大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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朝田の名所めぐり その2(大田村)

 久しぶりに朝田地区の記事を書きます。今回は大字波多方の名所です。適当な写真がないところはまたの機会に補います。

 

4 筌口の三柱神社

 大田村には白川稲荷、白髭田原神社など著名な神社がいくつも鎮座しています。筌口の三柱神社は、知名度こそ高くはありませんけれども境内に興味深い石造文化財が多数残っていますので、近隣を訪れる際にはぜひ参拝・見学をお勧めいたします。

 波多方峠から県道54号を田原方面に下っていき、波多方三叉路(信号機あり)を直進します。当ノ木部落のかかりにて、「横岳荘」の看板を目印に右折します。一山越せば筌口部落に入ります。最初の十字路を左折して道なりに行けば、右側に三柱神社が鎮座しています。車はそのすぐ先の、筌口老人憩いの家(公民館)の駐車場に停めさせていただくとよいでしょう。

 道路に面した斜面に石灯籠、宝篋印塔、庚申塔など様々な文化財が並んでいます。斜面は、横切って歩ける程度の傾斜です。簡単にそばに寄って見学できます。

 手前の碑は、銘の読み取りが困難でした。

 後ろに写っている宝篋印塔は、細部にわたって保存状態がすこぶる良好です。相輪や請花、隅飾りなど傷みやすいところもほぼ完璧に残っております。全体的に、より古い時代の宝篋印塔の特徴がよう出ています。特にこちらは、塔身がすぼまってほっそりとしており、メリハリのきいた造形が素晴らしいではありませんか。市の文化財に指定されていますが現地に説明板がないのが残念に思います。

 左の御室の造りの立派なこと、お屋根の前面はたいへん手が込んでいます。軒口に「横嶽山○○寺」と彫ってあります。この写真を撮ったのは数年前で、当時は頓着がなくてこの部分が読み取れる写真を撮り忘れてしまい、今さらながら拡大して読み取りを試みましたが○○の部分だけどうしても読み取れませんでした(いつか確認でき次第訂正します)。

 さて、横嶽山と申しますのは延命寺(廃寺)の山号であり、横岳に由来します。その奥の院が横岳大権現として残っています(その1の1番参照)。延命寺はかつて5つの下寺(正養寺・御所寺・満福寺・利生寺・重福寺)を有すほどの寺勢がありました。詳細は存じませんけれども、きっとそのうちの1か所がこの近くにあったのではないでしょうか?

 境内には2基の庚申塔が立っています。どちらも風化摩滅が目立ちますけれども、こちらの方がいくぶん良好な状態を保っています。別の写真で詳しく見てみましょう。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 碑面がざらついて、細部が分からなくなってきています。枠の取り方などを見るに、諸像は本来、細やかな彫りで表現されていたと思われます。日輪・月輪のあるところと主尊の両脇とでは、後者の方がより深く彫りくぼめています。その境界と申しますか、段替りになるところがちょうど主尊の火焔輪になっているのが意表をつきます。火焔輪の焔の大雑把な表現もおもしろうございます。主尊は三角帽をかぶり、頬を膨らましているように見えます。表情は読み取りにくいものの、厳めしい顔つきのように見えてきました。両手を腰に当てて武張って立つ姿は、多分に漫画的、記号的なデザインです。

 童子は素朴で、お地蔵さんのような雰囲気があります。右の童子だけ一段下がっているのはどのような意図かやと考えますに、童子の頭と弓とが重なることを避けたのでしょう。弓か童子を少し小さくするか、弓をもう少し上にすればよかったのではとも思いますけれども、仮令段違いになっても夫々の大きさの妥当性や主尊の腕の対称性を優先したのでしょう。彫る順序等の関係もあろうかと思います。猿と鶏は下の枠の中で、猿が上段、鶏が下段です。猿の向きがめいめいで、動きのある表現が実にいきいきとした感じを醸し出しています。これは、上の枠の中の主尊・童子の対称性に留意した表現とは対照的です。鶏は大きく表現されています。猿と鶏は特に見えづらくなってきているのが惜しまれてなりません。

青面金剛4臂、2童子、2猿

 こちらは上部が断裂し、そのひびが主尊にかかっています。最早そのことを惜しむレベルではないほどの風化摩滅で、諸像の輪郭をやっと確認できる程度にまで傷みが進んでいます。ここまで傷む前の姿を見てみたかったものです。断裂箇所も修復されていますし、神社の境内にて、これからも粗末になるようなことはないでしょう。

 庚申塔を見学したら、右の石段を上ればすぐ拝殿に着きます。写真はありませんが、その石段の上がりはなに対の狛犬もあります。公民館(老人憩いの家)のすぐ横から坂道を上がってもよいのですが、その場合は狛犬庚申塔などを見逃さないように気を付けてください。

 軒口に、二十四孝のうち孟宗さんの筍掘りの彫刻があります。有名な話なので内容は省きます。「孟宗竹」の呼称の由来と申します。参拝時に、彫刻を見逃さないように気を付けてください。

 参拝したら左手にまわって、摂社を確認されることをお勧めします。たくさんの石祠が並んでおり、近隣から合祀されたものと思われます。

左から、和佐田社、山神宮、稲荷社

左から、常盤社、八坂社、横嶽山神宮

左から、横嶽山神宮(1つ前の写真と重複)、焼神社

 石祠の形状も状態も各社各様ですが、すべてにシメをかけてきちんとお祀りしてあります。しかもめいめいにはプレートを設置して、一見してすぐ分かるようにしてくださっていますので理解の助けになります。右端には「権現社」の扁額も安置してあります。これは、神仏分離により権現の称号に障りが生じたので鳥居から取り外したものでしょう。

