大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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石垣の名所めぐり その2(別府市)

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 石垣地区のうち、堀田(ほりた)から観海寺にかけての路傍にたくさんの石造物が残っています。その中から、今回は庚申塔を中心に紹介します。

 

5 宗像掃部陣所跡の庚申塔 

 杉乃井ホテルの前の道を堀田方面に行きます。高速道路を跨いですぐ、道路右側に庚申塔や地蔵様などたくさんの石造物が寄せられています。こちらが宗像掃部陣所跡で、字を御堂原(みどうばる)と申します。御堂原の地名から、このあたりに堂様があったのでしょう。そちらに祀られていた石造物が、堂が崩れたか道路拡幅等にかかったかで、こちらに寄せられたのではないでしょうか。

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 この場所からは豊後横灘を眼下に国東半島や佐賀関の煙突まで見晴らし、見返れば鶴見山や扇山を負うて、まことに眺望絶佳でございます。景勝を紹介した説明板には、こちらの由来が記されています。

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 慶長5年(1600)旧暦9月13日、別府の扇状地を舞台に黒田官兵衛の軍勢と旧領回復を目指す大友義統の軍勢との間で、激しい戦いがありました。石垣原合戦と呼ばれるこの戦いは、関ヶ原合戦の2日前に両軍が激突し、黒田軍の勝利で終結しました。

 黒田郡は、加来殿山および実相寺山に布陣し、七ツ石から南立石公園周辺の一帯が激戦地であったと伝えられています。

 宗像掃部は、大友氏の旧臣で主家改易後、岡城主の中川秀成のもとに属していました。大友義統が旧領回復を目指し別府の地へ上陸すると、同じく中川氏に属していた田原紹認と共に駆けつけ、この御堂原の台地に布陣しました。9月13日の合戦では、大友軍の主力として戦い奮戦しますが、激戦の中で討死したと伝えられています。

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 石垣原の合戦は盆口説になり、昔から三つ拍子(蹴っつらかし)の節で盛んに口説かれていました。緊迫した内容が三つ拍子の急調子にぴったりでありますので、「盆の十六日おばんかていたら、茄子切りかけ不老の煮しめ」云々の文句と同様に、広く人口に膾炙したものです。別府では市街地の拡大に伴い旧来の盆口説が下火になっていますが、今なお三つ拍子の新調「ヤッチキ」の節にてその一部のみですが唄われていますので、聞き覚えのある方も多いと思います。

 それにしても、全くの農村地帯であったこの地域における合戦は、住民にとっては大迷惑であったことと思います。ただでさえ年貢の供出に苦労していたでしょうに、かてて加えて領地がどうのこうのといった戦に巻き込まれてはまったく踏んだり蹴ったりではありませんか。それなのに武将の名と戦の様子のみ語り継がれるばかりで、その蔭にはたくさんの人々の迷惑・泣きの涙があったということが忘れられがちです。このことは私の中に違和感と申しますか、何とも詮方なき理不尽さとして渦巻いておりましす。

 とまれ気の毒は葛にしておきまして、こちらに寄せられている石造物を順番に見ていきましょう。

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 向かって左から庚申塔庚申塔、弁天様(?)、庚申塔です。こちらの庚申塔は小型なれど丁寧な彫りで、非常に写実的に表現してあります。特に標柱等ございませんが、近隣在郷の庚申塔の中でも指折りの秀作と言えましょう。左の塔から順番に見ていきます。

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青面金剛6臂、3猿、2鶏、ショケラ

 地衣類の侵蝕が気にかかりますが、諸像の姿はよく残ります。主尊は立派な眉毛、どんぐり眼の凛々しいお顔なのに、あまり怖そうな感じがしません。まるでターバンを巻いているような髪型も含めて、なんとなく異国風の風貌でございます。腕の表現がよく工夫されており、特に中の腕を体前に回しているところの立体的な表現がごく自然で感心いたしました。下半身は提灯ブルマーのようなものを穿いているのでしょうか。ずいぶん風変りな衣紋です。そして、ふつう童子が控えているとこに鶏が刻まれており、この鶏がそっぽを向いているのがおもしろいところです。金剛さんの左右に控えて周りを警戒しているようにも見えますが、まるで金剛さんにへそを曲げているようにも感じられます。猿は蹲踞座りにて向かって左から言わざる・聞かざる・見ざるの姿勢です。

