大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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大分の名所めぐり その3(大分市)

 今回から2回に分けて、大字上野・古国府(ふるごう)付近のうち、旧岩屋寺に関係のある名所旧跡を紹介します。

 さて、旧岩屋寺は西暦538年、日羅により創建されたといわれています。往時は大伽藍が軒を連ねていたものの衰微しましたが、今は円寿寺として再興しています。元町石仏や岩屋寺石仏も旧岩屋寺関連の史跡です。旧岩屋寺の往時の寺勢たるや、ものすごいではありませんか。

 現在、旧岩屋寺跡の大部分は宅地などになっていますが、円寿寺や龍ヶ鼻周辺の石造物・磨崖仏を巡るだけでも往時の面影を偲ぶことができます。磨崖仏のほか多種多様な石塔がおびただしい数残っており、夫々に個性があります。過去に紹介した大字南太平寺周辺の霊場・神社とあわせて巡拝するかたでに見学してまわると、楽しい1日になると思います。みなさんに探訪をお勧めいたします。

 

7 円寿寺(○ 町名「六坊」の由来)

 六坊南町は「芸短大北」交叉点から上野の台地に上がります。短大の横を通って台地を縦断し、古国府への下りにかかる手前、右側に円寿寺の山門があり、その下には石幢が立っています。道路端なのですぐ分かります。

奉造立六地藏菩薩一天●●國土豊
饒城府寧靜寺中隆盛而此尊者拔苦
與樂以請願來五濁世救衆生●漏●●●
之航●茲當門古國府律院遠村隣里●
(以下略)

 状態がすこぶる良好です。幢身・中台・笠は六角形で、龕部は八角形になっています。中台に12枚の花弁を表現しており、これは六角の角々と各面に1枚ずつというわけですが、幢身からの広がりは角を立てずに丸っこく仕上げておいて、上端は六角形になっています。この丸っこい部分が、八角形の龕部とよう合うているように感じました。笠は地厚で内刳りは浅く、へりには垂木状の装飾が見てとれます。

 龕部には8体の像が彫ってあり、六地蔵様と二王様です。夫々の像はやや形式的なところがあります。六地蔵様はめいめいに所作を違えず一列に合掌し、簡易的な表現の蓮台に立ちます。肩のラインなど丸く表現されており、優しそうな雰囲気が漂うています。一方で二王様はことさらにいかり肩で、ものものしい雰囲気が漂うているではありませんか。いずれも、たいへん分かりやすい表現です。

 よう見ますと龕部の質感がほかと異なるような気がしますので、もしかしたらこの部分は後補かもしれません。

 石段を上らずに少し通り過ぎれば、スロープもあります。そのスロープの上がりはな、高い石垣の上に宝塔が立っています。塔身の梵字や、格狭間(各面の2区画に分かつ)までよう分かりました。

 説明板の内容を転記します。

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円寿寺

 11世紀の古文書に「石屋寺」と記載され、かつては大分市の古国府にありました。大友家第6代の貞宗が現在地に移し、名を円寿寺と改めたとされています。
 江戸時代には、当時の住職 寛佐法印と交流があった、徳川家康の孫 松平一伯(忠直)が幾度も訪れるなど、要人と親交がありました。
 境内には、井路開発に尽力した府内藩主の日根野吉明公廟があり、釘を1本も使用していないことでも知られています。寺宝には、県指定有形文化財の絹本著色柿本人麻呂図をはじめ、大友家に関係する文書などがあり、今日まで伝えられています。

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 一点補足しますと、現在地に何もなかったわけではなくて、元々この場所は岩屋寺の東井坊であったそうです。渡辺克己著『大分今昔』(※)の記載内容によれば、寺勢が衰微したのち、本拠地を古国府から旧六坊(東井坊・仏性坊・法性坊・実相坊・宝幢坊・幽栖坊)のうち東井坊に移し、紆余曲折ののちに再興して今に至るようです。冒頭の写真をご覧いただくと分かるように、境内の環境整備が行き届いています。ありがたく参拝・見学させていただきました。
※『大分今昔』は大分県立図書館などに蔵書があるほか、ウェブサイトNAN-NAN(外部リンク)でも閲覧できます

 なお、旧六坊は上野の台地の東半分を占めていたそうで、これは町名「六坊」の由来にもなっています。

 スロープを少し上ると、横に仏様が並んでいます。舟形光背と、たっぷりとした蓮台が相俟って優美な雰囲気を醸し出しています。一部には彩色も残っています。

 石垣の上、鐘楼のところには大きな宝篋印塔が立っています。塔身が2階建てになっている造りで、隅飾りがことさらに大きく、外側に広がっている形状から推して江戸時代以降のものであろうと推量しまして、実際に間近で確認しますと、下段の塔身側面の銘文の中に弘化4年の銘がありました。より古い時代の宝篋印塔のどっしりとした感じが薄まり、全体的に華奢な印象を覚えます。装飾性に富んだ優美なデザインが素晴らしく、優秀作であると感じました。大分市内には、このように塔身が2階建てになった大型の宝篋印塔がいくつか残っています。以前、稙田地区は雄城公民館の坪にある宝篋印塔などを紹介しました。ほかにも数基見つけていますので、また折に触れて紹介していきます。