 

○ 筌口のお観音様踊りについて

 8月15日には老人憩いの家の坪でお観音様の盆踊りがあり、子供の頃に行った覚えがあります。この地域の盆踊りの演目は、昔は「三つ拍子」「二つ拍子」「祭文」「ヤッテンサン」「粟踏み」「六調子」「豊前踊り」の7種類でした。最近は4種類か5種類程度に減っているようです。踊り方はごく素朴ですが、「三つ拍子」の軽やかさや「豊前踊り」「六調子」のしなのよさなど、やはりお年寄りの踊りは一味違います。特にのろまな踊り(豊前踊りなど)の足運びや腰まえのよさは見事なもので、長年慣れ親しんだ方でないと到底あのような踊りはできないでしょう。

 大田村の盆踊りは、山香・田染・安岐それぞれの盆踊りの「いいとこどり」の感がある、とてもよい踊りですのに、人口の減少により年々下火になるばかりなのが惜しまれてなりません。太鼓の叩き方も口説の節も、もちろん踊り方も、大田村独特の特徴があります。その委細をいちいち申しますと冗長になるので、ここに7種類の唄を少しずつ掲載しておきます。文句はほんの一例です。

二つ拍子
〽踊るみなさん足ゃだゆかろが(アラサヨーイヨイ)
 しばし間は本字と続く(ヤレヤットコサッサノヨイノヨイ)
〽続くところで理と乗せましょか 昔習うたそのあらましで

三つ拍子
〽よんべ山家の踊りを見たら(アードシタドシタ)
 かたげて鎌腰さいて(ヤレヤレドッコイショ)
〽踊る片手じゃ稗餅こぶる 稗餅ゃぼろぼろあゆる

粟踏み
〽粟踏みゃどこからはやる(ヨイヨイ)
 そじゃそじゃどこから流行る(ヤンソレヤンソレサ)
〽粟踏みゃ四国が本じゃ みなさん一丁どみゃやろえ

祭文
〽阿波の鳴門の徳島町よ(オイサオイサ)
 忠義な侍なるが(ソレイヤ ソレイヤットヤードッコイショ)
〽家の宝の刀の詮議 不運か無実の難儀

豊前踊り
〽ところ四谷の新宿町の
 紺の暖簾に橋本屋とて(アラヤンソレサッサノヨイノヨイ)
〽数多女郎衆のあるその中に 分けて御職はどなたと訊けば

ヤッテンサン
〽しばし(セーロ) 間はヤッテンサンでせろな(ヤッテンサンノ)
〽これで なけらにゃ子供衆ぁひやけ

六調子
〽国は下総因幡の郡(アラサヨーイヨイ)
 小倉領にて岩橋村よ(アラヨイトコサッサノヨイヤヨイ)
〽名主総代宗五郎こそは 心正直利発な者よ

 

5 板山のキリシタン

 車を置いたまま、三柱神社をあとに道なりにカサへと歩いていきます。板山部落のかかり、道路端に「隠れキリシタン墓」の標柱が立っています。ここから右方向に少し入ったところにあります。見学は冬の間がよいでしょう。夏場は上り口が藪になっていることも多く、マムシ等の被害も懸念されます。車は、少し手前のやや広くなったところの路肩に寄せて停められそうですが、その膨らみは離合場所なので駐車はしない方がよいでしょう。

 この場所には2基の碑をはじめとして、五輪塔か何かの残欠と思しき石造物なども残っています。小さい方の碑はその形状から、明らかに潜伏キリシタンの墓碑と分かるものです。これほどあからさまなものをこしらえても、この場所では人目につかなかったのでしょうか?

 いずれも、「信士」のつく戒名を彫ってあります。その下には線彫りの蓮の花も見えます。左の墓碑については、見るからに十字を内包しており、通常の形状ではありません。最早、戒名や蓮華でごまかそうとしても言い逃れができないような気がします。もっと山の中にあったものを下ろしたり、またはこの場所がもっと鬱蒼としていた等、人目に触れないようになっていたのでしょうか?

 ともあれ、国東半島は「仏の里」と申しますけれども、語弊をおそれずに言えば、民衆の信仰は狭義の仏教の範疇を逸脱していましたし、今もそうです。大ざっぱに言いますと神仏習合が、国東半島の信仰でした。お寺と神社が隣り合わせになっている、神社に仁王像がある、お寺の奥の院が神社になっている等、今でもその名残が色濃うございます。民家のお座敷には、仏壇と神棚が横並びになっていたり、仏壇の上に神棚があったりする事例も多々あります。昔は庚申様や百万遍、お日待ち、お弘法様、金毘羅様、お伊勢様、風の神様、社日様、百手、山の神様などの年中行事が数限りなくあり、土着の信仰は多彩を極めました。その文脈の中に、目立ちませんけれども潜伏キリシタン隠れキリシタンの信仰もあったのです。

 なお、こちらは市の文化財に指定されていますが、説明板がないのが惜しまれます。元禄5年の銘があります。

 

長くなるので一旦区切ります。次回も大字波多方の名所や文化財を、庚申塔を中心に紹介します。
これは余談ですが、杵築市文化財は主要なものを除いて、市のウェブサイトでもほとんど言及されていません。現地にも説明が何もなく、市町村誌を図書館で閲覧しなければ由来などが全く分からない文化財が多々あります。この点について杵築市は、同様に石造文化財の豊富な県内他市(豊後高田市国東市豊後大野市)に比べて大きく後れをとっていると言わざるを得ません。改善が望まれます。

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