大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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美和の名所めぐり その2(豊後高田市)

 ものすごく忙しくて間隔が長くあいてしまいました。久しぶりの投稿です。今回は美和地区のうち、大字美和の名所を少し紹介します。前回は7か所掲載しましたが、都合により今回は2か所だけです。しかしながら2か所ともこの地域を探訪するにあたっては必ず立ち寄るべき名所であり、特に青宇田(あうだ)部落にある堂様(延命寺跡の比定地)は、みなさんに参拝・見学をお勧めいたします。画像石をはじめとして、ほかにもたくさんの石造文化財が残っています。

 

8 青宇田の堂様(延命寺跡)

 青宇田画像石の標識に従えば簡単に行き着く場所なので、道案内は省略します。道路端の広い駐車場に車を停めたら、道標に従って民家の背戸を通って階段を上り、崖の上の平場にあがります。この入口が、ちょっと進入をためらわれるような立地でした。もし近所の方が屋外においでになれば挨拶をして通ればよいものを、どなたも見当たらないと却って気が引けるような入口です。

 階段を上り詰めたら、前には対の仁王さんが立っているほか、磨崖仏もあります。右に行けば堂様と画像石の収蔵庫が並んで建ち、さらにその右の方にも石造物があります。まず屋外の石造物から紹介します。

 あとで申しますが、この辺りに延命寺というお寺が昔あったそうです。こちらの仁王像は、その延命寺の門前に立っていたものと考えられます。廃仏毀釈の影響か、または移す際にかやったのか定かではありませんが、両者とも半ばで折れたあとがあり、その箇所を上手に接いでいますがどうしても目立ちます。それ以外にも上の方の傷みや脚まわりの傷みが目立ちますほか、デザインを見ても優秀作とは言い難いところがあります。近隣在郷に優秀作があまりに多いものですから、あまり注目されていない仁王像ではないでしょうか。

 しかしながら、こちらの仁王さんにはおもしろいところ、興味深いところがたくさんあります。まず第一に、腰から上は半肉彫りになっているという点が挙げられましょう。石板に半肉彫りでこしらえた仁王像と申しますと旧千灯寺跡のものを思い出す方が多いと思います。こちらは、あれよりもずっと自由奔放な作例です。半肉彫りの様相を呈しているとはいえ、腕などはその枠から離れています。しかも天衣の表現の工夫・アイデアがなかなかのもので、中空にて弧を描く箇所を石板の縁取りに一体化させて表現してあります。丸彫りの像の場合、この部分が壊れているのを盛んに見かけます。こちらは耐久性を考慮して、あるいは彫り易くするために、このような表現方法を工夫されたのでしょう。それにも拘らず当該箇所が破損しているのは残念なことです。

 腕の格好や珍妙なお顔立ちなど、おもしろいところはほかにもたくさんあります。

 

 上の仏様は磨崖です。少し高いところにあり目立たないので、豊後高田市の磨崖仏としてはあまり注目されていないと思います。けれどもその彫りが細やかで、龕の中とはいえ長年風雨にさらされているにしては細部までよう残っています。しかも仏様の龕の両隣りには磨崖板碑を刻出しており、めいめいに梵字が彫ってあります。蓋し、弥陀三尊でありましょう。板碑銘の箇所がちょうど門柱にも見えてまいりまして、全体として見たときに阿弥陀様のお家のようにも感じられました。

 磨崖仏のほぼ真下には石柱を組み合わせてこしらえた大きい御室があり、その中には五輪塔の部材や尊名不詳の坐像が3対、それから大王様が安置されています。おそらく、昔はもっと数が多かったのではないでしょうか。大王様は威厳に満ちたお顔立ちが素晴らしい。

 この岩には側面に小さな龕をこしらえ、中には丸い石(神様でしょうか)がお祀りされています。この龕は小さいながらも手が込んでいて、中を二重に彫り込んでいるばかりかそのぐるりには線彫りにてお屋根と柱を表現していますので、注意深く観察してみてください。

 収蔵庫の外には石造の四天王像が並んでいます。この4体は、以前は後方の山すその龕にあったものを、こちらに移されています。おそらく元の場所で据わりが悪かったか何かで、保存のために移したのでしょう。豊後高田市の説明によれば室町時代の作とされており、延命寺の守護神とのことです。多聞天持国天増長天広目天それぞれ憤怒層ですけれども、風化摩滅の所以かあまり怖そうな顔には見えません。丸彫りの石造四天王は、作例としてはそう多くないのではないでしょうか。

 収蔵庫の前を過ぎて右の方に行きますと、小さい岩屋の中に3体の仏様がお祀りされています。岩屋の前には五輪塔の残欠も散見されます。

 向かって右の立像は中央に補修の跡が目立ちますけれども、総じて状態は良好です。中央の仏様の優美な姿は言うに及ばず、左の馬頭観音様がまた見事な彫りで、御髪や馬の頭などまで丁寧に表現されています。お参りをするときに確認してください。