青面金剛

 この庚申塔は碑面が荒れ気味ですが、銘はよう残っています。もしかしたら、後から彫ったのかなとも考えました。素朴な字体です。

大乗妙典一字一石塔

 下部の蓮の花の彫り口がずいぶんくっきりとしています。余談ですが、銘の「典」の字はいちばん下の横棒が左右に突き出ない字体になっています。この字体はしばしば石造物の銘で見かけるほか、手書きでもこのように書く方もときどきおいでになるかと思います。

 この宝塔は、塔身が立方体に近い形状です。角を落として丸くしてありますけれども、明らかに四面をとってあり、そのめいめいに梵字を大きく彫り込んであります。首部が目立ち、古式床しい感じがいたします。笠の軒口を二重にとってあるところや、露盤および基壇の格狭間も恰好がよいと思います。それだけに、相輪以上が明らかに後補であるのが惜しまれます。

 説明板の内容を転記します(より読みやすいように一部改変しています)。

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圓壽寺(岩屋寺)の由来

 この寺は「古刹総社山圓壽寺」、古くは南崖下の岩屋寺石仏を境内にもち、最初の本堂はこの岩屋寺石仏から元町石仏までの広大な寺域内にあった。『宇佐大鏡』の、荏隈勝津留に関する天喜2年(1054)および康平2年(1059)の条に寺名が記入されてある。藤原時代(11世紀)中頃より何百年かさかのぼった開創と伝えられている。大友貞親が嘉元2年(1304)に、近衛関白兼経の末子 道勇和尚を招請して中興の祖とするとともに、ここに豊後国総社があったことから総社山の山号がつけられたという。

 さらに大友貞宗(6代)が、徳治2年(1307)に現在地に移して圓壽寺と名づけた。貞宗公は石仏を尊び大友家の祈祷寺、菩提寺とした。六つの本堂(六坊)が造られ、その庇護のもとに栄えた。

 明暦元年(1655)、初瀬井路を造った江戸時代の藩主 日根野織部正吉明により、将軍家菩提所の寺格がつくられた。葵の紋所となり、下馬札が寺門に建てられた。文久元年(1861)には大給松平近説により現在の本堂、鐘楼、山門が建てられた。千数百年の法灯は現在でも秦順道住職が厳格に守り続けている。この寺には県指定文化財柿本人麻呂図」や「六枚屏風」などがあり、宝物の数は大分市第一の寺であろう。境内は児童施設としても活用されている。

平成22年10月吉日

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 本堂左側に立っている宝塔です。相輪の長さのためか、台石の高さのためか、すらりと背が高くて格好のよい塔です。火焔やその下の蓮台など、細かい部分まで丁寧に表現されています。露盤はめいめいを2区画に分かち連子模様が彫ってあり、基壇の格狭間とは対になっていません。基壇は縁取りを二重にしてあり、そのかっちりとしたところと優美な曲線の格狭間とが好対照を描きます。塔身は茶壺型で、一面に櫛の目のような連子模様が施されています。これは珍しい事例ではないでしょうか。細部まで行き届いた優秀作であると感じました。

 

○ 笠和郷の雨乞い歌と新民謡「豊後よさら節」について

 円寿寺の敷地内に、笠和郷の雨乞い歌の碑が立っています。

 碑には次のような文句が記されています。

〽柴戸山 降りくる雨に しょぼぬれて
 夜さら寒いもんじゃ 雨じゃもの
〽柴戸山 いかにかねつけ しゃんしゃらめけど
 夜さら寒いもんじゃ 雨じゃもの
〽柴戸山 みの着て通え 笠着て通え
 にわかに雨の 降り来るに

 これは寛佐法印の作によるものといわれています。今や節回しは全く伝わっておらず、文句のみが残っています。柴戸山と申しますのは、音韻の類似性から推して四極山(しはつやま)、つまり高崎山のことでしょう。笠和郷とは上野から西大分、高崎山、内成あたりまでが比定地です。

 ところで、この文句をご覧になって、似たような唄を聴いたことがある、唄ったことがあるという方もおいでになるかと思います。それは昭和38年に発表された新民謡「豊後よさら節」です。この唄はたいへんな人気を呼び、市丸の吹込みでビクターレコードからドーナッツ盤も発売されました。

