大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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野津市の名所めぐり その1(野津町)

 先日、久しぶりに野津町を訪れて、野津市(のついち)地区と南野津地区を巡りました。興味深い文化財を多数見学できましたので、野津市地区・南野津地区の順番で紹介していきます。あわせて7回程度になるかと思います。

 さて、野津市地区は大字野津市・原(はる)・宮原(みやばる)・都原(みやこばる)・老松(おいまつ)からなります。この地域では石幢や庚申塔が次から次に見つかりました。まずは2回に分けて、大字老松は芝尾部落の文化財・名所旧跡を紹介します。道順が分かりにくいので、なるべく詳しく説明していきます。初回は芝尾部落の北を通る旧道「殿様街道」の周辺をめぐります。

 

1 芝尾入口の石仏

 国道10号、日当(ひなた)三叉路から青看板に従って国道502号に入ります。道なりに行って、コスモ石油のところを右折します。しばらく進むと道路沿いの人家が途絶えます。左に山裾、右には田んぼを見ながら進んでいけば、左側に十分な広さの駐車スペースがあります(ほかにそれらしいところがないのですぐ分かります)。この辺りからが芝尾部落です。方々に文化財が点在していますが車の入らないところも多いので、歩いてまわるとよいでしょう。

 駐車場所から少し進めば、左側に「芝尾地区案内板」が立っています。

 案内板のすぐそばには、大きな碑銘の横に仏様がお祀りされています。お参りをしたら案内板の辻を左折して、右の坂道を上っていきます。軽自動車なら問題なく通れる道幅がありますが、離合困難の区間が長く続きます。歩いた方がよいと思います。上り口さえ間違わなければ、茶屋跡までは一本道なので特に迷うような場面はありません。

 

2 芝尾の茶屋跡

 先ほどの辻からしばらく行くと、芝尾部落の中心部から離れた山ぎわに民家がぽつんと建っています。このお宅が茶屋跡とのことで、廃業されて久しいようですが、殿様街道が盛んに利用されていた時代にはお客さんも多かったことでしょう。

殿様愛用の乗馬踏台石

 今は一般の民家になっているお茶屋跡の道路ぎわのところに、このような石が置いてあります。この場所で休憩したお殿様が、また馬に乗るときにこの石に足をかけたということでしょう。

 振り返って撮った写真です。いま、左奥から歩いてきました。この場所で三叉路になっています。ひとまず直進して左手前(進行方向から見れば右奥)に進みます。

 

3 芝尾の庚申塔(茶屋そば)

 茶屋の三叉路を右に進んですぐの場所で1基の庚申塔を見つけました。刻像塔が、道路の右側に立っています。村(芝尾部落)の入口にあたる場所にて、おあつらえ向きの場所であると感じました。芝尾部落内にはほかの場所にも庚申塔があります。小さい地名が分からないので、区別のために項目名には「茶屋そば」と付記しました。

青面金剛6臂(3眼)、ショケラ

 主尊とショケラしか彫っていないのに、たいへん豪勢な感じのする大迫力の庚申様です!しかも、舟形の塔身のへり(一部のみ)と主尊の鼻を打ち欠いているほかはほぼ完璧な状態で、細部までそれはもう細やかに表現されているのがよう分かります。

 まず気が付いたのは、細やかな彩色です。一部、白くなっていて元の色が損なわれていますけれども、袈裟懸けの衣紋や御髪、おつば、弓などに丁寧に朱を施しているのが分かりました。そして主尊の御髪の異常なるボリューム感じと申しましたらどうでしょう。大きな耳を出して鬢も後ろになでつけてあるのに、後ろでうちわ状に広がっており、その下端は首にまで達しています。これは炎髪と火焔光背とが一体化になった表現なのかもしれません。三つ眼のお顔は、お耳の大きさもそうですが打ち欠いた三角鼻、尋常ならざる曲がり方のヘの字口など、なんだか不気味な雰囲気が漂います。

 そして、この像の表現で最も優れているのは腕の表現であると考えます。6本の腕の収まりが自然で、付け根が段違いになっていません。曲がり方や太さ、長さも申し分ないと思いますし、指の握りに至るまですこぶる精確、しかも角を立てずに丸っこい彫りでなめらかに処理してありますので、ほんに写実的です。めいめいの手で持った宝珠や三叉戟、弓、矢も丁寧に表現されており、大きさなどまるで違和感がありません。脚も自然で、衣紋の裾まわりの処理など自然なたるみがうまく表現されています。ショケラはたぶさを鷲掴みにされて吊るされているのに、安らかなるお顔で合掌をしています。細かい部分ですが、その表情は容易に読み取れました。

