大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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野津市の名所めぐり その4(野津町)

 野津市地区のシリーズは、ひとまず今回までとしたいと思います。また写真を撮り溜めたら続きを書いていきます。さて、今回の目玉は日当の庚申塚(冒頭の写真)です。ロケーションがたいへんよく、心に残りました。

 

14 桐木の石幢

 前回からの続きで道順を説明します。生野原公民館のところから、国道502号を野津町市街地方向に進みまして、旧都松小学校の角を「都松ふれあいセンター」の看板を目印に左折します。突き当りを左折してすぐ、次の角を右折して進めば正面に石幢が立っています。ゆっくり見学したい場合は、ふれあいセンターに駐車させていただくとよいでしょう。なお、センターのすぐ近くにはこのシリーズの初回に紹介した旧道「殿様街道」の入口があります。

 想像以上に大きくて立派な石幢で、感激しました。今から詳しく説明しますが、細部まで緻密にこしらえたお細工の細かさは町内屈指ではないでしょうか。ここは桐木(きりぎ)部落の外れです。今は滅多に人が通らないような場所で、近くに墓地もないようです。昔は堂様があったのでしょうか。

南無宜陽救苦地蔵菩薩 ※「地」以下は確証なし

 幢身の銘文が傷んでいます。南無宜陽…の左の面には、3行にわたってびっしりと漢文が彫ってありますが、読み取れないところが多いので転記は省きます。『野津町の文化財』という書籍がありますので、あれを読めば分かるはずです。今度図書館で確認でき次第、補います。

―――r5.12.2補足

 『野津町の文化財』を確認しました。当該箇所の全ては載っていませんでしたが、「安永九年三月廿四日 発願主 林光院法印 峨眉山現在密海岸啓」の内容が彫ってあるそうです。

―――

 それにしてもこの石幢の立派なことといったら、お見事というよりほかありません。笠、龕部、中台、幢身、基壇、すべて八角です。笠は照屋根で、ほんに上品かつ優美な雰囲気を醸し出しています。中台はへりを地厚にこしらえておいて、中台との接合部分に1面あて1枚の花弁上のなだらかなカーブをとっておりますが、この部分がたいへんよろしい。幢身の長さと太さのバランスもよいと思います。

 なんと、龕部の角々にも銘文が彫ってあります!読み取れない部分が多いので、内容は省きます。

 諸像には風化摩滅が見られますが、今のところ細部にわたって施された細かい彫りはよう分かります。めいめいに矩形の枠をとって、沈め彫りにて表現してあります。この面は下部が破損しておりますので足元(お地蔵様は蓮の花の上に立っています)が分かりませんでしたが、ほかの面のお地蔵様とは違うところがあります。それは頭の上の文様で、ほかは連子模様なのですが、こちらのみお花模様になっています。おそらくこの像は、お地蔵様のように見えますけれども実際はほかの仏様なのでしょう。薬師様のような気がします。

 六地蔵様の足元には蓮の花、光輪もくっきりとしており、お顔の表情こそ分からなくなっていますがほんにありがたい感じがいたしますし、全体的に優雅な雰囲気が漂うております。お地蔵様は1体ずつ、全部所作が違います。

 この面は三王様(十王様のうち3体)が彫ってあります。上3分の2ほどを使って大きく1体を配しており、こちらは大王様だと思います。その下に、左右から見上げるような格好の二王様を彫ってあるではありませんか。失礼ながらやや稚拙な表現のところもありますけれども、冠が縁取りにはみ出すのも厭わぬ大胆な配置により、ほんにいきいきとした感じがいたします。矩形の龕部の場合、1面あて2体彫るのが当たり前で、どうかすると4体、5体と彫ってある例もあります。ところが、八角柱となりますと各面の横幅が狭まりますから、1面に複数の像を配した事例は稀であると存じます。こちらは貴重な作例といえましょう。

 

15 筒井の石幢

 桐木の石幢から後戻って突き当りを左折、しばらく行くと辻に石幢の幢身のみが残っています。「持田石幢」の立札がありました。幢身に龍の彫刻がある珍しい作例ですが写真がないので、今回は省略します。国道に出たら左に進み、次の交叉点(信号機あり)の右側に新四国の札所と石幢が並んでいます。道路から見えるのですぐ分かります。

