大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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朝日の名所めぐり その3(別府市)

 久しぶりに朝日地区のシリーズの続きを書きます。道順が飛び飛びになりますけれども、昔の話題なども適宜挿みながら、地域の今昔を深掘りしていきたいと考えています。

 

8 実相寺山の景勝と乕御前さん

 実相寺山(じっそうじやま)は、大字鶴見は原中(はるぢゅう)地域の東部に位置する小山です。市街地化が進み、近隣にも民家や商店が建て込んで久しい中で、この山には自然がよう残っています。それで、小山なれども海岸線から見てもよう目立ちます。特に山頂に建つ立派な仏舎利塔は、地域のランドマーク的な存在としても広く親しまれています。桜(冒頭の写真)や菜の花の名所ですし、仏舎利塔の上層テラスに上がれば眺望絶佳ですから、参拝がてら景色を眺めることをお勧めします。

 特に案内は不要かと思いますが、一応道順を記しておきます。鉄輪線は原(はる)の交叉点(5叉路)からジョイフルの脇を下り、賀来殿山(別府園跡・現ルミエールの丘住宅地)に沿うて行けば正面が実相寺山です。突き当りを右折してすぐさま左折すれば、自動車で山頂まで上ることができます。

 仏舎利塔のきわに、立派な板碑や五輪塔などが立っています。この板碑は今のところ文化財には指定されていないようですが、別府市に残る板碑の中では最も大きなものであり、梵字もよう残っています。紀年銘が見当たらないので指定されていないのでしょうか。南北朝時代のものと推定されている由、蓋しこの附近に昔あった旧実相寺(後で説明します)に関連のあるものでしょう。

 ところで、この板碑は、昔は近隣地域の方から「乕御前(とらごぜん)さん」として信仰されていました。何らかの伝承があってそのように呼んだと思われますが、今はもうその詳細を御存じの方は少なくなっていることでしょう。普通、虎御前様と申しますと宝篋印塔であることが多く、特に大分県内では十中八九そうであると存じます。板碑に虎御前様の伝承のある事例は珍しいのではないでしょうか? 虎御前とは何ぞやという方は、大内の名所めぐり その3をご覧ください。

 市街地からほど近く、簡単に訪れることのできる自然景勝地です。近隣には、目歯頭(めはず)通り沿いに数多くの石造文化財が残っていますので、あわせて探訪されてはいかがでしょうか? 花火や扇山の野焼きを眺めるのにも適した場所です。

 

9 昔の実相寺山(絵葉書)

 手持ちの絵葉書を掲載して、実相寺山の由来を説明します。

 この風景は石垣側からの眺めです。まだ仏舎利塔はありません。別府八景(後述)にも選ばれた自然景勝地です。昭和40年代まで、周辺は全くの農村地帯でした。絵葉書にも棚田が写っています。キャプションの「実相山」は「実相寺山」の間違いです。

 この山の名は、麓に実相寺というお寺があったことに由来します。ところがこのお寺は、石垣原(いしがきばる)の合戦のときに救護所かつ遺体安置所とされ、血で穢されたとして焼き払われました。その後、鶴見北中(きたぢゅう)(※)のうち今の地名でいうところの火売町に移り再建されました。鉄輪線沿いに、今も残っています。

 

○ 地名「北中」「原中」について

 大字鶴見、旧の鶴見村は原中と北中に大別されます。この「中」と申しますのは、たとえば国東町は大字赤松でいうところの「赤松上分」と「赤松下分」の「分」と同様に、複数の部落の集まりを単位とする名称であり、大字の下位区分です。原中という呼称は忘れられてきていますが、北中については、その一部が「北中」という町名(通称地名)として残っています。前項にて※印を付した「鶴見北中」は、町名としての北中を内包する広域的な地名です。

 

○ 別府八景と別府三勝について

 実相寺山が選定された「別府八景」とは、昭和5年に選定された別府近郊の景勝地です。当時の観光案内で盛んに宣伝され、別府観光の大躍進に一役も二役も買いました。その内容は「高崎山」「浜脇公園」「乙原・観海寺」「鶴見ヶ丘」「実相寺山」「柴石渓流」「日出海岸」「由布院」です。当時の別府市域(別府・浜脇地区)にこだわらずに近郊の自然景勝地を広く選定しており、まさしく「大別府」の感があります。旧浜脇公園の廃止や、高崎山や日出海岸、由布院が別府観光の範疇ではなくなったことなどにより、残念ながら「別府八景」の呼称は下火になっています。