 紀年銘が見当たらず、いつ頃の造立かは分かりませんでした。

 振り返って撮った写真です。山裾に基壇をこしらえてお祀りされています。塔の向きから推して、作の神というよりは、賽ノ神としての信仰であったのでしょう。今やこの道を通る人は稀になりましたけれども、庚申様は昼も夜も、旧街道を見下ろして睨みを利かしています。茶屋跡と庚申様、いかにも昔の道らしい風景が心に残りました。

 

4 殿様街道の切通

 庚申塔をあとに、殿様街道を通って板碑へと向かいます。殿様街道と申しますのは臼杵城下と野津市をつないでいた旧往還です。車道化などによりその全てが残っているわけではありませんが、旧都松小学校あたりから一ノ瀬(臼杵市大字武山)までは昔の道筋がよう残っています。その一部を辿りながら石造文化財を訪ねましょうというわけです。途中に枝道もありますが、要所に木製の道標があるので特に迷うような場面はありません。ただ、一か所だけ道標が倒れている二股がありました。そこは右の道に進みます。

 このように道幅は広く、途中に浅い掘割もあります。この辺りには四輪の轍があり、山仕事の軽トラックが通行するようです。ただ、四駆でなければこの坂は上らないでしょう。昔のままではなくて、軽自動車が通れる程度に拡幅されている可能性があります。

 拡幅されているかもしれないとはいえ、いかにも昔の道らしい雰囲気があります。何でもない風景のようでも、その歴史を知った上で歩きますとたいへん印象深うございました。

 この先で、右側に芝尾板碑の道標があります。

 

5 芝尾の板碑(殿様街道沿い)

 道標に従って旧道から右に折れて、細い踏み跡を辿ればほどなく板碑のところに出ます。後ろから近寄るような形になります。昔は正面から上がってくる道があったのでしょう。なお、芝尾部落内にはほかにも板碑があるかもしれないので、項目名に「殿様街道沿い」と付記しました。

 これは素晴らしい。一般に、板碑と申しますと左右が直線で、概ね長方形の形状に加工されています。ところがこちらは下の方が幅広で、上に行くほどすぼまっています。上端に額部を刻出していますので板碑は板碑なのですが、意表を突く形状です。三尊形式の梵字が大きく彫ってあり、実に力強い筆致が見事なものではありませんか。墨もよう残っています。こんなに立派なものが山の中にポツンと立っているのです。

 説明板の内容を転記します。

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県指定有形文化財 芝尾板碑
所在地 臼杵市野津町大字老松字芝尾
指定年月日 昭和51年3月30日指定

 この板碑は凝灰岩でできていますが、板碑の形になるように彫り整えているのではなく、自然石の形状を巧く利用した造りになっており、市内でも珍しいものです。
 身部中央に大きくキリーク(阿弥陀)の種子を配し、その下左右にやや小さくサ(観音)とサク(勢至)をそれぞれ薬研彫りしています。中央下部に「康■二年■■」と陰刻されており、現在「康永二年」(1343)であろうと考えられていますが、年代については今後さらに調査の必要もあります。
 臼杵と野津を結ぶ旧街道筋に立っています。

臼杵市教育委員会

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 実際に康永2年の造立であるならば、実に680年も前です。途方もない年月に唖然としました。なお、『野津町の文化財』によれば、この板碑は「大蛇の頭」との伝承があり近隣部落の方々に畏怖されているとのことです。

 さて、板碑から旧街道に戻って先へと進めば、古戦場「若山の陣」跡に至ります。時間の関係で、今回はそちらには行かずに茶屋跡へと引き返しました。

 

6 芝尾の一乗妙典一万部塔

 板碑付近から引き返し、庚申塔を過ぎて茶屋跡手前の三叉路を右折し、旧街道を歩いていきます。

 振り返って撮った写真です。やはり、軽トラックが通れる程度の道幅に拡幅されているように思います。供養塔と石幢は、この辺りから斜面を上っても行けますが、近道をすると却って分かりにくいと思います。少し遠回りでも、左に斜面を見ながら旧街道を辿った方がよいでしょう。

 くねくねと街道筋を歩いてきますと、左方向に写真のような道が分かれています。ここまで分かれ道はないのですぐ分かります。ここから折り返すようにして、先ほど左に見て歩いてきた尾根上に上がります。ずっと道がついていますが、今まで歩いた道より幅が狭まりますし、やや荒れ気味です。

 なお、この道に入らずに街道筋をなおも進んでいけば、道路端に庚申塔(文字塔)が数基立っています。時間があれば庚申塔まで足を伸ばしてから戻って来てもよいと思います。適当な写真がないので、今回は省きます。

 しばらく上ると、左上と右下の二股になっています。写真は、その二股のところから左上への道を撮ったものです。写真だと分かりにくいと思いますが、実際に歩けば道のところが少し窪んでいるのと、木が疎らになっているのですぐ分かります。二又から左上に道を辿れば一乗妙典一万部塔へ、右に辿れば石幢に至ります。まずは左上に行ってみましょう。