 この場所には2基並んでいるのですが、右の石幢は幢身しか残っていません。残部から推して、それなりに大きなものであったと思われます。左の石幢を詳しく見てみましょう。

 こちらはすべて六角形で、先ほど紹介した桐木の石幢と比べますと小型です。シンプルで華奢な造りですけれども、全体的にバランスがよいと思います。宝珠は後補のものかもしれません。龕部には六地蔵様が半肉彫りで表現されており、緻密な表現が素晴らしい。めいめいに蓮台に乗っています。曲線の取り方が丁寧ですし、お顔の表現や衣紋の重なりなどもよう分かります。龕部が大きく露出しているタイプの石幢としては、これほど傷みが少ない事例はそうないでしょう。

明治廿六年
旧七月十三日
施主 岩崎十三
※廿と旧は異体字

 明治以降の庚申塔はときどき見かけますが、石幢は稀ではないでしょうか。造立日が旧盆の入りですから、追善供養のために造立したのではなかろうかと推量しました。

 

16 日当の一字一石塔

 筒井の石幢をあとに、国道を進んでいきます。葬祭場のすぐ先を左折して道なりにいき、日当(ひなた)部落のかかり、右側に一字一石塔が立っています。道路端なのですぐ分かります。車は、このすぐ先の右側に停められます。

 いま、奥から近づいてきました。このように茂みに隠れがちなので、スピードが出ていると見逃すと思います。

大乗妙典一石一字

 お供えがあがっており、近隣の信仰が続いていることが分かります。基壇を2重にした立派な塔で、状態も良好です。この近くには庚申塚や神社もあります。日当部落における各種信仰の拠点のような場所だったのでしょう。

 

17 日当の庚申塔

 一字一石塔のすぐ先の右側で、道路が三角形になっています。その中に大木が聳え、ねきに庚申塔が多数集積しておりまして庚申塚の様相を呈しています。2車線の道路側からだと気付かないと思います。ゴミ捨て場のところから大木の裏側の道に入るとすぐ分かります。

 この場所には文字塔が2基、刻像塔が5基もあります。刻像塔は破損したものも多く、明治初年頃に意図的に壊された可能性があります。しかしながら残部をきちんと安置してめいめいにお供えがあがっており、今は鄭重にお祀りされています。また、塚の下部には庚申石(拝石)と思しき小型の石が3基ほど確認できます(冒頭の写真)。昔はもっとあったのでしょう。

青面金剛6臂、邪鬼、ショケラ、鶏(左下に1体のみ痕跡あり)

 碑面の荒れが著しいうえに、特にへりの欠け・磨滅も目立ちます。主尊のお顔も削れており、表情は全く分かりません。お顔の傷みに関しては、以前重岡地区(宇目町)のシリーズでも申しましたように、意図的になされた可能性があります。体に関しては風化摩滅による不明瞭さはあるにせよ、お顔のようにことさらな傷み方ではありません。衣紋の皺や、外向きに出た緒のような部分など、細かいところも残っているのです。

 なお、この塔は下の方が失われています。左下に1羽の鶏が、痕跡を留める程度にまで傷んでいますけれども一応残っています。本来は左右退所に配されていたのでしょうし、その下には3猿も並んでいたのではないでしょうか。主尊の足元には四つん這いになった邪鬼も見てとれます。

青面金剛6臂(ほか不明)

 主尊の胸から下がすっかり失われており、おいたわしい限りです。このような壊れ方をした場合、普通は下半分が残って、上がなくなっていることが多いと思います。下はどこにいったのでしょうか。

 残部を見ますと、彩色がほんのりと残っています。しかも、主尊のお顔の表情まで読み取れるではありませんか。炎髪の形状や腕の自由奔放な曲がり方などから推して、個性的なおもしろい像容であったと思われます。元の姿が分からないのが残念です。なお、主尊の腕の数については、残部を見るだけでは4臂の可能性もありますが、左右の腕の向きから推して6臂と判断しました。

