵様の立像の隣の塔は、弥陀三尊の梵字の下に「奉納大乗妙典」、台座に「日本廻国」とあります。この一帯に廻国供養塔が多いことから、応暦寺の威勢が偲ばれます。お六部さんの巡礼が多かったのでしょう。右端は「天下泰平六十六部 三界萬霊」で、上に仏様の坐像が乗っています。お六部さんの無縁墓でしょうか。

 先ほど紹介した塔の側面です。

 駐車場から少し進まないと見えないので、応暦寺に参拝される方のほとんどがこれらの石塔群には気付かないと思います。簡単に見学できますので、気を付けて捜してみてください。

 

44 多宝院の石造物

 応暦寺は写真が多いので次回に回して、走水の多宝院を先に紹介します。以前、有寺(うてら)は走水の庚申塔を紹介しました庚申塔のところに邪魔にならないように車を停めたら、塔の右側の背戸を奥へと歩いていけば、左側に参道の石段があります。庚申塔からほど近いのですぐ分かると思います。こちらは応暦寺の末寺であったそうで、明治まではお坊さんが住んでいたとのことです。今は有寺部落の方々により維持されています。

 石段を上りついたところに仁王さんが向かい合わせで睨みをきかせています。左手で金剛杵をぐっと引き上げ、右手の握り拳の力強さ、腕の筋肉など見事なものではありませんか。腹を突き出し、堂々たる立ち姿です。衣紋の細やかな文様もよいし、甲高の大きな足もまた勇ましくて素晴らしい。

 こちらは、年代が下ります。元々あった吽形は、首が折れてしまっていたそうです。それで新しくこしらえたのがこの像です。さても恐ろしい形相に、身が竦みました。

 坪の端に、古い墓標や宝塔などが一列に並んでいます。宝塔は宝珠を欠く以外はわりあい良好な状態であり、傾斜のごくなだらかな笠に塔身の形状がよう合い、独特な風合いを醸し出しています。

 穏やかなお顔のお地蔵様は、衣紋の裾まわりのしわが見事に表現されています。おそらく元々は右手で、金属でこしらえて錫杖を持っていたのでしょう。

 多宝院に数ある石造文化財の中でも、白眉はこちらの千手観音様です。碑面を深く彫りくぼめてお観音様を半肉彫りにしてあります。螺髪に見代えの10の頭がほんに細かい彫りで表現してあります。しかも、えてしてこのような造形であれば当該箇所が平面的になりそうなものを、きちんと立体感をもたせて配置してあり、外側にいくほど横向きになっている点に感心いたしました。たくさんの腕を側面にずらりと並べてあるところも、よう見ますと指先まできちんと彫ってあります。

 側面には「南無妙法蓮華経」の名号、その下には8名のお名前が並んでいました。このお塔は夷谷の板井半蔵さんによるもので、宝暦年間の造立です。

 写真はありませんが、参道を上がって正面の堂様には木彫りの毘沙門天やお不動様が安置されており、誰でも自由にお参りできます。特に毘沙門天立像は素晴らしい造形です。近隣の信仰も篤く、一般に多宝院のことを「毘沙門様」と呼んでいるそうです。

 石段を上がってすぐ左側の観音堂の中には、たくさんのお観音様が3段に分かれて並んでおり壮観です。いずれも素晴らしく繊細な石造であり、それがこれだけ並んでおりますのでさてもありがたい感じがいたします。下段中央の如意輪観音様は特に高級な造りで、蓮華坐を丸くこしらえてその花弁のふっくらとした感じがよう出ています。しかも光背にはいちめんに細やかな文様を施してあります。これは素晴らしい。

 右の方には水神社が鎮座しています。貴船大明神などと同様に、農家の絶大なる信仰を集めたのでしょう。石垣をついて玉垣を巡らし、基礎を何重にもして石祠を鄭重にお祀りしてあります。

 

今回は以上です。次回はいよいよ応暦寺です。

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