 収蔵庫の左隣に建つ堂様の中のようで、そう古い建物ではないように思います。手入れが行き届いています。天井絵が美しく、心に残りました。どなたでも自由にお参りできるようにし蝋燭など用意してくださっていますが、火の用心には十分に留意したいものです。

 さて、いよいよ画像石を紹介します。それに先立って、奥台に立つ説明板の内容を転記しておきます。

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青宇田の画像石

所在地 豊後高田市大字美和字羅漢の下1004番地
種類 画像石
石室 剥離石
形容 0.15m~1.0m内外の板状の石
数量 94枚
制作年代 至徳2年(1385)、明徳2年(1391)の銘あり

解説
 南北朝時代末期、丘陵の一角にあった延命寺の僧 一道、道念外5名の発願により完成した。角閃石安山岩(剥離石)に願文、十三仏種子、十王庁展開図、弥陀の來迎図、六地蔵、阿羅漢など線彫りして、浄土思想を絵巻物語風に表している。
 国東半島に分布する石造美術品の中で特異性に富み、珍重な存在である。

指定関係
昭和33年3月25日 県指定有形文化財
境内に石造四天王4躯 昭和57年6月1日 市指定有形文化財

豊後高田市観光協会

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 収蔵庫は施錠されておらず、自由に見学できます。保存のための設備が行き届いています。戸を開け放さないようにしましょう。収蔵庫の中の説明書の内容も転記しておきます。

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青宇田画像石

 青宇田の画像石は、南北朝時代の末期(1390年頃)に、ここ青宇田にあったと伝えられる延命寺の僧 一道と道念ら(他5名)が、当時の浄土教の教えを絵巻物風に、板状の石に線刻したものです。その形状から磨崖仏などと同じ石仏の一種と言えますが、地獄や極楽のさまを板石数十枚にわたって線彫りしているという点では、全国的に例がなく、大変貴重なものです。
 これらの画像石は、元々、現収蔵庫後ろの崖の上にあったといわれる寺院で作成され、崖にはめ込まれていたのではないかと伝えられてきました。いつの時代からか、崖の下に安置された状態で、破片なども合わせて94枚が現存していますが、長年風雨にさらされていたため、画像の摩滅が著しく、判読が難しいものや、失われたものもあるようです。昭和33年に大分県有形文化財に指定されました。
 絵図は、当時民衆の間で広く信仰されていた浄土教の教えを経典に従って表しており、地獄や極楽のさまを示すことによって、人の生き方を戒める意味がこめられているようです。中でも菩薩達を従えて阿弥陀如来がやさしく微笑む阿弥陀來迎図や、いかめしい十王が死者を裁く様子を描いた十王庁展開図、さまよう死者たちに救いの手をさしのべ地獄の苦しみから解放する六地蔵図、人として修行の末に到達することができる最高位の聖者である阿羅漢図などは優れています。

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願文・梵字
 この画像石を製作した際のいきさつや趣旨、紀年銘などの銘文や仏に対する呪文を表した梵字を板碑に陰刻したもの。いずれも表面がすりへり、文字の読み取りが困難になっています。わずかに明徳四年十二月廿六日の紀年銘は判読されます。

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 確かに銘文はほとんど読み取れませんけれども、線彫りにて連碑を表現していることは一見してすぐ分かりました。680年以上も前のものが、これだけ残っているだけでも奇跡的ではないかと思います。しかも長い間雨ざらしになっていたのですから。見学時には手を触れたりしないように気を付けたいものです。

 写真では分かりにくいかもしれませんが、中央の石板では矩形の枠を横並びにしてめいめいに仏様が線彫りで表現してあります。特に左の仏様(立像)は状態が良好で、細かい部分までよう分かりました。

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阿羅漢図
 釈迦の教えをもとに、修行し、煩悩を断ち、知識を得て、世間の人から供養を受けるほどになった聖者たちが描かれています。経典では、これらの聖者は人としての最高位であると説かれ、阿羅漢と呼ばれます。
 ここでは、1枚の石板に3体から5体程度の阿羅漢が描かれており、全体的には、その規模から五百羅漢を描いたと考えられます。

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 説明書には「1枚の石板に3体から5体」とありましたが、その横の絵図には12体の像が描かれており、実際に石板を見ますとその絵図のとおりに12体の坐像が彫ってありました。これはいったいどうしたことでしょう、なんだか説明書の内容がちぐはぐな気がしますけれども、明らかに絵図と石板が同じ表現でありますので、この石板の説明書のはずです。委細はどうあれ、この石板が非常に素晴らしい。線彫りにてどうしても平面的な表現になり、複数の像が前後に重なるところなどはややもすると輪郭線と衣紋のしわの線などが交錯し、分かりにくくなりそうな気がします。ところがこちらは、めいめいの像の線が完全に孤立していないにも拘わらず一見してすぐ分かりますのは、よほどその配列や位置関係に留意して制作されたのでしょう。