 また、別府八景に類似するものとして「別府三勝」もあります。こちらは「仏崎」「内山渓谷」「志高湖」の3か所です。内山渓谷や仏崎の様子が昔とは変わってしまったこともあり、「別府三勝」の概念も忘れられています。しかしながら、別府市内には今なお自然景勝地がたくさん残っています。温泉や地獄めぐりのついでにでも、いろいろな自然景勝地を訪れて自分なりの八景三勝をさがしてみるのもきっと楽しいと思います。

 別府八景と別府三勝の新民謡がありますので、ここに掲載しておきます。今回の記事に関係のある部分を太字にしました。

「八景三勝」
鶴見丘
〽鶴見の裾野なだらかに 海に傾き伸ぶところ
 見渡す限り果てもなく 広がる樹海美しや
実相寺山
〽常盤の松の色深き ここ翠巒の実相寺
 偲ぶ昔は慶長の 古刹に宿る秋の月
観海寺・乙原
〽春は桜の咲くところ 秋は紅葉の照るところ
 長め豊かに開けつつ 遠き予州も指呼の内
柴石渓流
〽山の迫の蝉時雨 浴びつつ来ればすがしくも
 青葉若葉のそよぎつつ 夏も涼しきお湯の里
由布院
〽登る大由布浸るお湯 探る勝地の金鱗湖
 夏は朝霧慕いつつ 憬れ来たる人絶えじ
高崎山
〽姿優しく麗しく 海に臨みて聳え立つ
 史に名高き四極山 今は絵となり歌となる
浜脇公園
〽海を控えて美しき 山を背負いて静かなる
 描ける如き湯の街を 一目見下ぐる景勝地
日出海岸
〽月に砕くる金銀波 日出の浦曲の真静けく
 渚に続く老松に 昔を偲ぶ城の址
内山渓谷
〽渓流の 或いは瀬となり滝となる
 流るる辺り 照らうもみじ葉
志高湖
〽朝晴れの 空を映して澄み通る
 高原の湖 細波もなし
仏崎
〽人々に 追い越されつつ子を連れて
 登るなりけり 桜咲く丘

 

「別府八景」
高崎山
〽速見浦から高崎見れば 昔恋しい城の跡
〽お山粋だよ霞のベール かぶるあしたの艶姿
浜脇公園
〽海の眺めは金比羅山よ 山に花咲きゃ里も花
〽里に日暮れて一風呂あびりゃ 顔もほんのり桜色
乙原・観海寺
〽滝の乙原湯の観海寺 二つ揃うて花の山
〽花を観ながら四国も一目 人目忍ばぬ二人仲
鶴見丘
〽花と月雪ゃ鶴見ヶ丘よ 続く松原海ゃ霞む
〽かすむ人波浮き立つ歌劇 ジャズで花咲きゃいつも春
由布院
〽豊後富士から緋染めの紅葉 靄に見下ろしゃ由布の里
〽里の湯の香に浮世を離れ 粋な世帯がしてみたい
実相寺山
〽何故にそよ吹く実相寺山に あたら湯靄を散らす風
〽風の便りに色よい返事 今は松山待つばかり
柴石渓流
〽渓の柴石音なす滝湯 落ちて流るりゃ花の影
〽花に夢見た寝覚めの姿 流す浮名も湯の煙
日出海岸
〽日出は城下名に負う鰈 寺にゃ蘇鉄よ秋は月
〽飽かぬ眺めの別府湾抱いて 夢かうつつか肘枕

 

「別府三勝」
仏崎
〽宵の夜桜灯と灯が続きゃ 空も茜の花の丘
〽花の色香に焦がるる思い 聞いて給れや仏崎
志高湖
〽志高かわいや鶴見と由布が 姿映して水鏡
〽水は溢れて谷間を縫うて 里の娘の化粧水
内山渓谷
〽鶴見扇山朝日に映えて 紅葉色増す渓の奥
〽渓を辿りて燃え立つ色に 焦がれ泣くのは誰じゃやら

 

10 旧今井地獄(絵葉書)

 実相寺山から元来た道を後戻って、原の交叉点を直進します。しばらく道なりに行くと、「今井」のバス停があります。ここは大字鶴見のうち原中は今井部落で、今は竹の内に含まれます。昔、この辺りは地獄の様相を呈して、地名から「今井地獄」と呼ばれていました。泉源の整備により昔の面影はなくなっておりますけれども、泉源から濛々と湯煙の立ち上るばかりか側溝からも湯気が漏れています。

