大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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南野津の名所めぐり その2(野津町)

 引き続き、南野津地区の名所旧跡を紹介します。今回は石塔類がメインです。たった3か所だけですが、興味深い石造文化財がたくさん出てきます。説明が前回の4番「田中神社」から一続きになっていますので、あわせてご覧ください。

 

5 臨川庵跡の石造物

 前回紹介した田中神社の裏から、一石づくりの桁橋で小川を渡ります。立派な橋なのですが写真を撮り忘れてしまいました。橋を渡ればすぐ臨川庵跡の境内で、正面奥に前後2列にわたって石造物がずらりと並んでいます(冒頭の写真)。左手には数基の石造物と小さな堂様が残っています。雑草が伸びておらず、地域の方のお世話が続いているようです。

 臨川庵は普現寺の末寺であった時期もあったそうです。いつ頃廃絶したのかは存じませんが、これほどたくさんの石造物があることから、往時はそれなりの規模の庵寺であったと推察されます。また、今は神社を通って行くしかありませんが、本来は別の参道があったのでしょう。

 いまから、冒頭の写真の石造物のうち、前列に並んでいるものを右から見ていきますす(後列はほとんどが墓碑です)。

 右端の御室におさまった仏様はお弘法様と思われます。台座に「四国八十八供養 奉納経」とありました。

 中央は、中のお地蔵様に対して御室が大きすぎます。本来は別の何かがおさまっていたのかもしれません。お地蔵様は優しそうなお顔立ちで、優美な立ち姿が心に残りました。その手前には石塔の残部(宝珠)が安置されています。また、この御室の屋根の突端を見ますと、宝篋印塔の笠になっています。これも後家合わせで、粗末にならないように残部を組み合わせたのでしょう。

月■ 享保七■天     施主
法華妙典一字一石塔    敬白
月明 二月十一     ■■■中

 紀年銘の上、左右の隅に彫った「月■」と「月明」の意味が分かりませんでした。右上が「日■」なら月輪と日輪を文字で表現した可能性もありますが、明らかに「月■」です。法華妙典とは法華経、すなわちこの種の石塔でよう見かける「大乗妙典」と同義です。上部が尖った格好のよい自然石に矩形の彫り込みをなして銘を彫っています。

 この石幢は宝珠が破損している以外はほぼ完璧な状態を保っています。どっしりとした風格があり素晴らしい。笠は饅頭型で、なだらかな曲線が優美な雰囲気を漂わせています。そしてへりを若干張り出して、その外側にぐるりと蓮の花びらを彫っています。苔の付着と風化摩滅により写真では分かりにくいと思いますが、実物を見ればすぐ分かります。笠のこの部分に蓮の花を表現しているのは珍しいのではないでしょうか?笠の下面と龕部は別の写真で説明します。

 中台はシンプルな形状で、装飾性は皆無です。しかしながら、中台と幢身との接合部にはなかなか優れた工夫が見られます。すなわち、中台の下端の径と幢身の径を合わせるために、幢身の側をゆるやかにすぼませてあるのです。些細なことですが、この部分の工夫により先ほど申しましたどっしりと重厚な風格がよう表れていると思います。基壇も円形で、一段造り出しています。

 紀年銘を読み取れませんでしたが、『野津町の文化財』によりますと天文十七年八月吉祥日の銘があるそうです。すなわち1548年、いまから475年も前の造立です!

 笠の下面をご覧ください。垂木を碁盤縞に表現してあり、ちょうど神社の建物の組物のような手の込んだお細工を想起させます。内刳りをそれなりに深くとってあり、そのきわのところに段差をつけて、この部分をくっきりと仕立ててあります。

 龕部は八角で、わりあい高さがありますので笠の内刳り分を差し引いても大きく露出しています。六地蔵様と二王様を彫ってあり、めいめいの像はレリーフ状の表現で立体感に乏しいものの、よう見ますと細部まで細かく表現されていることがわかります。しかしながら下部(蓮台)は傷みが進んでいるようです。これは造立年が古いことと、上の方に比べますとやはり笠から離れているぶん、雨風の影響を受けやすいのでしょう。

 お地蔵様はみんな所作が違います。特にこの面のお地蔵様は少し斜め向きで、小首をかしげて立つ様子が印象深うございます。失礼ながら、なんだか可愛らしい感じがして私の好きなお地蔵様です。お顔の表情も優しく、にっこりと微笑んでいます。

 二王様は傷みが進み、やはり半分から下が特に分かりづらくなっているのが惜しまれます。左の像は、右を向き、左手で何かを高く掲げて虚空を見上げています。この種の表現ははじめて見た気がします。型にはまらない、自由な発想力とそれを具現化する力量があればこそであり、石工さんの表現力を感じました。右の像は閻魔様と思われ、よう見かけるタイプの表現です。上には天蓋も見受けられ、お顔立ちも威厳に満ちています。

