北杵築の名所・文化財 その8(杵築市)

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 北杵築シリーズの続きです。今回はすべて大字岩谷(いわや)の名所・文化財で、下記の内容です。

27 岩谷について

28 高平の庚申塔

29 尾迫の山神社

30 尾迫の庚申塔(上)

31 尾迫池

 27 岩谷について

 大字岩谷は高山川の上流域に位置する地域でありまして、狭い谷筋に沿う段丘上にいくつかの集落が点在しています。鴨川から岩谷を通って城ヶ谷(じょうがたに)を越え西安岐は山浦に至る峠道(県道成仏杵築線)は、昔、国東半島の内陸部から杵築に来られる方が盛んに通行された道で、今もバス路線になっております。この道に沿うて集落名を申しますと、下から筒木(うつろぎ)、高平(たかひら)、岩谷、川平(かわひら)、尾迫(おさこ)です。このうち尾迫は三尾平や松村に比肩する高所にて、市街地を遠く離れ全くもって別天地の感がございます。

 ところで旧北杵築村は速見郡に属しておりましたが、大字岩谷については、峠の杵築側でありますが大昔(町村制施行以前)は東国東郡であったとのことです。そして、その頃は「岩屋」の用字であったそうです。鴨川から登っていきますとちょうど大字岩谷に入る辺りから谷筋が急になってまいりまして、特に字岩谷より上は曲がりくねった急な山道でありますので「岩谷」の用字に何の違和感も覚えたことがなかったのですが、考えてみますと「岩谷」を「いわたに」でなく「いわや」と読むのは所謂湯桶読みで、いささか不自然ではございます。「岩屋」の用字に何か不都合があって変更する際に、読みに不自然さはあっても地形からあえて「岩谷」としたのでしょう。その経緯は不明ですが、もしかしたら国東の「岩屋」と同じ用字では紛らわしく、行政管理上何かと不都合があったのかもしれません。

 ともあれ、大字岩谷には観光名所的なところはございませんが、石造文化財や史蹟はそれなりにございます。中でも筒木から川平にかけての尾根筋に残るいくつかの積石塚の集まりは、興味関心のおありの方から長く注目されてきたそうです。一般に「おんどろ屋敷」などと申しまして、渡来人の居住地跡であるとか、たたら製鉄に関する集団の遺蹟だなどいろいろの説がまことしやかに囁かれましたが、未だ定説を得ていない、謎の遺構であるとのことです。

 正体不明ではありますけれどもこのような史蹟が見られる以上、大字岩谷はかなり古くから拓かれていた地域であるといえましょう。もしかしたら私達の知らない遺蹟が、ほかにも眠っているかもしれません。古代のロマンから中近世の石造文化財まで、まったく岩谷という地域には底知れぬ奥深さがあるといえましょう。しかも、急傾斜の棚田やみかん園、そして山奥に築かれた溜池など、国東半島の農業文化の特徴的な景観も多く見られます。今から、その一部ではありますけれども、ここに紹介していきたいと思います。

 

28 高平の庚申塔

  鴨川から高山川に沿うて県道(成仏杵築線)を登っていきます。大鴨川を過ぎ、左に筒木入口を過ぎ、道なりに橋を渡り高山川左岸に移ってすぐ、「高平」の白看板があります。右折し坂道を上がり、右手に大鴨川池を見てから2つ目のカーブミラーのある三叉路の手前、路肩が広くなっているところに駐車します。三叉路の少し先、右手に細い坂道がありますから折り返すようにその道を下り、道なりに竹藪の中を進みます。浅い掘割状になっているところを辿っていくと、右側に庚申塔が見えてきます(冒頭の写真)。竹が折れたりしてやや荒れ気味ですが、距離は短いので容易に到達できます。 

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青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、1邪鬼

 逆光にて写真が悪く、わかりにくいと思います。風化が進みつつあり、特に主尊の姿が曖昧になってきているのが残念でありますが、碑面いっぱいに諸像を配した豪華な感じの塔でございます。金剛さんは、まるで三角帽子をかぶっているように見えます。腕が3対上下に並んで表現されておりまして、ちょうど体前の箇所が傷んでいるからかもしれませんが、あたかも昆虫の腕のように体の真横に縦一列に並んで生えているように見えるのがおもしろいではありませんか。金剛さんに踏みつけられた邪鬼は犬のような姿で、目を大きく見開いてギャフンと観念した様子です。お坊さんのような童子は、その厳しい表情が印象に残ります。猿と鶏は下の方に小さく収まり、仲良く並んでとても微笑ましい雰囲気がございます。

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 横から見ますと、笠がずいぶんアンバランスです。寛政十二天の銘がございます。西暦1800年、今から220年ほど前の造立です。その頃は、高平の村はどんな様子だったのでしょうか。

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 すぐ横にあるお手水です。こちらは文政の「政」が異体字になって、正と攵が上下になっています。このような字体は初めてみたのですが、峰を峯と書いたりするのと同じことでしょう。

 