(別府名所)今井地獄

 こちらは、血の池地獄や海地獄などのように園地を整備して観覧料を徴収していたタイプの地獄ではありません。しかし絵葉書にもなっていることから、別府名所としてそれなりに知られていたと思われます。石ころの転がる荒れ地から熱蒸気が噴出し、そのすぐ近くで男性が見物しています。

 

○ 今井周辺の今昔

 今の地名でいうところの大畑(おばたけ)、竹の内あたりは、昭和40年代より宅地化が進んで今では民家が建て込み、昔の面影はほとんどなくなっています。かつては全くの農村地帯で、一面にゆるやかな段々畑が広がっていました。昔は「鉄輪線から扇山の裾が見えた」と申します。その当時、地獄は農家にとっては迷惑極まりないものだったそうです。それと申しますのも、田畑に地獄が近接しておるものですから、概ね作柄がよろしくなかったのです。大昔の鉄輪地獄地帯も同様で、「地獄荒れ」という言葉もありました。

 また、この辺りでは井戸を掘ってもお温が出るので、飲料水や調理に使う水の確保に往生される方も多かったと聞きました。川水にも地獄や温泉の落水が混じっており、小川からも湯気があがるような始末です。水源地が家から離れており、子供の頃から水汲みを手伝うたとお年寄りが話してくれました。その方曰く、天水桶(雨水をためておくもの)を利用していた家もあったそうです。ところが天水桶というものはぼうふらが湧いたりして衛生面に問題があり、それでも煮沸してその水を利用したりしていたとのことです。戦後になりますと徐々に改善され、今は上水道も完備されておりますので水の苦労も遠い昔の思い出話です。今井地獄はなくなってしまいましたが、地域の方の生活が改善されてよかったと思います。

 

11 竹の内の石造物(扇山団地そば)

 今井バス停から数えて2つ目の角を左折します。突き当りを左折して、左側にジュースの自動販売機のある角を右折して扇山団地方面に上ります。少し行けば、右側に2基の石塔と石祠が並んでいます。旧来の地名が分からなかったので、現行の広域的な地名を項目名にしました。

 吉野桜が大きく育ち、花の時季はよい雰囲気です。

梵字)大乗妙典一字一石塔

 どっしりとした、立派な塔です。基壇も、不整形ながら重厚感があってよいと思います。道路の反対側は墓地ですから、それに付随するものでしょう。

 右の石塔には銘がありません(墨で書いていたのが消えたのか、初めから銘がなかったのか定かではありません)。その形状から庚申塔であろうと判断しました。

 左の石祠は中が空になっています。こちらも銘がなく委細が分かりませんが、中に仏様が収まっていたのではないでしょうか?

 

12 竹の内の石仏(セブンイレブンそば)

 前項で紹介した石造物から自動販売機のところまで後戻って左折し、ずっと道なりに行きます。横断道路に出る直前、道路端の木森の中に2体の石仏が並んでお祀りされています。道路から見えるのですぐ分かると思います。車を停められないので、お参りしたいときはこの道中にある「大平山ふれあい広場」から歩いてくるとよいでしょう。こちらも旧来の地名が分からないので、広域的な地名をとって、区別のためにすぐそばの店舗名を付記しました。

 左のお観音様は基壇を段々にして、蓮華坐の上にのっています。にっこりと笑うたお顔が優しそうで、親しみを覚えました。不勉強ながら、像容から推して不空羂索観音様ではあるまいかと考えます。8臂の腕の表現など、半肉彫りならではの制約がありますので、どうしても丸彫りの仏様に比べますと無理が生じてしまいます。でも、なるべく不自然にならないように工夫された表現ですし、細かいところまでよう行き届いた作風であると感じました。

 右はお弘法様でしょう。お弘法様と何らかの仏様が対になっているのは、新四国の札所でよう見かけます。でもこちらは、それらしい文言の銘が見当たらなかったので詳細は分かりません。お供えにあがったジュースの数が、信仰の篤さを物語っています。

 

13 昔の紺屋地獄(絵葉書)

 横断道路に出たら右折して、「坊主地獄先」交叉点を左折し国道500号を明礬方面に進みます。しばらく行けば右側に、泥湯で有名な「別府温泉保養ランド」があります。この保養ランドこそが、今の紺屋地獄です。入口の建物から露天の泥湯(狭義の紺屋地獄)までの長い通路に、昔の面影があるそうです。しかし私は中に入ったことがなく今後も利用することはまずないので、今の様子についての委細はわかりません。ここでは昔の紺屋地獄を紹介します。