元文四己未天   施主
大乘妙典一字一石塔
二月吉祥日    ■大■

 この塔は銘を彫った区画の彫り込みのへりがやや粗削りな感じがしますけれども、尖端の三角形にした部分は丁寧にこしらえています。

 この塔は火袋の壊れた石灯籠です。基壇の造りからして違いますが、残部を見たときに石幢との区別として最も分かり易いのは、竿の半ばに入ったくびれです。石幢の幢身にはこれがありません。蓮坐を伴う中台はなかなか手の込んだ造りになっています。破損が惜しまれます。

 後ろに立っているのは三世万霊等で、無縁供養のために造立されたと考えられます。

日輪當午經 一石一字
延享四丁卯年二月廿六日 ※卯は異体字
田中村 施之 与平治

 日輪当午経とは何ぞやと思いましたら、法華経のことだそうです。『佐伯史談216号』に、史談会による説明が載っています。それによれば、この「當午」の文言が彫ってある石塔は少なく、臨川庵のほかには大入島、上堅田、切畑など南海部地方に数基あるそうですが、私はまだ見たことがありません。

 それにしても、この一字一石塔は銘が珍しいうえに、大型の角塔婆にて非常に立派な造りです。これで境内の一字一石塔は3基目です。あとで紹介しますがもう1基見つけましたので、少なくとも4基はあるということです。その造立の過程を考えますと、手ごろな大きさの平石を川原からたくさん拾い集めるだけでも一苦労ですし、その全てをきれいに洗って乾かし、1つの石にお経の1文字を書いては拝みを繰り返し、文字を書いたたくさんの小石をうずめてその上に塔を立てるのですから、並大抵のことではないでしょう。よほどの信心によるものです。

青面金剛現在 ※在は異体字

 「現」の下は初めて見る文字でしたが、調べたところ「在」の異体字のようです。「青面金剛現在」という銘の庚申塔はよそで見た覚えがなく、検索しても1件も引っ掛かりませんでした。どのような意味でしょうか。この「現在」とは三世のうちの現在でしょうから、現世安穏といった意味合いなのかもしれません。

經王石字塔

 経王とは大乗妙典すなわち法華経のことでしょう。この一字一石塔は今まで紹介した3基とは違い、上の方が龕になっています。この部分に厨子が納まっていますが、その中は空になっていました。笠や基壇(矩形の蓮坐)など、手の込んだ造りです。

安永八己亥四月日
施主原田佐源太

 側面には銘文が彫ってあり、容易に読み取れます。「四月日」という表記は一般的なのでしょうか。月のうしろに、日付の数字を省いてすぐ「日」がきています。朔日の意味でしょうか? 立派な宝珠にも注目してください。

 

6 上細枝の石造物(道路端)

 田中神社を右に見て、道なりに進みます。一山越したら大字東谷は細枝部落です。上組の家並みの中ほど、防火水槽の後ろに石幢をはじめとする石造物がたくさん並んでいます。道路から見えるのですぐ分かります。車はこの少し手前の、上細枝バス停のところが少し広くなっていますので、バスの時刻を確認して迷惑にならないようなら少し停めてもよいでしょう。

 このようにずらりと並んでおり、壮観です。めいめいにはきちんと花立てがあり、近隣の方の信仰・お世話が続いているようです。細枝部落には石造文化財が多く、今回は行き当たらなかったのですが打睡庵跡をはじめとして、方々に石幢や庚申塔、宝篋印塔などいろいろな石塔が残っています。区別のために、項目名に「道路端」と付記しました。

 私はこの場所が打睡跡と思うておりましたが、勘違いであったことが帰宅後に分かりました。この場所の石造物は「上細枝の石造物」として市の史跡に指定されていますが、『野津町の文化財』には掲載がありません。臼杵市のウェブサイトを見ても夫々の石造物の詳細は説明がなかったので、石幢の造立年は不明です。

 さて、この石幢はどっしりとした塔身をはじめとして椎茸のような大型の饅頭笠、火焔を伴う宝珠など全体的に形がよう整うた優秀作です。しかしながら笠の一部を大きく破損しているのが惜しまれます。石幢の笠が大破している場合、その部分が裏側になるようにしてあるのを今まであちこちで見かけてきました。こちらも例に漏れず、破損個所は後ろ側になっています。

