大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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朝田の名所めぐり その3(大田村)

 前回に引き続き、大字波多方(はだかた)の名所や文化財を掲載します。今回は3基の庚申塔をはじめとして石造仁王像、牛乗り大日様、鳥居など、石造文化財がたくさん出てきます。

 

6 赤松の庚申塔

 波多方三叉路(信信号あり)から県道34号を大田支所の方へと進みます。左側2つ目の角(鋭角に折り返す分岐ではなく直角の分岐)を左折し、道なりに橋を渡ったところが赤松部落です。二又を右にとってほどなく、左側に庚申塔が1基立っています(冒頭の写真)。車は、この少し先の田んぼ沿いに邪魔にならないように停めるしかありません(農繁期は近隣の迷惑になりそうですのでやめておきましょう)。

青面金剛4臂、2童子、2猿、邪鬼、ショケラ

 この塔は前傾しており、転倒防止のために笠につっかい棒をしてあります。碑面がだんだん荒れてきて、しかも諸像がごく浅い彫りで表現してあるので写真では分かりにくいと思います。実物を見ればもう少し分かります。

 上から見てみましょう。まず日輪・月輪の脇には瑞雲が見てとれます。風化が著しいものの、牡丹崩しの風情があります。この塔で最も興味深いのは主尊の表現です。一般に、大田村で見かける庚申塔は主尊が左右対称の表現になっています。ところがこちらは、微妙に斜めを見るような表現になっているのです。平面的な表現の中で、微妙に左右をずらしてお顔の表情や髪の毛の彫りを工夫することで、見事に難しい表現を克服してあります。大きな目をつり上げ、炎髪は鬢まで総毛立ち、口や鼻もほんに厳めしい感じがいたします。ショケラをしっかりと握りしめ、邪鬼を踏んでほんに堂々たる立ち姿ではありませんか。邪鬼は表情が読み取りづらいものの、よう見ますとギャフンと観念したような雰囲気が感じられます。童子と猿は輪郭が辛うじて判別できる程度にまで風化しています。

 宝暦12年の銘があります。250年以上前の造立です。

 

7 鷂神社

 鷂という字は通常「はいたか」と読みます。「はいたか」は鷹の一種で、通常の鷹よりも少し小さい鳥です。神社の名前としては「たか」です。

 さて、こちらは波多方の村の神社です。雨乞い、日乞い、風除け、五穀成就、雷除け、家内安全の霊験あらたかなるとて大字波多方一円の崇敬を集めています。境内には鳥居、仁王像、狛犬などの石造文化財がありますほか、巨樹も聳えて環境が素晴らしいので、みなさんに参拝をお勧めいたします。

 赤松の庚申塔から県道に返って、元来た道を後戻ります。波多方三叉路をすぎてほどなく、「→鮎帰」の青看板のある角(信号機なし)を右折して中央線のある道に入ります。道なりに行けば右側です。道路端なのですぐ分かります。車は説明板の横の空地に停められます。

 参道入口には立派な鳥居が立っています。この後ろに仁王像、二の鳥居、狛犬など次から次に並んでおり、距離は短いながらも見どころのたくさんある参道です。

 写真はありませんが、御祭神と由緒を記した碑銘も立っています。その内容を転記します。

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御祭神
八雷大神(やついかづちのかみ)
 大雷神、火雷神、土雷神、稚雷神
 黒雷神、山雷神、野雷神、裂雷神
大雷神十座八面大明神

由緒
白鳳10年壬午6月15日、大雷神この村に御降顕の当時、雷峰なる嶺にあたりにわかに風雨雷電晦暝震動し、須叟の間に空晴れ、大雷神八面の神鏡を現し、光明赫灼と照り輝き、すなわち古松の枝に止り給う。このとき登臨せし神主はじめ村民等大いに恐懼し、かくのごとき神変不思議の奇瑞いまだかつてみることなしと、深く感激し各々信心渇仰袂をしぼる。村民俄かに山上平坦なる処に社殿を構築し、雷の峰八面大明神を鎮斉奉りて氏神と尊崇す。

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 碑銘の内容により、元は山の上に鎮座していたことが分かります。その後の経緯は、次のような伝承があります(分かりやすいように簡略化した内容を記します)。

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 弘仁3年6月15日の夜半過ぎ、波多方のお年寄りの夢枕に神童が現れ、ご神託がありました。曰く「私は八面大神の神使である。この嶺に降臨して久しい私が険阻の山頂の不便さを厭うわけではないが、氏子や参拝者が大変な思いをしていることから、神社を麓の岩根に移して社殿を造営しなさい。そうすれば必ず11月15日に私が降りて永く氏子を擁護し、さらに八幡大神の霊蹟をも守護しよう」と。