(別府名所) 明礬紺屋地獄

 奥の池から湯気が立ち昇っています。これが、今の泥湯(露天)です。当時は、泥湯に入るような場所ではなく、景勝地としての位置づけであったと考えられます。戦前までは、血の池地獄や海地獄、鶴見地獄などと比肩する、別府の主要な地獄に数えられていました。

 なお、新民謡「別府郊外八湯」の中には次のような文句があります。
〽離れられない二人の仲よ 紺屋明礬いつまでも
これは、紺屋・明礬に「今夜」と「明晩」をかけた洒落文句です。

 

○ 別府絞りについて

 紺屋地獄の絵葉書を見ますと、東屋付近に綱を張って、反物を干している様子が見てとれます。これは地獄染めで、紺屋地獄の泥で染めますと紺色に染まったそうです。これが「紺屋地獄」の由来です。紺屋地獄以外でも、血の池地獄などでも地獄染めが行われていました。豊後の絞り染めは有名でしたが明治以降下火になる中で、別府の絞り染めは「別府絞り」として、昭和の中ごろまでは「縫い針」「竹細工」「ざぼん漬け」「つげ細工」「絵葉書」などと並んで、別府を代表する土産物として著名でした。しかし自宅で浴衣を仕立てたりすることがなくなったためでしょうか、だんだん下火になってしまい、今では知名度が低くなっておりますのは残念なことです。今も生産されておりますので、郷土の伝統技法と名産品がこれからも長く残り、全国の方に親しまれることを願います。

 

14 昔の明礬温泉(絵葉書)

 紺屋地獄をあとに、道なりに進んでいきますと明礬温泉の中心部に入ります。こちらは別府八湯の中でももっとも山手に位置する温泉郷で、旅館や立ち寄り湯が種々ある中で、近年は地獄蒸しプリンが有名になりまして観光客が盛んに訪れています。明礬温泉といえば「湯の花小屋」で、昔より数が減ったような気がしますけれども、今なお多数の湯の花小屋が並んでおり特異なる景観をつくりだしています。ここでは昔の絵葉書を紹介します。

別府温泉名所) 明礬湯の花採集場

 この絵葉書は戦前のものですが、湯の花小屋の造りは今もこれと同じです。昔ながらの伝統技法により採集された湯の花は、土産物店などで買い求めることができます。このシリーズの「その2」で申しましたように、旧の鶴見村(今の大字鶴見)は森藩の飛び地でした。森藩が最初に明礬製造に成功したのは照湯です。その後主要な生産場所が明礬温泉に移りまして、今は明礬温泉から湯山にかけての広範囲で湯の花小屋を見ることができます。この辺りは硫黄の香りがものすごく、苦手な方は辟易されるかもしれませんけれども、別府を訪れる際にはぜひ体感していただきとうございます。

 なお、亀の井バスの名所案内では次のように紹介されています。
「左の村は村人に 鳥の湯跡と唱えられ 昔は病める鶴などの 谷の温泉に集い来て 湯浴みせし地と申します」

 

15 明礬のお弘法様と大乗経王塔(明礬グラウンドそば)

 明礬温泉中心部の手前、道路が右に急カーブしているところを左折(直進)します。薬師寺を過ぎて道なりに行けば、右にグラウンドが、左にはトイレのある小さな公園があります。その公園の隅にお弘法様がひっそりとお祀りされています。

 薬師寺に関係があるのでしょうか。または、昔はこの辺りに堂様か何かがあったのかもしれません。下部が埋もれているのが気にかかりましたが、保存状態は比較的良好です。

南無大師遍(照金剛)

 下部が埋もれていますが、残部から弘法大師真言であることが分かります。県内各地でお弘法様を見かけます。特に国東半島から速見地方にかけては弘法大師信仰が非常に篤く「おせったい」やお弘法様の盆踊りなど広く行われましたので、路傍のお弘法様を見かける頻度が高いように思います。しかしこのように、石塔の様相を呈したお弘法様は珍しいのではないでしょうか。何度か見たことはありますが、多くはないと思います。

大乗経王塔

 蓋し一字一石塔でしょう。

 

16 内山の市恵美須様

 お弘法様にお参りしたら、先に進みます。この道は林道で、途中より砂利道になり雨が続くと路面が荒れがちで、しかも幅員狭隘の箇所もあります。この先には野湯「蛇ん湯」と「鍋山の湯」がありますので、休日など自動車が思いの外通ります。運転に用心する必要があります。