 龕部には六地蔵様と二王様が彫ってあります。しかし、八角柱というよりは円柱に近くなっています。それは、龕部の下端は角を立てて八角になているものの、上端は笠に差し込むために各面を膨らまして円柱に収斂しているためです。お地蔵様は風化摩滅のためか、お顔がひどく傷んでいる例が目立ち、おいたわしい限りです。二王さまはそこまで傷んでいないことから、お地蔵様の破損は意図的なものである可能性もあります。二王様は細かい彫りが見事なもので、特に袖のふくらみなど自然な表現でよいと思います。お地蔵様も元は細やかな彫りであったのでしょう。

(中左)
寛延四未天
三界萬靈 ※靈は異体字
七月■日

(中右)
大乘
 一石一字塔
妙典

 三界万霊とは優美な舟形で、それなりに大きさもあり立派な造りです。残念ながら中央をナタで切ったように折れた痕がありますが、ほとんどずれることなく上手に修復してあります。

 一字一石塔の方は南海部方面で盛んに見かけるタイプです。上の仏様の頭部は、別石ですげ替えてあります。首のなくなった仏様を見かねて、どなたかが新しい頭部を奉納されたのでしょう。失礼ながら接合部やその表情に違和感を禁じ得ませんが、その背景にある素朴な信仰心に胸を打たれました。台座の側面には長い銘文が彫ってあります。読み取りは省きます。

庚申塔講中

 銘が中央より下に偏っています。塔の上の方は破損しているようにも見えますけれども、もしこれが破損であるならば、「庚」の字はもっと上の方に彫ってありそうな気がします。えぐれているところをよけて銘が始まっているのですから、これは破損というよりはもともと、上の方は不整形であったのではないでしょうか。

延享四年
庚申塔
正月廿九日

 上の方に、瑞雲か幕か迷うような部分があります。これが瑞雲だとすれば、現状では日輪・月輪は見えません。雲に隠れているか、消えたか、さてどちらでしょう。「塔」の字の下には図案化を極めた蓮の花を大きく彫ってあります。小さな文字塔ではありますけれども、なかなか存在感のある庚申様です。

 

7 細枝の石幢(道路端)

 細枝公民館を過ぎてなおも進めば、道路右側に石幢が立っています。すぐ分かります。車はすぐ前に停められます。

 この石幢はスラリと背が高くて、スマートな感じがいたします。特に宝珠の形がよく、立派な火焔が目立っています。ただ、惜しむらくは龕部の径が小さすぎるところです。もう少し径の大きい龕部の方が、バランスがとれがのではないでしょうか。なんだか、この部分だけほっそりしている気がするのです。笠がやや傾いているのも、龕部の細さに関係があるのかもしれません。とはいえ、全体的な状態としてはまずまず良好な部類といえましょう。

 龕部は円柱状になっており、六地蔵様と二王様が彫ってあります。めいめいの像は沈め彫りにて、本来であればその境界のへりが角をなして八角形に近かったと思われます。ところが諸像の輪郭線が分かる程度にまで風化が進んだ関係で、角が取れて円柱に近くなっているのです。

 よしお姿が薄れてきたとて、道路端にあっていつでも地域を、また道行く人を見守ってくださるありがたいお地蔵様でございます。これからも粗末になることなく、また災害などで壊れたりすることなく残ってほしいものです。

 

○ 前河内の子守唄

 前河内で唄われた子守唄(寝させ唄)を紹介します。この唄の類型は県内各地に伝わっておりますが、ここに紹介するものは方言がたくさん入っています。

〽ほらほら眠れ 眠れよ
 眠らにゃくゎんくゎんが食いつくぞ
 お前の親たちゃどこ行った
 あの山越えち畑(はた)行った
 畑の土産になにゅ貰うた
 お芋の掘り割り 柿の実か
 ようき取っち戻っち来るぞ
 いっときこらえち眠らんし
 くねんでしこしゃ何と鳴いた
 眠らん子がおったりゃ連れちくぞ
 はやく眠れ眠れよ

(註)
くゎんくゎん=おばけ
大分県の広範囲で、昔は「か」と「くゎ」を区別して発音していました(たとえば火事と家事は発音が違っていました)。私は子供の頃にお年寄りの言葉で聞いたことがありますが、遠い昔の思い出です。今はまず聞かれません。
なにゅ(なにゅう)=なにを 「~う」は「~を」の意味です。
ようき=ようけ(たくさん)
眠らんし=眠らんせ(お眠りなさい)
くね=「くね揺すり」のおばけ
でしこしゃ=子分たちは
おったりゃ=いたなら

 

今回は以上です。先月に野津市地区および南野津地区をめぐった分を、6本の記事にまとめました。野津町の記事はこれで一旦お休みです。次回からは国東半島周辺の記事がしばらく続きそうです。

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