 ご神託を受けたお年寄りは信心深い人であったので、急いで神主や氏子を集めて社殿造営の旨を諮りました。反対する者はなく即座に決議し、それ以来日に夜を継いでの普請も11月8日までに作業を終え、15日には遷宮の儀式を執り行うことができました。氏子が大勢参詣し、お神楽を執り行うと、雷の峰からは五色の雲がたなびき、さても神秘的な香りが漂い大空には笛鼓の声が響きました。これも神様の降ってこられた徴だろうと話していると、麓の岩がいちめん金色に輝きました。爾来11月15日を祭日と定めて、雨乞い、日乞い、風除け、五穀成就、雷除け、家内安全の霊験あらたかなるとて近隣在郷の信仰篤く、参詣者の絶え間を知りません。

 ところが元和6年11月14日に、参拝者の不注意で火事になりました。境内でたばこをのみ、その始末が悪くて夜になって社殿から火が出たのです。夜のことにて消火が遅れ、社殿はもとより申殿や回廊までも全焼してしまいました。そのとき、大明神様は大蛇の姿で顕れ鷹になって飛んでいき、宇佐の八幡様に避難されました。曰く「私は氏子を嫌うてこの地を離れたわけではない。今後は火の始末に注意のこと。19日の夜、丑の刻に帰る」由、氏子一同は喜び祝詞やお神楽でお待ち申し上げました。いよいよ当夜、丑の刻には宇佐の八幡様の方角から1羽の鷹が電光のごとく飛んできて榧の木におとまり遊ばしました。

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 説明板の内容を転記します。

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鷂神社の文化財

 1300年前の古代より地区民の心のよりどころ、自然信仰の対象として崇拝され、その間幾多の時代の変遷を経て多くの文化財が残されている。その主たるものをあげる。

1 本殿
 明和2年(1765)の建築で三間社造り。主材はカヤで、極彩色の彩色社殿で見事な彫刻が三方に施されている。建築様式に優れており、近郷神社では最古の建築物である。

2 中鳥居
 寛文12年(1673)の建立。総高4.5m、礎石2段で柱の上部は特異形である。天額に「八面大明神」とあり、国東半島では2番目の古さである。

3 右大臣・左大臣 2像
 本殿正面両側に安置されている。制作年代不明なるも本殿建築と同時代と推定される。

4 仁王像 2体
 製作年代は明記されていないが、神仏習合の江戸時代、同社参道にある無明橋と同年頃の彫刻と思われる。当初は申殿両側にあったものを、昭和年代に現在地に移転されたものである。

5 巨木 3種
 カヤの木は最も古く樹齢500年以上といわれ、御神木として奉られていたが、平成3年の台風により倒木した。現在は新たに植樹している。モミの木の周りは3.5mと非常に風格があり、ケヤキも同年代のものと思われる巨木である。

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 仁王像は、説明板によれば昭和に入ってから、申殿両側にあったものをこの地に移したとあります。国東半島では、明治の神仏分離令により神社の仁王像をよそに移した事例が多々あります。ところがこちらは昭和に入ってから移したとのこと、どのような事情があったのでしょうか?立派に台座をこしらえ、堂々たる風格で睨みをきかせています。

 中の鳥居も、説明板で言及されています。不勉強で鳥居の種別を見分ける目を持たず、細かい説明ができません。実物を見学した感想としては、礎石の大きさが印象に残り、全体的にどっしりとした風格を感じました。重厚感に富んだ秀作であると存じます。

 この仁王像には天衣が元からなかったようです。最も破損しやすい部分がないことから、非常に良好な状態を保っています。もちろん風化摩滅はありますけれども、今のところ細かい部分までよう分かります。筋骨隆々たる体つき、腕の力こぶ、厳めしい顔つきまで、何から何までよう整うた秀作です。片足を引いて斜めに立っておりますのも、なかなか格好がよいではありませんか。

 後ろ姿もこのとおりよう整うていますし、細部まで丁寧に表現しています。石造文化財に興味関心のある方はもちろん、そうでない方もぜひ見学されてはと思います。国東半島の庚申塔や石造仁王像は、その個性豊かな造形が非常におもしろいし、数が多いことから何かのついでにでも自然に目に入りますので、石造文化財に親しむきっかけとして最適です。

 この碑にある「下乗」は、馬や駕籠から降りなさいという意味です。お社や狛犬などの写真を撮り忘れてしまいましたので、それらはまたの機会とします。

 

8 山香道の石造物(イ)

 鷂神社をあとに、道なりに進みます。ほどなく右側に県道31号の標識があります(反対向きです)。この標識を目印に、右側の斜面に少し入れば庚申塔とお弘法様が並んでいます。以前は道路から見えていたのですが、枝が伸びて分かりにくくなりました。

 さて、この辺りは大字波多方のうち、山香道(やまがみち)部落です。山香方面への道の入り口、上り口にあたる地域なので、このような地名がついたのでしょう。昔からある道路は、行き先を冠して「○○道」のように呼ぶことが多々あります。古い道しるべに「○○みち」などと彫ってあるのをご覧になったことにある方も多いと思います。