 次第に高原地帯の様相を呈して、扇山の裏手に回り込んでいきます。夏草の時季、秋、それぞれようございますけれども、わたしの一押しは野焼きの後です。いちめんが真っ黒焦げになっているのは、一見して美しくないかもしれません。けれどもその黒焦げの野面に、あれやこれやと新芽が出てくるのを見ますと、春の訪れが感じられます。扇山の麓の桜も咲いています。はるか向こうの佐賀関の大煙突は霞のベールの内にて、別府湾ののどかな風景を楽しむのにもってこいの場所です。

 景色を楽しみつつ、慎重に運転して先へと進みますとすぐ二股になっています。直進すれば鍋山の湯、塚原越(車不可)経由で塚原地獄へ、左折すれば市恵美須様、蛇ん湯、内山渓谷へ。左折して道なりに行けば、蛇ん湯よりも手前の道路右側に鳥居が立っていますのですぐ分かります。車を停める場所もあります。

恵美須神

 この鳥居は大正15年の造立です。この山中にあっても立派なシメをかけてあり、信仰の篤さを物語っています。拝殿はなく、石祠のみの小さな神社ですけれども、境内にはつつじを植えるなど整備が行き届いていました。

 このように、石祠のぐるりには石垣をめぐらして聖域を形作っています。左側に立つ看板には「恵比須神社」とあります。いろいろな用字が通用しているのでしょう。この看板が魚を模しているのもおもしろいではありませんか。

 こちらは小倉や明礬など近隣地域の方はもとより、沿岸部の漁村(向浜など)の方々からも非常に信仰が篤く、つい最近まで大漁旗が供えられていたそうです。『鶴見七湯迺記』にこの神社のことについて詳しく記されているので、引用します。

~~~『鶴見七湯迺記』より

照湯の温泉より河上三町ほどのぼりて秡川と云う處あり。大平山北のふもとにして川より北のかたには平らかなる野つら広きこと也。いにしへ鶴見社に位田の神領ありて、大社のとき此所にして年々夏越の御祓有りしにより秡川の名有りとかや。其の頃は三日の市有りて、遠近よりも商客あまた集り賑ひけるよし。此川辺に其の市をなせし時の市ゑ比須の石躰有りて、今も春秋二季の祭は小倉村里正佐藤信承が家より怠なく執行する事也。且つ此の市蛭子に祈るときはよく海漁有りとて、之の速見浦々にて網引の獲もの少きときは立願をなすに、必その験有りけると也。其の時は獲もののうちにて大なる魚を一尾、是に市恵比須原神酒を取添て長たる漁者、この市蛭子にもうでて石躰の前にそれを供へ、大宮司家に頼み祓を奉る也。夫より大宮司もろともに小倉にくだりて、佐藤が家に件の酒と魚とを出しぬれば、則あるじして是を開き侍ること先例のよし也。

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 お手水も魚の形です。向浜あたりの方が奉納されたのではないでしょうか。

 ところで、こちらは沿岸部の村々から遠いので、住吉神社の境内に御分霊を勧請したことがあったそうです。しかしその石祠にいくら祈願しても全く効き目がなく、やむなく内山の市恵美須様(元宮)まで登って祈願するとたちまち大漁になりました。それで、昔の人は「えべっさんな内山が好きで、すぐ舞い戻る」と言ったそうです。


17 昔の内山渓谷(絵葉書)

 市恵比須様から先に進み、「蛇ん湯」の下り口あたりからが内山渓谷です。こちらは戦前まで、別府近郊の景勝地として観光客やキャンプ客でたいへん賑わいました。「別府三勝」にも選ばれています。しかし道路が崩れて自動車で近寄るのが難しくなったのと、山が荒れ、観光地としては下火になって久しく今ではその名前も忘れられつつあります。ここでは昔の絵葉書を紹介します。

別府三勝 内山の渓谷

 モノクロの絵葉書だと、その景勝の真価が分かりづらく感じます。山が荒れる前の様子が今ひとつわからないので、これとは違う絵葉書が見つかれば買い求めたいと思います。

 

今回は以上です。次回は国東町の記事を書く予定です。雨が続き、たまに晴れたかと思えば暑いこと暑いこと、とても名所めぐりをするような気分になれません。しばらくは過去の写真を使った記事が続くと思います。

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