大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

三重の名所・文化財 その13(香々地町)

 先日、はじめて大字夷は城成(じょうなり)の山神社跡の仁王さんに行き当たりました。早目に記録しておかないと忘れてしまいそうな事柄が多いので、野津町の記事を投稿する予定を変更して、城成から狩場越にかけての名所旧跡を先に紹介します。

 

○ 城成について

 城成は大字夷のうち東夷の最もカサにあたります。以前も申しましたが、今の大字夷にあたる地域は、大昔は夷村と狩場村に分かれていました。城成は旧狩場村のうちで、東狩場の枝村であったと考えられます。かつては5軒ほどの民家があり、林業と畑作で生計を立てていたようです。この地に居住者があった時代、車はおろかバイクも通れない山道しかなかったので、あの山中にあっては多岐に亙って不便を託ったことでしょう。通学の問題も大きかったと思われます。いつのことかは存じておりませんが、元住まわれていた方は皆さん里に下りて久しいようです。時代は流れて、ひところは城成の風光明媚な土地柄が注目され、観光開発をしてはどうか等の声もあったようですが、実現されませんでした。

 ところで、のちほど詳しく説明しますが、城成から山道を辿って狩場越経由で赤根(国見町)に抜ける古い峠道があります。その道を辿りますと、かなり上の方まで急傾斜の段々畑の跡があります。また、愛宕様や山神社跡の仁王様など、城成の方の信仰の場も残っています。今や屋敷跡も定かではない状況ですが、確かにこの地には人々の生活の痕跡があるのです。そのことを心にとめて、適切な時季にハイキングと歴史探訪を楽しんではいかがでしょうか。

 

44 城成の愛宕

 夷谷温泉のところから道なりにカサへと進み、東狩場を過ぎれば三叉路に出ます。そこが少し広くなっているので、邪魔にならないように路肩ぎりぎりに寄せて駐車します。

 三路から上の道路(県道653号)に出たら少し左に行きます。すると、写真のようにガードパイプのついた坂道がありますので、これを上ります。

 上り口に「城成仁王像 これより山道を2.5km」と書いたプレートがさがっていますので、すぐ分かります。なお、これより先に道標は一切ありません。しかも林道ができた関係で旧道(徒歩道)が分断され、書籍『国東半島山ガイド』の記載内容と状況が一変していました。事前に調べておいた内容とあまりに異なるので面喰いましたが、友人と知恵を出し合いながら進んだところ、予定していた全ての場所に無事訪ね当たりました。興味関心のある方のために、道順をなるべく詳しく記しておきます。現時点でweb上で確認できるルート情報は、林道開通以前の内容がほとんどです。そのため、この記事の記載内容とは異なる点が多々あります。この記事で紹介する場所を実際に訪れるときは、道に迷わないように十分気を付けてください。

 城成方面への分岐地点の高所には、岩屋の中に石仏が安置されています。2体並んでいることから、夷谷の新四国の札所ではあるまいかと推量しましたが、かなりの高所にて近寄る方法もなく、確認できませんでした。線香立ても置いてあるのですが、梯子段をかけないかぎり無理です。

 さて、ここからガードパイプのついた坂道を上り、ほどなく右に折り返します。少し進んで私は唖然としました。本来なら、ずっと山道が続いているはずなのですが、伐採地にて新しい林道に突き当たり、旧来の道筋は左右に蛇行する林道に完全に飲み込まれていました。少し林道を歩いて上ってみましたが、旧の峠道がなかなか見当たりません。見当たらないというか、左右に段々畑の跡があり、畦道か峠道か判断がつきませんでした。それで、とりあえず林道を歩いて行きますと、首尾よう左側の木森の中に愛宕様のお堂を見つけました。

 林道からはこのように見えます。左側に気を付けて歩けばすぐ分かります。本来の参道がどう通っていたのか分かりませんでしたので、畑跡を横切って近寄りました。

 この辺りは石垣が特に密に残っており、かなり上の方まで段々が連なっています。この高所にあっては天水がかり、湧水がかりであったことでしょう。これより上に池はありません。