(正面)奉一乘妙典一万部 ※以下不明
(左面)南無妙法蓮華経

 この塔は角塔婆の様相を呈しています。笠のへりを大きく内欠いているほか塔身の傷みも目立ちますが、幸いにも銘の状態は比較的良好です。ただ、正面下部の細かい文字はあまり読み取れませんでした。これについては説明板の記載により内容が分かりましたので、後ほど記します。

(裏面)南無不老不死妙典
(右面)南無妙法蓮華経

 裏面の「南無不老不死妙典」という言い回しは、わたしは初めて見ました。各面上部には梵字が見てとれます。四面仏の類でしょうか。

 説明板の内容を転記します。

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県指定有形文化財 芝尾一乗妙典一万部塔
所在地 臼杵市野津町大字老松字芝尾
指定年月日 昭和51年3月30日指定

 この石塔は凝灰岩で作られており、通称「万部塔」とも呼ばれ、永禄3年(1383)の記銘が残っています。
 正面に「奉■一乗妙典一万部」、その下右側に「右■二親幽霊」、下左側には「栄徳三■■月十■日」と銘が陰刻され、背面には「南無不老不死妙典」、左面・右面には「南無妙法蓮華経」とそれぞれ陰刻されています。「一乗妙典」とは法華経を表し、「一万部塔」とはその法華経69384文字を小石に1文字ずつ書写したものを埋納した場所に建てた塔のことです。

臼杵市教育委員会

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 よく分からないのですけれども、一万部塔とは一字一石塔と同義なのでしょうか。ふつう、千部塔とか万部塔と申しますのは、そのお経を千回とか一万回読誦した記念に建てた供養塔を指すことが多いと思います。私はてっきり、こちらの万部塔もその類のものと考えておりました。ところが説明板には、一字一石塔の旨が書いてあります。銘文にそのような文言がないことから、もしかしたら土中より小石が出てきたのかもしれません。そのような事情・判断の根拠が説明板に書かれていないのが残念です。

 造立の意図も定かではありませんが、説明板に記載のあった「二親幽霊」の文言から、造立者の両親の追善供養を願うたものではあるまいかとも推量いたしました。ただそうなると「不老不死」云々はそぐわない気もしますので、結局は分からずじまいです。いずれにせよ、これほど立派な塔をもし個人で造立したのであれば、施主はきっと分限さんであったのでしょう。もちろん信心深いのは言わずもがなです。

 

7 柱松の石幢

 万部塔をあとに、今度は石幢を目指します。南の方向になだらかに下って行けば、そう離れていないので分かると思います。ただ、直接下る道はありません。確実な行き方としては、万部塔のところから元来た道を先ほど申しました二股まで後戻り、鋭角に左折して忠実に踏み跡を辿ることです。

 これまた山の中にポツンと立つ石幢です。そばに墓地があるわけではありません。柱松と申しますのは小字名あるいはシコナと思われ、文化財の指定名からこの地名が分かりました。お盆の行事の柱松に由来するのでしょうか?

 この石幢は近隣地域で見かけるような饅頭笠や椎茸の笠のような、大きな笠を持つタイプのものとは一線を画します。笠がごく小さく、中台と径がほぼ同じです。その分、縦長の龕部が大きく露出しておりますのに、諸像の姿がすこぶる良好であることに感激しました。この立地にあっては奇跡的な保存状態ではないでしょうか。しかも、中台の下部に施された線彫りの蓮の花びらもよう残っています。

 龕部は六角で、六地蔵様が彫ってあります。お顔の表情までよう分かりますし、儀軌に沿うてめいめいに所作を違えてあり、何から何まで丁寧に表現してあります。舟形光背の中に沈め彫りのような手法で表現してありますので、龕部の角が立ち、かっちりとまとまったスマートなシルエットを造り出しています。ちょっと行きにくい難しい場所ですけれども、野津市地区に数多く残る石幢をめぐる際にはぜひ、こちらも見学することをお勧めいたします。近隣のいろいろな石幢と見比べてみてください。

 なお、この場所から踏み跡を辿れば、急坂を下って茶屋跡の背戸(井戸のところ)に出ることを確認しました。しかし、お住まいの方が屋外に見当たらない中で勝手に坪を横切るわけにはいかず、結局は元来た道を後戻って三叉路まで戻りました。

 

今回は以上です。わたしは車の通らない道を歩くのが大好きなので、とても楽しく探訪できました。捜し甲斐のある立派な文化財が多かったうえに、歴史を感じる場所でもあり、しかも道順が難しいのにただの一度も迷わずに次から次に行き当たったので、野津めぐりの幸先のよいスタートを切ることができました。次回はこの続きで、芝尾部落内の名所旧跡・文化財の残りを紹介します。

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