大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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河内の名所めぐり その1(豊後高田市)

 このシリーズでは、豊後高田市は河内(かわち)地区の名所旧跡を紹介していきます。河内地区は田染地区のお隣で、大字小田原(こだわら)・佐野・森からなります。この地域を代表する名所旧跡と申しますと、何はさておき西叡山高山寺があげられましょう。ほかに佐野鞍掛城、塔ノ御堂(とうのみどう)、内野のお観音様などもよう知られています。今回は、ひとまず適当な写真のあるところを一気に掲載します。続きは写真のストックがたまり次第、時間を空けながら書いていくつもりです。

 

1 下ノ平の庚申塔

 田染から県道34号を高田方面に進み、河内地区は大字小田原に入ります。左側に高山寺入口の大きな看板のある辻を右折して、橋を渡り道なりに進んでいけば右側に庚申塔が立っています。冒頭の写真のように対の灯籠を伴いますし、道路端なのですぐ分かります。車の場合は一旦通り過ぎて、塔ノ御堂上り口付近まで行きますと右側の路肩が広くなっているので、そこに停めるとよいでしょう。

 横から見ますと、ずいぶん肉厚の塔であることが分かります。丸っこい大岩の正面をスパッと切り落として、その面に諸像を彫ってあるのです。かなりの重量があると思います。このような形状の庚申塔は、玖珠地方の文字塔でときどき見かけます。でも国東半島では多くはないでしょう。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 この庚申塔は上部に大きく残した庇の部分が特徴的ですが、それにもまして諸像のデザインや配置の妙が印象に残りました。上から見ていきましょう。まず主尊のお顔です。えらが張って四角い顔の目鼻立ちがほんに厳めしく、炎髪のボリューム感とあわせて、ただものではない感じがいたします。6本の腕は自由奔放な表現で、特に三叉戟をとる腕がとんでもなくねじ曲がっておりますのも風変りなことではありませんか。そうかと思えば弓と矢をとった腕は夫々真横にまっすぐに伸ばしており、この箇所に関して申しますとデザイン的には優れているとは言い難いかもしれませんが、目いっぱい腕を横に広げることで幅を持たせることができ、余白を少なくして碑面全体の調和に一役買うておる気もいたします。腰を引き、右足を伸して、仁王さんのような立ち方になっている点にも注目してください。主尊の足場が斜めになっているのもかわっていますし、その足場が両端に繋がらずに、童子の後ろに隠れるようになっているのもまた珍しいと思います。

 童子はめいめいに小さな足場の腕に立っています。主尊よりも少し前、一段低い位置です。後ろから付き従うというよりは、主尊を先導するような雰囲気がございます。曲線の表現が優美でよいと思います。猿はがに股でしゃがみ込み、見ざる言わざる聞かざるの手で逆三角形に並びます。横一列にせずに、このような配置にしたことで全体のバランスがとれています。鶏は下の猿の両脇、最下段にて素朴な姿で佇んでいます。仲よう向き合うかと思えば、片方の鶏はプイとそっぽを向いています。

 たいへん個性的な庚申塔ですから、みなさんに見学をお勧めいたします。

2 塔ノ御堂

 先ほど申しましたように、庚申塔の少し先から参道の石段が伸びています。道路端に小さな標識があるのですぐ分かると思います。塔ノ御堂には、それはそれは立派な国東塔と板碑があります。いずれも、河内地区の石造文化財の代表格といえましょう。豊後高田市を訪れる際には必ず立ち寄るべき名所です。

 道路から、比較的ゆるやかな石段が堂様まで伸びています。上まで見通せるもの僅かに屈曲しており、これがなかなかよい雰囲気ではありませんか。また、石段の積み方が上の方と下の方とで異なります。上は横長の石を段々にしてあるのに対して、下は1段あて3つ程度の石を横並びにしてあるのです。その境目には里道が横切っています。もし下の車道ありきでこしらえた参道であれば、上から下まで同じ造りの石段になっていそうな気がします。しかし実際には里道を境に石段の造りが異なることから、この里道は下の車道ができる以前の旧道ではあるまいかと推量しました。

 この板碑はかなりの大型です。額部の形状などは古式ゆかしい雰囲気がいたしまして、全体的に堂々たる風格が感じられます。曲線のとりかたも非常に美しく、秀作といえましょう。額部の梵字「バン」、これは金剛界大日如来を示します。碑面には阿弥陀三尊の梵字が大きく彫ってあり、墨がよう残ります。主尊は「キリーク」(千手観音様または阿弥陀如来)、脇侍は右が「サ」(観世音菩薩)、左が「サク」(勢至菩薩)とのことです。最下部に施されている紋様にも注目してください。紀年銘は見当たらないものの、全体の特徴から鎌倉時代末期と推定されているそうです。勉強不足で、板碑の見分けの目を持ちませんが、いろいろと見比べてみますとシンプルな造りの中にも個性があり、いよいよ興味深うございます。