 車を停める場所がないので、神社から歩いて行くとよいと思います。なお、山香道部落にはこのほかにも庚申塔がありますので、区別のために「イ」と付記しました。もう1つの庚申塔は写真がよくないので、またの機会とします。

 竹が倒れてやや荒れ気味になっています。お世話が大変になっているのでしょう。お弘法様は立派な御室におさまっています。そのお屋根には垂木を細かく彫って、破風のカーブもほどよく、手の込んだ造りです。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 元々の彫りの浅さに加えて地衣類の侵蝕が進み、細部が見えづらくなっています。けれども実物を確認しますと、案外細かいところまでよう残っていました。主尊の御髪の櫛の目や、つり上がった眼、ヘの字の口など、さても厳めしい感じがいたします。三叉戟ではなく槍を杖に見代えの立ち姿は凛々しいものを、脚の細いこと細いこと、提灯ブルマーのような衣紋からのぞいた足首の頼りなさはどうでしょう。弓の表現方法なども尋常ではなく、独創性に飛んでいます。

 童子はお公家様のような装束にて、その衣文には何らかの文様が見てとれます。主尊とはまるで雰囲気が違いますのもおもしろいではありませんか。ましておもしろいのが猿で、2匹が背中を丸めて向かい合うて、かたみに手を取りて踊りの首尾とは、なんと朗らかなことでしょう。めいめいの後ろには鶏が控えています。猿と鶏の区画は、仲よしの家族を象徴するかのようです。

 

9 鮎帰の石造物・イ

 山香道部落を抜けて、道なりに行きます。鮎帰(あいげり)部落の1軒目の民家よりも手前、左カーブの外側(カーブミラーのところ)に、庚申塔と牛乗り大日様が並んでいます。ガードレールが意味ありげに途切れていますし、よう気を付ければ車道から塔が見えますので分かると思います。

 なお、鮎帰部落のカサの方、高熊越への旧道沿いにも庚申塔があるとのことです。そちらにはまだ行き当たっていませんが、区別のために一応「イ」と付記しました。

 このように、立派に基壇をこしらえています。車道からは目と鼻の先で、その間に若干の窪みがあります。車道ができる前は、庚申塔のすぐ前に古い道(山香道)が通っていたそうです。でもその旧道は藪になっていて、一見しただけではそこに道があるとは分かりません。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2童子

 上から見ていきましょう。笠は、唐破風の庇をほとんどとらずに、半ばレリーフ状に表現してあるのが変わっていると思います。でも、それが却って優美な雰囲気にもつながっているような気がしますし、これはこれでよいのではないでしょうか。日輪・月輪はよう分かりますが瑞雲は確認できません。主尊は一つ髷です。額が広がり、前髪が後退しているようです。どんぐり眼で口をヘの字に結んでも、山香道庚申塔のような恐ろしい雰囲気はありません。腕を上下平行に曲げており、海外ドラマなどでよう見かけるあの肩をすくませる所作にそっくりで、なんとなく愛嬌があります。また、直立するというよりは何かになんかかっているようで、腰が引けて膝が曲がっているのもおもしろいではありませんか。

 童子はごく小さいうえに彫りが浅く、存在感がありません。合掌をしています。猿は2匹が狭い部屋に並んでいます。この種の表現はときどき見かけます。こちらは風化摩滅のために手の所作が分かりづらく、なんだかインベーダーゲームの敵のような見た目になっているのも御気の毒なことでございます。その両脇には鶏がレリーフ状に彫ってありますけれども、苔で分からなくなってしまいました。

 この塔は享保7年の造立です。300年が経ち、山香道を歩いて越える人は誰もいなくなりました。でも庚申様は、交通安全をいつも見守ってくださっています。

 御室の立派な造り、特にお屋根の精巧な表現にため息が出ます。破風の二重垂木、懸魚や棟木の彫りの細やかさなど何から何まで行き届き、まるでお宮の屋根のようです。

 中の仏様は、3面6臂の大威徳明王様です。ほんとうは大日様とは違う仏様なのですが、国東半島では昔から牛の乗った大日様と混同しまして、大威明王でも大日如来でも、牛に乗っていれば「牛乗り大日様」と呼ぶことが多々ありました。それで私もつい、この種の像をどれもこれも「牛乗り大日様」と呼んでしまいます。牛乗り大日様は、農耕に牛馬を使役していた時代に農家からの信仰が絶大でした。馬頭観音様と同様に、国東半島から速見地方にかけての道路端で盛んに見かけます。特に北杵築・大田・山香辺りに多いような気がします。通りがかりに見かけたら、お参りをされてはいかがでしょうか?

 

今回は以上です。朝田地区のシリーズは、写真のストックが少なくなったので一旦お休みとします。次回は河内地区(豊後高田市)の記事を書きます。