大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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西真玉の名所めぐり その1(真玉町)

 このシリーズでは西真玉地区の名所旧跡をめぐります。西真玉地区は大字西真玉と大字大平からなります。まだ行ったことのない場所が多いので、道順は気にせずに飛び飛びに掲載していこうと思います。

 

1 徳六新池の石造物

 真玉体育センターから、八幡宮の社叢を右に見て進めば徳六下組に入ります。左側にカーブミラーの立つ辻を右折して道なりに行き、新池の土手に沿うて上りますと、堤の一角に庚申さんやぐりんさんなどが寄せられています(冒頭の写真)。道が狭いので一旦通り過ぎ、広い道に突き当たったら左折して少し行けば左側の路側帯が広くなっていますので、そこに駐車して歩いて戻るとよいでしょう。石造物はすべて池の方を向いていますが、正面に回り込んで見学することができます。そのとき池に落ちないように気を付けてください。

青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏
村中

 このお塔はすらりと背が高くて立派ですし、たいへん個性的な像容は一度見たら忘れられません。上から順に見て行きましょう。まず笠は、破風がゆるやかな波形を描き外側が少し跳ね上がっているのが優美でよろしいし、剣菱くずしの御紋などすっきりとしたデザインで洗練されています。

 塔身には3つの区画をこしらえて夫々の像が配されており、最も大きいのは主尊と童子の収まる区画です。全体を矩形に浅く彫り込んでいるように見えますけれども、よう見ますと主尊のぐるりのみその輪郭線に沿うてさらに彫り込んであります。このような彫り出し方により、主尊にそれなりに立体感をもたせながらもその彫り口は角ばっていなません。それがために主尊はことさらに状態が良好です。坊主頭のまん丸が尾で、目付きがほんに不気味ではありませんか。しかも腕の付け根が昆虫の如く上下に離れて、中の腕で合掌をしてその上下より左右に腕が伸びておりますのでことさらに珍妙な感じがいたします。上の腕と下の腕の長さが全く異なるなど自由奔放な表現がおもしろうございます。

 童子の異常なる小ささにも注目してください。猿に見代えの小柄な童子はかしこまった装束であることが見て取れますが、風化摩滅により細部が分かりにくくなっています。主尊の足元のお花模様のような部分がちょうど童子の肩の高さです。まったく、童子なんぞは足元にも及ばぬと言わんばかりの主尊の厳めしさが感じられます。猿は中段の帯状の区画の両端に離れて腰かけています。このように腰かけた表現の猿は、以前もほかの庚申塔で数回紹介してきました。めいめいに合掌しています。鶏も猿の真下にて、やはり中央が空いています。

 このお塔は池の堤を修理するときに一旦おろして横倒しにしてあったものを、立派に立て直されました。その際に接合部をきちんと処理してありますので、転倒や破損の心配がありません。

月 寛文十年
梵字3つ)奉●南無青面金剛●●
日 十一月吉日

 銘の一部しか読み取れなかったので、小林幸弘さんのホームページを参考にさせていただきました。この塔は板碑型で、額部に日輪と月輪を線彫りにて表現し、その中に「月」「日」と文字を彫ってあるのが風変りです。塔身には位牌型の枠をこしらえて、その中に銘を彫ってあります。その上部には梵字が三角形をなしており、弥陀三尊を表していると思われます。下段にも何かの文字を彫ってあったようですが、全く読み取れません。

 千手観音様は、体の横にずらりと腕を並べて表現してあります。この手法は石造の千手観音様でよう見かけますが、得てして全ての手がパーの形になっておりますものを、こちらは指の形、握り方などがすべて異なり、細部まで行き届いた表現です。優しそうなお顔もよくて、特に口許はほんに写実的な感じがいたします。御髪の細かな線もまた行き届き、結跏趺坐も見事な表現で素晴らしい。それだけに光背の破損が惜しまれてなりません。

 台座正面にはいちめんに漢文が彫ってあります。偈文でありましょうか、読み取りがなかなか困難でしたので詳細はわかりません。

 以上、新池の堤に並ぶ石造物のうちこれはと思ったものを紹介しました。なお、徳六の池は新池と古池が2段構えになっています。両者は上下に並んでいるわけではありませんが水路で連結されており、これは旱害予防のための昔の人の智恵です。国東半島ではこのような溜池が方々に見られます。

 

2 寺原の真玉氏墓地

 来た道を後戻り、真玉体育センターを過ぎて横断歩道のある辻を左折します。道なりに行き寺原(てらのはる)部落の中ほど、道路左側に各種石塔の並ぶ墓地があります。こちらはこの地方を支配した真玉(またま)氏の墓地であり、この一帯が旧真玉寺(しんぎょくじ)の跡地とのことです。その後、真玉寺は真玉城跡地に移転し今に至ります(またの機会に紹介します)。この墓地は道路端にてすぐ分かりますが、車で乗り着けてしまうと出るときに左右が見えずたいへん危ないので、どこかよそに停めて歩いて来た方がよいでしょう。