青面金剛6臂

 一口に庚申塔(刻像塔)と申しましても、その姿は千差万別です。これほど個性豊かな石造物はほかにないと思います。よう整うたお手本のような作例がある一方で、なぜにこうまでというような珍妙な作例もありますが、言うまでもなく両者の本質的な価値に上下の差はありません。一般的なイメージから著しく逸脱した姿の青面金剛といえば、その数は直川村が群を抜いていますが、野津町でもときどき見かけます。珍妙な像容は、見た目のインパクトがものすごくて単純におもしろいということもありますし、石工さんの非凡なる閃き・豊かな想像力や、当時の方々の素朴な信仰心も感じられるので私は大好きです。

 さて、こちらはお顔立ちの不気味さが際立っています。キリリと吊り上げた目付きのなんと恐ろしいことでしょうか。おつばの薄いアヒル口が目の印象と全く合うておらず、しかも顔から体から、いちめん赤く塗ってありますのも不気味さに拍車をかけています。役者ごかしの大きなお顔に対して体は痩せておりますけれども、鎧に見替えの衣紋はさても剛毅な感じが漂います。申し訳程度に外向きに出した4本の腕で持っているのは三叉戟のみで、ほかは手ぶらというもの意表をついていますし、何から何まで不思議なことばかりの庚申様でございます。余談ながら、脚は裏側とくっついていません。後ろがトンネル状になっているのです。こんなことができるほど、全体を厚肉にこしらえてあるということです。

青面金剛6臂

 こちらも非常に個性的な作例です。上から見ていきましょう。まず瑞雲は横いっぱいに、ジグザグの曲線を何重にも重ねて表現してあります。日輪・月輪は失われています。主尊は面長で、鼻が削られています。意図的に削られたのでしょう。そのためやや不気味な面立ちになっておりますけれども、なんだか優しそうに見えました。御髪は細かい櫛の目にて後ろに撫で付け、そのぐるりにはほんのりと赤い色が残っています。そして注目して頂きたいのは胸元です。ただの首飾りかもしれませんけれども、目と、大きな口のようなものが見てとれます。もしこれが顔だとしたら、さても不気味なことではありませんか。

 腕の長さはまちまちで手の握りもあやふやな表現にて、失礼ながら稚拙に感じられるところですが、めいめいの手では弓や三叉戟、剣などを持っており、細部まで細かく表現されています。よう肥った体を支える足先が微妙に内股になっており、ほんに奥ゆかしいことぞと微笑ましく感じました。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、ショケラ

 残念ながら上部が破損し主尊のお顔が失われています。けれども、この塔はデザインがなかなかよう整うており、彫りも優れています。上の傷みがつくづく惜しまれます。主尊は彫り口の角を立てずに、体の自然な曲線が上手に表現されていると思います。特に腕や脚の表現に、その特長が顕著に表れています。6本の腕を見ますと、下の腕が腰のあたりから真横に伸びていますけれどもさほど違和感はありません。まずまず上手に収まっているといえましょう。指の握りも写実的です。

 ごく小さな鶏にも注目してください。ささやかで、かわいらしい姿が胸を打ちます。また、半分隠れていますけれども猿がめいめいの小部屋に入って、見ざる言わざる聞かざるで横並びになっているのも確認できます。猿や鶏の、コロンとしたかわいらしい姿と、堂々たる立ち姿の主尊との対比が魅力的な作例といえましょう。

奉待庚申塔
日當村(6名)

 紀年銘の文字が小さく、薄くなっています。すぐそばに近寄れなかったので、読み取りは省きます。

元禄五壬申天
梵字)奉供養庚申尊■■
■月十■日
(8名)

 こちらは碑面の状態が良好で、伏字にした箇所以外は容易に読み取れました。「庚申尊」の真下の2文字は「願主」のような気がするのですが、こんな場所に「願主」と彫るものでしょうか。「尊」の下が少し空いていたり、「願主」が少し小さい字になっているのならまだしも、明らかに「庚申尊」から一続きになっています。下段には8人のお名前がくっきりと残っています。

 以上、日当の庚申塔を一通り紹介しました。興味深い作例が多数ありますし、冒頭でも申しましたようにロケーションも素晴らしく、野津町で多数見つけた庚申塔の中でも特に心に残っています。ところの名所といえましょう。

 

今回は以上です。野津市地区にはほかにも名所・文化財がたくさんあります。それらはまたの機会としまして、次回より南野津地区のシリーズに移ります。石幢や庚申塔をたくさん見つけましたので、2回に分けて紹介します。

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