 こちらは石造美術として優れていることは言うに及ばず、12体もの仏様が並んでいるのでほんにありがたい感じがいたします。

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六地蔵
 六道、すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界にいて、迷える人々を救済し、仏の教えに導くといわれる六人の地蔵菩薩に対する信仰は、中世以後広く民間に伝わったといわれています。地蔵の頭上の銘はそれぞれ発願者の名前が刻まれていると考えられます。

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 石板が斜めになっているのと、写真が悪いので一見して分かりづらいと思いますが、六地蔵様の立像が彫ってあります。各像の状態はすこぶる良好で、実物をご覧になればすぐ分かります。めいめいの足元の蓮の花、足の指、衣紋のひだなど細やかに表現された力作で、そのお顔の表情にはお慈悲の心がよう表れているように思います。

 この石板に6体の坐像が彫ってあります。先ほど申しました阿羅漢図よりもなお諸像が密接し一部重なっておりますのに、やはり個々の像様がはっきりわかり、線の交錯もなんのその、何の線か分かりにくいところなど全くありません。中央がくの字に断裂し、それが下段中央の仏様のお顔にかかっているのはほんにおいたわしいことでございます。

 繁雑になるので個々の説明はこの程度にしておきますが、写真のようにそれはそれはたくさんの石板が保管されており、しかも自由に見学できるようになっています。風化摩滅の著しいものもありますけれども、注意深く見れば像容の確認できるものも多々あります。このような場所は、何かのついでに立ち寄ってさっと見学を済ませる方も多いかと思います。しかしそれだと、この文化財の優れたところ・興味深いところに気付かないままになってしまいそうな気がします。画像石の見学を予定に組み入れるときには、時間に余裕を持った方がよいでしょう。

 

9 下野部の貴布祢神社

 青宇田から市街地方面に行き、最初の十字路(信号機と横断歩道あり)を右折します。五叉路に出たら折り返すように鋭角に左折して細い道に入ると近いのですが、車だと曲がりにくいので、一旦普通に左折します。カーブミラーに「←貴布祢神社」の道標をつけてくださっているので、それに従って左折すればすぐです。お宮の裏手に出ますので、左側の道を進めば正面にまわることができます。車も停められます。

 立派な鳥居と境内の環境が素晴らしく、心に残りました。つつじなどたくさんの樹木が植えられ、それらがきちんと手入れされていますし、枯れ枝ひとつ落ちていません。近隣の信仰が篤く、お世話が行き届いているようです。鬱蒼とした鎮守の森というよりは、広々と、明るい雰囲気の神社です。

 鳥居の柱には、貴布祢様(貴船様)の霊験が彫ってあります。貴船様は雨の神様、雨を降らす神様として、特に農家の方からは絶大なる信仰を集めてきました。国東半島は雨が少ない気候で、灌漑設備の幼稚な時代には度々の旱害に悩まされ、苦労が絶えなかったのでなおのことでしょう。溜池や水路の造成などにより少しずつ改善されてきましたけれども、戦後になってもなお、雨の極端に少ない年は旱害に及んだ地域もあったようです。

 火の見櫓の跡と思われる梯子段が残っています。下野部部落の中心としての地理的要素はもとより、貴船様は雨を降らす神様ですから、火災予防祈願の意味合いもあったのではないでしょうか。

 境内には立派な庚申塔が立っています。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏
元禄拾四年 巳■六月四日

 これは素晴らしい。わたしの身長と同程度か少し高い程度であったので、総高180cmほどでありましょう。高さに比してずいぶんと薄く、据わりの悪そうな気がします。今は下部を接合していますので倒壊の虞はありませんが、後ろからつっかい棒をなんかけてあります。大きめの笠も存在感があってよいと思います。

 碑面のほぼ中央に帯状の仕切りを設けて、上下を分かちます。夫々の区画の側面にはへりがありませんので、諸像の存在感が引き立っています。主尊は腕の付け根や脚の長さなどがちぐはぐです。けれどもその個性的な像様が印象深うございますし、強そうな雰囲気も感じられました。童子は主尊の脇ではなく、下の区画に横並びになっています。このような配列は北浦辺の庚申塔でときどき見かけます。特にこちらはお地蔵様のような像容でほんにありがたいばかりか、頭で帯状の仕切りを支えているようにも見えまして、おいたわしいことではありませんか。

 猿や鶏は動きがあって、型にはまらないおもしろさがあります。猿はめいめいにしゃがんで向かい合い、片方は御幣を捧げ持っています。鶏は雄鶏・雌鶏で姿を違え、雄鶏はことさらに脚が長く、尾羽をピンと撥ね上げていますのでまるで孔雀を見たような優美な雰囲気です。猿も鶏も仲がよい友達のように見えます。家内安全・和合や、もっといえば地域の融和をも象徴しているのかもしれません。

 鶏の下の少し出っ張ったところには、何か文字を彫った跡が見て取れました。この部分に講員の方の名前を彫ってあったのではないでしょうか。当該箇所が破損したか何かで、下端を平らに始末して基壇に接合した可能性があります。もしそうであれば、実際にはもっと高い塔であったことでしょう。

 

今回は以上です。次回の内容は考え中です。

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