 このように無宝塔、宝篋印塔、国東塔、五輪塔など多様な石塔が林立し、壮観です。しかも、ほぼ全てが良好な状態を保っています。手前右端に写っている塔には「首肯塔」と彫ってあるようです。

 こちらは真光塔です。真光塔という銘をはじめて見ましたが、おそらく追善供養に関連するものでしょう。詳細はわかりません。その後ろの国東塔は別の写真で紹介します。最後列の五輪塔はこの石塔群の中にあっては目立ちませんけれども、なかなか形がようございます。蓋し墓碑でありましょう。

 この国東塔は相輪の上部が失われているほかは極めて良好な状態を保っています。一見して、笠の重厚感に見惚れてしまいました。軒口の厚いこと、しかも四隅の反り方に品があります。首部を広くとっておりますのも、この笠の重厚感とよう合うているではありませんか。台座は矩形をなします。1面あて2枚ずつの花びらからなる反花は二重花弁にふくよかな風合いが感じられます。格狭間の文様も極めてくっきりと残っており、両者の調和の美が感じられます。

 こちらは国東塔と五輪塔のあいのこです。後家合わせの場合もあれば、元からこのような造形にこしらえたお塔もあります。さてこちらはどうでしょうか?各部材の表面が荒れ、風化が進んできているようです。反花は単弁を互い違いに配して、その下の台座は八角形をなしており、その切替の妙が素晴らしいと思います。

 向かって左のお塔は灯籠と五輪塔(異形)の後家合わせのような気がしますが、定かではありません。たいへん風変りな造形です。塔身下部の部材はよう見ますと反花の様相を呈しており、花びらを大きく、外周に沿うて擂鉢型に並べておりますので一般的な国東塔のそれとはずいぶん印象が異なります。

 右の五輪塔はおそらく後家合わせでしょう。水輪の下が宝篋印塔の部材の様相を呈しています。また、水輪が縦長になっていますのでスラリとした印象を受けました。先ほどの真光塔の写真の後ろに写り込んでいる五輪塔と見比べていただくと、夫々の個性がよう分かると思います。

 宝篋印塔は相輪以上が失われ、反花と宝珠が後家合わせになっています。明らかに色目が異なるのと、露盤に対して宝珠が大きすぎるためやや違和感があるのが惜しまれます。隅飾りがよう残るほか、塔身の紙面に彫った梵字もくっきりとしています。

 

3 致斎城の墓地の石造物

 寺原から先に進んで、2車線の道路と斜めに交叉してなおも進み、最初のカーブミラーの角を左折して簡易舗装の道を上がったら墓地があります。軽自動車ならどうにかこうにか、やっとのことで墓地まで上がることができますが脱輪が懸念されます。とても危ないので、どこかよそに停めて歩くことをお勧めします。この辺りは金屋区のうちで、致斎城組です。致斎城は読み方がなかなか難しうございまして、「ちんでのき」と読みます。大分の方言で、ダ行とザ行が混同して相互に転訛している事例が多々あります。斎の「サイ(ザイ)」が「ゼエ」「デエ」「デ」と転訛したのでしょう。

 墓地の入口には六地蔵さんが、3対ずつ向かい合わせになっています。ふつう、単体の六地蔵さんは横並びになっています。それがこのように3対ずつ向かい合わせに並んでいるのは初めて見ました。今は隣に舗装路が通っていますが、昔は六地蔵さんの間の通路を歩いていたのでしょう。めいめいのお地蔵様はみんな形が違います。半肉彫りで、角を立てずに丸っこく彫り出しており、立派なお地蔵様です。

 細部まで細かい彫りが見事なものです。お地蔵様の足元の蓮の花は、線彫りにしたものと浮彫りにしたものとがあります。

左) 三界萬霊等(界と霊は異体字

 この場合の等は塔と同義です。無縁供養の塔で、この種のお塔としては近隣でも稀な大きさの、立派なものです。

右) 奉●六十六部塔

 こちらはお六部さんの供養塔というよりは、三界万霊塔と一体のものとして、有縁無縁を問わですべての霊をお供養する意味合いのものでしょう。

大乗妙典六十六部 甚性(?)陀

 性に見える文字は、「弥」の異体字のような気がするのですが確証を得ません。

三部妙典一字石

 一字一石塔の銘は様々で、これまでもいろいろ紹介してきました。こちらの「一字石」も意味はわかりますが、このような表記は初めて見たような気がします。

 このすぐ近くの一ツ堂池の土手には立派な庚申塔が立っています。適当な写真がないので、またの機会に紹介します。

 

今回は以上です。少し短めの記事になりましたが、ここで一旦切ります。次回は大分市の名所旧跡を少し紹介します。

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