大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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伊美の文化財・史跡(国見町) その1

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 国見町大字伊美の文化財・史跡を紹介します。今回は、本城の十王堂から東中の方に向かっていきます。適当な駐車場がない場所ばかりなので、「みんなんかん」に駐車させていただき、歩いて探訪されることをお勧めします。

 

1 本城の十王堂

 「みんなんかん」の建物を正面から見て左側の道を、向かいの山すそまで行きます。突き当ったら右折しますが、すぐ近くに十王堂があります。道路端で、標識がありますのですぐわかります。

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 新しい堂様です。こちらは、以前の堂様が古くなったのでこの場所に建て替えたものだそうです。道路から近く段差もないので、安全に、簡単にお参りができるようになりました。

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 立派な十王像です。いずれも保存状態が良好です。最上段のお面のようなものが気になりました。新しい堂様に安置され、これからも風化摩滅のおそれがありませんでありがたいことです。

 

2 本城の水口

   堂様の前の道を、東中方面に進んでいきます。右側に市営住宅やゴミ捨て場のある三叉路に出たら、左側の里道を上がります。田んぼと住宅の境界の、人が一人歩ける程度の狭い里道です。標識があるのですぐわかります。この道を上がれば本城の水口(水路隧道)に到着します。 

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 モルタル吹きつけもされていない、素掘りの水路隧道です。伊美地区は一面開けた明るい土地で、水田が広がっています。でも昔は灌漑設備が乏しかったために、谷筋の下流にあたるこの地域においては水不足が深刻で度々の旱害に襲われていたとのことです。そのため、山向うの後野池および上後野池から数本の水路隧道にて水を引いて、水不足を解消したのです。

  おそるおそる、入口からほんの少し中を覗いてみました。

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 この隧道が数100m先の溜池まで続いているというのですから、たいへんな難工事であったことが推察されます。重機などない時代、地域の方が総出で何か月もかけて工事したのでしょう。農閑期に工事をしたのかもしれませんが、当時は二毛作が当たり前だったと思いますし、まして七島イの作業など休む暇もない時代に、通常の農作業と並行しての大工事は並大抵のことではなかったと思います。中を見ますとキリハが狭く、おそらく一人か二人がツルハシで削るのがやっとだったのではないでしょうか?削った土は、シュラで引き出したのでしょうか。構造物のみをもってしても立派な文化財・史跡ですし、ましてその背景にある当時の方々の暮らしに思いを馳せますと、いよいよその価値の高さを感じずにはいられません。

 

3 金久の善神王様

 水路隧道の前から右に行くと、簡易舗装された狭い里道に出ます。左折して、その里道を上っていきます。登りついたところの左側に小さな鳥居があります。下の道路からそう遠くはありませんが木々に囲まれ、近づかなければここにお宮があることはわかりません。

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 善神王様は、五穀豊穣や家内安全、長寿などの神様で、耳の神様としても信仰されています。国東半島に点々と見られますが、そのうち杵築市馬場尾や国見町赤根のものは賀来神社(大分市)の善神王様を勧請したものとのことですので、こちらもそうなのでしょう。善神王様は元は「ぜんじんのうさま」なのでしょうが、普通「ぜぜんのさま」とか「ぜじんのさま」、または音が入れ替わって「ぜぜのんさま」などと呼んで昔から親しまれています。赤根では「ぜんじょうさま」と呼ぶこともあるようです。

 こちらは善神王様の社地にお稲荷さん、庚申様などいろいろの神様仏様がお祀りされています。狭い境内に諸々の石造物が並び、その後ろは昔のめいめい墓です。もしかしたらお稲荷さんや庚申様などは別にあったのが、こちらに寄せられたのかもしれません。

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 中央の石祠の前に、穴のたくさん開いた小さな石がいくつか置いてありました(写真にも写っています)。最初は、これは灯明立のかわりかと思ったのですが、よくよく考えるに、こちらの善神王様が「耳の神様」として信仰されていたのであれば、その関係のものかもしれないと思いつきました。耶馬溪の御霊紅葉のところの善神王様は、昔は「耳の通り(聴こえ)がよくなるように」との願いをこめて、竹に錐で穴を開けたものを束ねてお供えをしていたそうです。こちらの穴の開いた石も、そのような願いを込めたものなのかもしれません。この石の由来を御存じの方は教えてください。

 鳥居をくぐってすぐ右側に、立派な庚申塔が立っています。

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 青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼?

 170㎝ほどもある大きな塔です。瑞雲の細かい彫りや、金剛さんの指の表現など観察するにつけ、たいへん緻密な彫りの塔であったことが推察されます。今はそれなりに風化摩滅しておりますけれども、諸像の表情がよくわかり、比較的良好な保存状態と言えましょう。金剛さんは目を吊り上げ、頬を膨らました厳めしげな表情です。上の腕を大前に下ろしているので、「腕の付け根が上下に不自然に分かれる問題」をいともたやすくクリアし、違和感がありません。指の握り方が正確に表現されているのに、左上の腕の、宝輪をとった手だけが不自然です。向かって左の童子が上半身をややのけ反らせるようにして、金剛さんにおそれをなしているように見えるのもおもしろいではありませんか。また、向かって右の童子の髪型がまるで島田を結うているように見えるのもおもしろく、愛嬌が感じられます。

 金剛さんの足元、ただの台座かもしれませんが、明らかに何かが彫られています。台座の文様なのかもしれませんが、よく見ますと邪鬼が2匹、横向きに四つん這いになっているような気もいたします。この部分は傷みがあり、よくわかりませんでした。猿は中央から向かって右にかけて、「見ざる・聞かざる・言わざる」の順にポーズをとって直立しています。「言わざる」の猿だけ少し離れて、仲間はずれになっているように見えます。粘土細工のような造形がかわいらしく、「見ざる」の猿だけ何かの棒を持っているのも変わっていて、目が釘づけになりました。また、同じ並びの向かって左側には鶏が2羽、線彫りにてレリーフ状に刻まれています。雄鶏が右を向いているのはすぐわかりましたが、雌鶏はややわかりにくく、よく確認しました。雄鶏の脚の付け根のところに雌鶏の尾があって、雄鶏よりもずいぶん小さく、やはり右向きに刻まれていることがわかりました。鶏・猿の並びの下段には造立に関った方の名前が刻まれていたのではないかと思いますが、苔で全くわかりませんでした。

 この塔は、本城上組の塔です。同じ本城地区でも、下組の庚申塔(別宮社近く…いずれ掲載します)とは全く造形が異なります。どのような塔でお願いしますというデザインの希望などを石工さんに伝えていたのか、または石工さんにお任せであったのか?塔の造立を注文する際、どのようなやりとりが実際にあったのでしょうか。とても興味深くいろいろ想像してみますが、今のところそのような記録や伝承に行き当たっておりませんで、真相は霧の中です。

 

(次回に続きます)