 いま、この左側に林道が通ったので少し明るくなっています。林道が通る前はもっと鬱蒼としていたと思います。植林された杉が育ち、城成部落が無住になってからの長い年月が感じられました。

 建物はかなり傷んでおり、壁が破れて隙間が空いているところもありました。石仏の盗難を懼れてか戸には鎖をからげて施錠されています。その鎖はわりあい新しそうで、放置されているわけではないことが分かりました。中は真っ暗なので格子の隙間から撮影して画面越しに様子を確認し、外からお参りしました。

 中央の仏様は、お地蔵様(愛宕様の本地仏)でしょう。ふくよかで優しそうな姿が心に残りました。その手前には対の狛犬が並び、吽形が破損著しいものの阿形は状態良好で、その厳めしい表情がよう分かります。頭部の破損した小さい仏様も4体ほど確認できました。これらは、もとからこの場所にあったものもあれば、部落内の外の場所から移したものもあろうかと思います。

青面金剛6臂、3猿(ほか不明)

 この半肉彫りの像は風化摩滅が著しいものの、残部の特徴から庚申塔であろうと推量します。三叉戟のような持ち物もそうですし、何より下部に3猿の痕跡が見てとれます。もっと近くで見られたらはっきりするのですが遠目にて、私の見間違いの可能性もあることを申し添えます。最初から堂内にあれば、こうまで傷んでいないことでしょう。部落内の野外に立っていたものを、粗末にならないように、または盗難を懼れて、後年堂内に移したと考えられます。

 敷地内右側には壊れた石燈籠の部材が残っています。

 右はお手水、左は何らかの基壇でしょう。

 

45 狩場越のお地蔵様

 堂様をあとに、峠のお地蔵様を目指します。山神社跡の方が峠よりも少し近いのですが、山神社跡は旧の峠道沿いではなく、枝道沿いにあります。林道から枝道への取り付きが分かりにくいので、峠から下った方が簡単です。

 林道は右に左に蛇行しながらはるか上まで続いています。ところどころで、カーブの内側などに旧の峠道と思しき細道が残っていますが、何度も分断されています。当日は先が不安になる道中でしたが、ひとまず林道を歩いていきました。ずっと上っていき、かなり高所まで行きますと二股になっていましたので、とりあえず左に行ってみました。少し先で林道は行き止まりになっており、その終点から細道が伸びています。木にテープが巻いてあり、この先は昔の道のままであることが分かりほっとしました。写真は省きますが、堂様からかなり離れています。駐車場所から林道終点まで、ゆっくり歩いて30分程度はかかりました。

 いかにも昔の峠道らしい雰囲気になります。林道の方がずっと歩きよいものの、やはりこんな道の方がずっと楽しく歩けます。何より、林道歩きで明後日の方角に進んでいるのではないかとずっと不安が渦巻いておりましたので、ここまで来ればもう大丈夫と言う安心感で途端に嬉しくなりました。倒木等で道筋がやや不明瞭なところもありますが、赤テープを辿れば問題ありません。尾根筋が近くなったところで右に折り返してなだらかに上っていきます。

 峠に辿り着きました。岩こぶのところにお地蔵様が安置されています。今は趣味で山歩きをされる方しか通らないような道ですけれども、昔は夷谷と赤根をつなぐ近道として、金ヶ峠と同様に盛んに利用されていたと思われます。

 道行く人の道中の安全をずっと見守ってこられたお地蔵様です。今もじっとこの場所に立ち続けて、登山者の安全を見守ってくださっています。ここから反対側に下れば赤根に至ります。また、尾根伝いに行けば狩場山や黒木山に登ることができるようです。

 この峠の付近ではないかと思うのですが、昔は生目様の小社があって近隣在郷の信仰が篤かったようです。当日少し捜してみましたが、見つけられませんでした。

 