 この「豊後よさら節」は、上田保市長(当時)の発案によるものです。大分市内には「猿丸太夫」「三勝」などの盆踊り唄や、田植唄・池普請唄などの労作唄といった俚謡はありましたが、いずれも地域ごとに節が違ったりしていて、その土地々々の伝承でした。市を代表する「民謡」がなかったのです。それで、郷土の歌を作ろうということで、試行錯誤のすえ笠和郷の雨乞い歌を元にして、松平忠直を主人公にした内容にするというアイデアに至ったそうです。このアイデアをもとに「大分作詩グループ」により作詞され、それに杵屋正邦が節をつけました。

新民謡「豊後よさら節」
〽お蘭さま いかにかねつけ しゃんしゃらめけど
 夜さら 寒いもんじゃ 雨じゃもの
 「これも山弥のヨイトコセ
〽お殿さま 降り来る雨に しょんしょぼ濡れて
 夜さら忍びの 闇じゃもの
 「これも 山弥のヨイトコセ
〽お糸さま 夜毎焦がれて 眠らず待てば
 夜さら 長いもんじゃ 秋じゃもの
 「これも 山弥のヨイトコセ
〽お殿さま 蓑着て通え 笠着て通え
 夜さら 離れぬ 仲じゃもの
 「これも 山弥のヨイトコセ

 文句をご覧いただくと分かるように、ありふれた「○○音頭」とか「○○小唄」に多々見られるようなお国自慢に終始したものとは一味違います。「お蘭さま」と「お糸さま」は松平忠直の寵愛を受けた侍女で、「お殿さま」とは松平忠直のことです。「しゃんしゃらめく」はめかし込むといった程度の意味です。

 各節末尾についた「これも山弥のヨイトコセ」の意味が分かる方も、だんだん少なくなってきていると思います。昔むかし、萩原に山弥(さんや)長者という分限者がいて、この人は所謂成金でしたから家の栄えに物を言わせて驕りを極め、お殿様に失礼な態度をとって一族郎党死罪になったと言われています。そのときのお殿様の怒りがものすごく、親類縁者をたどっていとこ、はとこ、みいとこ、よいとこ(4代上同士が兄弟姉妹)まで処刑されたと申しまして、大変な事件になった云々の逸話があります。力仕事をするときの掛け声「ヨイトコセ」が「よいとこ」に通じることから、大分地方はおろか別府湾沿岸などかなり広範囲に亙って、沖仲仕の荷揚げ作業をはじめ各種普請、また重たいものを抱えるときなどに、ただ「ヨイトコセ」と掛声をかけるのではなく、枕詞のように「これも山弥のを」をつけて「これも山弥のヨイトコセ」というのが流行ったのです。この種の言い回しは、昭和末期にはまだお年寄りの間で残っていましたが、世代がかわって、今では全く耳にしなくなりました。

 豊後よさら節は、なんといっても典雅な節回しがよいし、古事に由来する文句もようございます。しかも消えゆく昔風の言い回し「これも山弥のヨイトコセ」まで入っており、郷土文化の伝承にも一役買う唄です。新しく輪踊りの振りをつけるなどして、さらなる普及が望まれます。 

 

8 鐙坂の石造物

 円寿寺のところから古国府方面に行きますと、掘割の下り坂になります。これは自動車を通すために掘り下げて傾斜をなだらかにしたものです。改修前は上野の台地の端まで平坦に進み、そのへりを急坂で下っていたそうです。この坂を鐙坂(あぶみざか)と申しまして、昔は大道の堀切峠(大道トンネル上の旧道)と並ぶ重要な道であったそうです。この鐙坂沿いに、岩屋寺関連と思しき石造物が多々残っています。ちょうど、円寿寺から岩屋寺石仏に至る道沿いですのですぐ分かります。

 鐙坂沿いに石仏が多数並んでいるのですが、残念ながらそのほとんどが藪に埋もれていました。そのためうまく撮影できませんでしたので、紹介はこの石幢1基のみにしておきます。藪に埋もれていますが保存状態はすこぶる良好です。幢身の銘文もよう残り、その中に「惣社山圓壽寺」の文言があります。幢身と龕部、笠は八角形、中台は矩形です。龕部は大きめで、お地蔵様の彫りも丁寧で素晴らしい。

 鐙坂を下ったところの左側の角に立つ石塔です。石幢や宝篋印塔などの部材の後家合わせと思われます。ややちぐはぐな感じはいたしますけれども、なかなかどうして、堂々とした立派な塔ではありませんか。

 ここから先も岩屋寺石仏まで、いろいろな石塔が並んでいます。一応、この項で紹介するのはここまでとします。この先は別項を立てて、岩屋寺石仏とあわせて次回にまわします。

 

今回は以上です。次回はこの続きを書きます。

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