 この国東塔も大型で、基礎を失い別石で置き換えてあるものの、現状でも台座から上が267cmもあります。基礎が残っていればさらに大きかったことでしょう。一見して、首部から上が大きく破損し軸がぶれているのが惜しまれてなりません。バランスが悪く、地震などによる倒壊・さらなる破損が懸念されます。積み方も怪しく、おそらく元の位置関係から回転しており正しい向きではないようです。遠い昔に壊れて積み直したときに、間違えたのでしょう。

 異常なる大きさの首部がよう目立ちます。これは、市の説明によれば西国東地方における古い国東塔の特徴であり、首部の長さや茶壺型の塔身、軒口が薄く緩やかな反りの笠などに、鎌倉末期の国東塔の形式をよう受け継いでいるとのことです。塔身には四方仏(釈迦・薬師・阿弥陀・観音)が浮き彫りになっており、舟形とあわせて非常に優美な彫りが素晴らしいではありませんか。請花と反花の表現方法がまるで異なる点にも注目してください。傷みが進み細かい部分が薄れてきていますけれども、複弁の優美なる造形が見事です。

 私には全く読み取れなかったのですが、説明板によれば塔身の銘から、延慶3年に願主の逆修供養のために造立されたものであるそうです。銘を転記しておきます。

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妙法蓮華経者諸仏出世之
戒壇衆生成仏之直道也仍
如法経該巻●●●塔二碁
為往生極楽乃至法界 衆生
利益平等奉如斯敬白 沙弥
延慶三年庚戌四月廿四日
大願主●●●覚●● 

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3 旧第一倉谷隧道

 塔ノ御堂上り口を過ぎて佐野方面に少し行きますと、右側に古いトンネルが残っています。このトンネルは今の2車線の道路が開通する以前の旧道です。新道が開けてからもしばらくは使われていましたが幅員狭小で、利用頻度も低く、凡そ10年ほど前であったかと思いますが崩落の危険があるとのことで通行止めになりました。

 10年以上前に撮影した写真です。今は藪になって、様子が全く違います。この数年で、国東半島にたくさんある古いトンネルが次々に閉鎖されています。こちらもとうの昔に用をなさなくなっており、リスク回避の観点から通行止めもやむなしと思われます。しかし明治41年の竣工というたいへん古いトンネルであり、地域の生活史の一端を示すものとして、史跡的な価値があると考えます。それで、ありし日の姿をここに紹介することにしました。

 なお、このトンネルは一般には「塔ノ御堂隧道」とか「塔ノ御堂のトンネル」と呼ばれていました。昔は近隣に第二倉谷隧道もあったそうですが、そちらは開鑿されて久しいようで私は見たことがありません。

 

○ 小田原の盆踊りについて

 小田原では今なお、8月13日に初盆の家を門まわりで踊っています。昔は国東半島のあちこちで、初盆の家の坪で供養踊りをしているのを見かけたものでした。でも最近は、門まわりの供養踊りを見かけることは稀になり、豊後高田市内でも小田原のほかに猫石(草地地区)、蕗(田染地区)などごく僅かになっています。初盆の家を1軒ずつ順繰りにまわるので、軒数が多いと最後の家は夜中になります。夜遅くに太鼓と口説が響き、民家の坪で盆踊りをする風景は国東半島の夏の風物詩といえましょう。なお、小田原では8月15日にお宮の寄せ踊りもしています。

 演目は「レソ」「ヤンソレサ」「マッカセ」など市内に広く伝わる踊りのほかに「三つ拍子(みつぼし)」もあります。「三つ拍子」は大変珍しく、今では小田原に残るのみとなっているようです。これは山香町や大田村の「三つ拍子」とは唄も踊りも全くの別物であり、昔は高田周辺で地方で広く踊られていました。ところが「レソ」「マッカセ」「エッサッサ」などに押されて次第々々に下火になり、踊りどころとして名高い草地地区でも忘れられて久しく、小田原でも長らく途絶えていたのです。ところが、10年以上前だったと思いますが、凡そ40年ぶりに復活しました。このことは新聞記事にもなりました。ただ、一度は復活したものの音頭さんの世代交代などにより、伝承に難渋しているようです。教育委員会などが主になって、郷土芸能として映像に残しておくことが望まれます。

 

4 下ノ山の庚申塔

 旧第一倉谷隧道を右に見て、道なりに進みます。桂川を渡って大字佐野に入り、左折して県道を田染方面に少し戻ります。ガソリンスタンドを過ぎて右折し、河内中学校の敷地に沿うて左に折れてすぐさま右折、突き当りを右折して農道を少し行けば左側の山裾に庚申塔が立っています。道路から近いのですぐ分かります。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 この塔は目線よりも少し高い位置にありますので、大きく立派に見えます。諸像の表現も工夫がこらされており、秀作といえましょう。上から見ていきます。まず笠はずいぶん扁平な造りです。塔身には縁取りをなしますが区画を分かたずに広くとって、その中にすべての像を配していますので自由な発想で、デザイン的に優れた表現になっています。

 日輪・月輪には僅かに彩色の痕跡が認められます。瑞雲は漫画的な表現で、くるりくるりと細かな孤を連ねています。そのきわのところに火炎輪が近接しており、両者が相俟って雷様の輪を見たような雰囲気がございます。主尊は頬がむっちりとして、目をものすごくつり上げており、ほんに厳めしい顔つきです。持ち物はささやかな表現で、体の前面は風化摩滅が進んで細かい部分が見えづらくなっているのが惜しまれます。