29 尾迫の山神社

 高平から県道に返り、急傾斜の岩谷集落を過ぎますとほどなく左手に川平入口を見て、それから先はいよいよ人家も途絶えて七折八折の大ホキ道をオイサオイサの首尾でございまして、昔は頼りない道幅に反り上がった岩尾の今や落ちかからんと肝を冷やすを常としたものでありましたが、今は若干の改修がなされましたので安心して通行できます。この谷筋を登り詰め、いよいよ城ヶ谷にかかる手前、左手に尾迫林道が分かれています。尾迫の集落へはこの林道を行きます。しばらく進んでいくと、道路端に小さな山神社がございます。

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 こちらが尾迫の山神社です。まるで堂様のような建物で鳥居もございません。おそらく元の社殿が傷んで、新たに建て直されたものでありましょう。社地を道路にとられたようです。この裏手にはいくつかの石祠などの石造物が見られますほか、立派なお弘法様の石造もございます(写真の上の方やや右寄りに小さく写っています)。こちらのお弘法様は、元は裏山の中腹に祀られていたものを用地が崩れて、こちらに下ろされたものとのことです。下の道路を通行する方を見守ってくださいますし、お参りも容易になり、山の中に置き去りにもならでほんにようございました。建物の右側、谷川に沿うて奥まで行き、折り返すように登ればお弘法様のすぐ近くまで上がることもできます。

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30 尾迫の庚申塔(上)

 尾迫というところほんの10軒程度の小さな集落ですが、庚申塔が2基もございます。そのうち手前(県道寄り)の塔には行き当たりませんでしたので、奥の塔を紹介します。2つの塔について、講組の別によるものであるのか、または講組は同じであるが2か所にそれぞれ造立したのかが分かりませんでしたので、一応、奥の塔を仮に「尾迫の庚申塔(上)」といたしました。

  山神社を過ぎて道なりに行くと、道路沿いに民家が数軒寄り集まっています。その先は飛び飛びに2軒ほどございまして、いよいよ奥詰めに2~3軒程度寄り集まっているところに、庚申塔(上)がございます。道路から竹藪に少し上がったところで、すぐわかると思います。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 残念なことに倒れてしまっていますが、仰向けの状態でありますので碑面に傷みが生じていないのが幸いです。碑面の状態はすこぶる良好で、諸像の姿がくっきりと分かります。金剛さんは写実的な表現で、手足の様子などまったく違和感がございません。纏うた天衣の中ほどが日月に接して、まるで雷様のように見えるのがおもしろいではありませんか。童子はごく小さく表現されており、これは主尊の堂々たる立ち姿を強調する意図があってのことと思われます。向かって右側の童子は、まるで金剛さんに取りすがるようにやや内向きになっていて、かわいらしい感じがいたします。鶏と猿は仲良く一列に並び、特に猿は横向きで表現されているのがおもしろうございます。

 過疎化で軒数が減ったとはいえ、この狭い谷筋・奥山にありましては、昔の軒数も知れたものでありましょうに、このような立派な庚申塔を造立するとはよほどの信心によるものでしょう。今も、この尾迫の村を守ってくださる庚申様。よしお座がやまったとて、地域の方に忘れられることなく、こうして立派に祀られております。わたくしは部外の者でございますが、山家の小集落でこういった庚申様や弘法様を拝見するたびに、その集落の安泰とお住いの方(特におじいさんおばあさん)のご健康を願うて手を合わせております。

 

31 尾迫池

 尾迫の奥詰めに、農業用水の溜池がございます。こちらは高山川流域のうちもっとも高所に位置する溜池で、高山川の源流といってもよいでしょう。この池がなければ、尾迫の耕地は天水がかりになってしまいます。

 ところで、昔は重機などありませんでしたので、池の造成はもとより年に1度の池普請も全くもって人海戦術にて行っていたというエピソードが方々で聞かれます。コンクリを打っていない昔の土手は、年に1回は修繕しないと漏水がひどくなり、崩れたらたちまち大洪水を起こしてしまいます。それで池の水を抜き、樋口周辺など傷んだところをわざと壊して普請をしました。池がかりの村人が総出で、男性はモッコ等で土を運び、女性は杵をとり一列に並び、木遣音頭や池普請唄で拍子を揃えながら搗き固めるというたいへんな重労働です。多分に漏れず尾迫池も同様であったと思われますが、この小さな村にあってどのようにして池普請の働き手を確保したのでしょうか。他村(川平や岩谷など)の人を雇うほどの余裕があったとも思えませんし、このことは大きな疑問として私の中に残り、今なお確からしい答えに行き当たっておりません。

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 今は、池の土手が車道になっています。普通自動車の通行には問題ない幅がありますが、土手を渡る道の運転はどうにも緊張してしまいます。どこにでもあるような池ではありますが、のどかな風景が広がる、好きな場所です。特に秋の夕方など、何ともいえないよさがございます。

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  尾迫池を過ぎると舗装が途切れます。このまま行けば払川(波多方峠方面)に出られるのですが、看板のとおり自動車の通行は困難です。なお、この近くから左にとれば筒木方面に至る山越の道がありますが、そちらも車は通られません。現状、尾迫の谷は袋小路になっていると言えましょう。

 

岩谷には、ほかにも東山神社、筒木の弘法様、川平の庚申塔、岩谷の庚申塔などがございますが、まだ探訪できていません。北杵築シリーズは当分お休みとしますが、大片平方面にもかなりの抜けがございますので、いつかまた紹介したいと思います。