46 城成の山神社跡

 峠から山神社跡の仁王様を目指します。お地蔵様のところから夷側を向いたとき、元来た道は右下方向です。そちらに下らずに、二重テープの巻いてあるところから左下に下っていきます。下り口が分かりにくいのですが、テープを目印に少し下ればすぐに道筋が明瞭になります。特に迷うような場面はありませんでした。

 振り返って撮影した写真です。木が疎らになっているので、道筋は明瞭です。赤テープも点々と巻いてあります。少し下っていくと、左前方のやや高い場所に仁王様が見えます。左側に気をつけながら歩けば見落とすことはないと思います。これが、反対側(下)からだと見落として通り過ぎる可能性があります。

 出発前から、迷わずに行けるかなという不安があったうえに、実際に行ってみれば林道ができており事前に調べておいた情報とまるで様子が違い、いよいよ不安が増しておりましたので、無事に到着できた喜びも一入でした。仁王さんは傷みが進み、特に吽形は胸から上が失われています。けれども、この急傾斜の場所に実に堂々と立っています。なお、ここから上っていけば山神社の石祠が残っているかもしれませんが、確認はしていません。

 全体的に風化摩滅が著しく、細かいところは全く分からなくなっています。また、腰から下が失われており、セメントで基壇に接着してあります。

弘化三年

 このように下から見上げますと立派なもので、よし破損すればとてほんに堂々たる立ち姿でございます。180年近くもこの場所に立ち続ける仁王様の、なんとありがたいことでしょうか。

 こちらは首や前腕を欠損しておりますが、幸いにも下半身の状態は良好で、本来の立ち姿が分かります。反り腰にて腹を突き出し、武張った立ち方には勇ましさや力強さがよう表れているではありませんか。脚の表現などを見るに、なかなかの優秀作であると感じました。破損する前の写真があれば見てみたいものです。

弘化三年
世話人 隈井友助綱行
石工
法橋國良

 風化摩滅により読み困難の文字もあります。その部分は『香々地町誌』を参照することで、正しい内容が分かりました。やはり衣紋のしわや緒、腕の力こぶなど、さても細やかに表現されています。

 山神社跡の仁王様は、この立地にあっては適切な保存対策は困難と言わざるを得ないでしょう。倒木その他による破損が懸念されます。しかしながら、城成に暮らしがあったことを示す文化財でもあります。部外の者の勝手な願いではありますが、できれば里に下ろしたりせず、今後もこの場所に残ってほしいと思いました。

 山神社跡から赤テープを目印に下っていけば、林道に出ました。この先は、先ほど申しました行き止まりの地点です。右側に気を付ければ二重テープがあるにはありますが、こちらからだと取り付きが分かりにくうございます。今まで説明した道順でぐるりと回って、ここからまた林道を辿って麓に下るとよいでしょう。

 

47 城成の五輪塔

 林道を下りながらあたりを見回して石造物を探しました。石垣が方々に残っているほか、お墓があったほか、石塔や石仏などは見当たりませんでした。唯一、林道から少し引っ込んだところで五輪塔の残欠を見つけたので紹介します。

 大岩の上に破損した五輪塔が1基のみ残っています。この辺りも段々畑の跡が一面に広がっています。

 林道を下っていけば、遠くに中山仙境の岩峰群が見えました。林道から元来た道への下り口(分岐点)が分かりにくいと思います。少し遠回りになりますけれども、林道をいちばん下まで歩けば県道に出ます。そこから左に行けば駐車場所に戻れますので、降り口を見逃しても全く問題ありません。

 

今回は以上です。ゆっくりまわっても、1時間半程度もみておけば十分でしょう。近隣の名所旧跡とあわせて、天気のよいときに歩いてみてはいかがでしょうか。次回より野津町のシリーズに戻ります。

過去の記事はこちらから