 童子は両側から主尊の方を向きまして、振袖さんの風情にて恭しく仕えている様が見てとれます。その足元を見ますと猿の頭に乗っているかのように見えますのもおもしろいではありませんか。そして猿も両脇にて内向きで、両手を伸ばしてヤッコラサノサとばかりに主尊の立つ台を支えています。けなげなるかや、頭に童子を乗せ腕で主尊を支え、縁の下の力持ちの雰囲気が感じられます。鶏は近隣在郷の庚申塔の中では群を抜いて大きく立派な表現で、鶏冠や豊かな尾羽を優美な曲線で表現してあります。

 元文5年、今から280年以上も前の造立です。その当時の方の豊かな発想力に感嘆いたしました。

 

5 桜川小学校跡

 下ノ山の庚申塔から県道に返って左折し、高田方面に進みます。河内大橋交叉点(信号機あり)を直進して、すぐ次の角を右折します。道なりにずっと進んでいくと左側に貴船神社が鎮座しており、その並び(手前)の公民館の敷地が旧桜川小学校の跡地です。

桜川学校跡

 このような碑銘が道路ぎわに立っているのですぐ分かります。桜川小学校は河内小学校の前身で、明治5年にこの地に開校しました。明治25年に河内尋常高等小学校に改称しており、いつのことか存じませんが大字佐野、先ほど申しました今の河内中学校の近くに移転しています。児童数は減少の一途を辿り、今は複式学級で全校4クラスになっているようです。

 

6 森の貴船神社

 桜川小学校跡のところに車を停めたら、隣接する貴船神社に参拝いたしましょう。住宅地の中の神社ですけれども境内はそれなりに広く、石造文化財も豊富です。貴船様と申しますと、水を司る神様として農家から絶大なる信仰を集めています。

 立派な門と鳥居、灯籠が目を引きます。鳥居は笠木・島木の両端の反りがよいと思います。灯籠の銘には「還暦記念」と彫ってあるような気がするのですが「還」の字が私の読み間違いかもしれません。

 火袋のところの重ね扇が優美です。これに合わせて、宝珠の下も四面が扇型になっているところに注目してください。全体的に細やかな装飾が施され、バランスのとれた秀作といえましょう。紀元二千六百年を記念して、昭和15年に安部新吉郎さんが寄進された灯籠です。

 狛犬も個性的で素晴らしい。毛並が整うてくるりとゼンマイ型の渦を巻くのもよいし、背中に子犬がよじ登っているのがまたほんに可愛らしいではありませんか。親犬の足元が簡略化された表現になっている点は残念ですけれども、そんなことは気にならないほど魅力的な造形です。

 後ろから見た狛犬です。背中に乗っているのは、子犬というか赤ちゃん犬の雰囲気があります。

 右奥には摂社が鎮座しています。鳥居には「夜奈石宮」とあります。このような名前の神社は全く存じません。これはなんと読むのでしょうか?小夜の中山の夜泣石とは無関係でしょうし、何が何やら分かりませんでした。検索しても、1件も引っ掛かりません。

 さて、この近くに庚申塔が立っています。見落とし易いので、参拝時には注意深くさがしてみてください。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 この塔は、デザインや彫りの完成度を見ますと、下ノ山の庚申塔に比べますと失礼ながら稚拙さは否めません。けれどもその個性豊かな表現がたいへん興味深いし、諸像の姿には愛らしさ・親しみやすさが感じられまして、心に残りました。

 上端は不整形で広く余白をとっています。碑面が一応平面になる境目ぎりぎりのところには線彫りで日輪・月輪と瑞雲を表現してあり、これがお花くずしの風情です。それに近接して主尊の火焔輪をこれまた線彫りで表現してあり、非常に珍妙な雰囲気が感じられました。まして鎮痒を極めますのは主尊の腕で、6本の腕の付け根の表現があやふやにて奇妙奇天烈なことになっています。デザインとして優れているとは言い難いものの、刻像塔の制作に不慣れであったと思しき石工さんが一所懸命に表現しようとした頑張りの痕跡が感じられました。主尊のおもしろいところはまだあります。首が長く、その首の太さと同程度にまで胴回りがくびれ、微妙に身をよじらせているではありませんか。腰蓑ひとつで南洋踊りでも踊りはじめはすまいかと思われる立ち姿には、独特の魅力があふれています。

 童子は非常に小さくいながらも、よう見ますと目鼻や腕の形など可能な範囲で丁寧に表現してあります。鶏もごくささやかな表現で、見ざる言わざる聞かざるの所作は辛うじて読み取れます。その下にはレリーフ状に鶏が彫ってあります。写真でも注意深くご覧いただくと判別できると思います。

今回は以上です。別の趣味に夢中で、更新の間隔が緩やかになっています。空いた時間を見つけて頑張って書いているので、気長にお付き合いいただければと思います。次回は朝日地区(別府市)の記事の続きを書きます。

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