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 金剛さんの帷子が、おちょうちょ(よだれかけ)のようです。ショケラの顔を見てください。髪の毛を掴まれて宙吊りになっているのにとても楽しそうな笑顔で、親にあやされている乳呑児のようではありませんか。儀軌に逸脱しますが、もしかしたら庚申塔に子安観音的な霊験をも期待して、わざとショケラをこのように表現したのかもしれません。

 たまたま見かけた石造物の集まりの中に、まさかこのように個性的な庚申塔があるとは思いもよりませんで、たいへん驚きましたとともに楽しい気持になりました。像容の奇抜さのみならで丁寧な彫り、写実的なお顔など、文化財指定されてもおかしくないほどの塔です。

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青面金剛6臂、1猿、1鶏、ショケラ

 隣の塔とは打って変わって、直視できないほどの非常に厳めしい顔つきです。目のつり上がり方が半端なものではなく、ひと睨みされたら石にでもなってしまいそうなほどであります。腕は、上の手を体前に回すことで、「付け根問題」を軽々とクリアして全く違和感がございません。細かく前後差をつけて、立体的に表現しています。衣紋の細やかな表現が見事ではありませんか。特に右手に、ひらひらとしたところをちょいと引っかけているのがよいと思います。そのまま裳裾まで下がり、美しいカーブを描いています。ショケラは髪を鷲掴みにされてぶら下がり、体をくの字に曲げてたいへん苦しそうな様子で息があるのかないのか、なんともお気の毒な姿でございます。最下段では猿と鶏が向かい合うています。この部分のみやや傷んできていますが、全体的に良好な保存状態ですし、均整のとれたデザイン、彫りの細やかさなど非の打ちどころのない秀作といえましょう。

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 こちらの塔は折損の痕が痛々しく、全体的に風化の傾向にあるのが残念です。琵琶を持っていることから、弁天様と思われます。国東半島に、弁天様を主尊に置いた庚申塔が僅かに数基残っております。ですからこちらの塔ももしかしたら庚申塔なのかもしれませんが、日月や猿、鶏などを伴わないため判断がつきませんでした。庚申塔ではなく、近隣の用水の安全・水不足の予防を願うての弁天様なのかもしれません。よく見ますとずいぶん細やかな彫りで表現されておりますから、元々はかなりの完成度のものであったのではないでしょうか。

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青面金剛6臂、1猿、1鶏、ショケラ

 残念なことに破損しており、主尊のお顔がわかりません。でも残部が、向かって左から2番目の、怖いお顔の庚申塔とほぼ同じデザインでありますので、どんなお顔であったか察しがつきます。

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 たいへん大きくて立派なお不動様です。こちらに数多く寄せられている石造物の中でも、特によく目立ちます。単に大きいだけではなくてデザインが整っており、顔つきや背面の火焔など見事な表現ではありませんか。彩色が鮮やかで、最初見たときあまり古いものではないのかなと思いましたが、明治30年代のものです。下部に「征露軍人紀念塔」とあります。日露戦争に関連するものであり、多くの寄附が集まったのでしょう。

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 お不動様の後ろには庚申塔(文字塔)がたくさん寄せられています。ほとんどの字が消えてしまっており僅かに墨書の名残をとどめるのみで、銘はよくわかりませんでした。

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 先ほどの、4基並んだ庚申塔・弁天様と向かい合うようにして並んでいるお観音様・お地蔵様です。向かって左の千手観音様が特に立派ですが残念なことに上部が折損しています。お顔の破損を惜しんで修復を試みた痕がありますが、あまり丁寧な仕上げではありません。でも、素朴な信仰心でもって、精一杯の手直しをされたのでしょう。写真では分かりにくいのですが体の左右に、手の平をたくさん縦に並べる形で表現されています。前に紹介した杵築市「観音渕」の千手観音様と同じような表演です。

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 六地蔵様には、石造の立派な覆い屋が設けられています。よく墓地の入口で、野ざらしに立っている六地蔵様。このように覆い屋をかけている例は珍しいのではないでしょうか。六地蔵様は六道、死後の世界に至る私達を救済してくださるありがたい仏様です。ぬいぐるみのお供えも何か意味があるのでしょうか。

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  こちらは寄附者のお名前をずらりと刻んだ碑で、上部に「尊王民」とあります。お不動さんの造立時に寄附をされた方でありましょう。

 以上、宗像掃部陣所跡の石造物を紹介しました。庚申塔を中心にいろいろな種類の石造物が多数寄せられているうえに、そのどれもが個性的かつ立派な造形であります。道路端にて簡単に立ち寄れますので、みなさんにお勧めしたい場所です。

 

6 白糸の滝と庚申塔

 宗像掃部の陣所跡のところから右に折れて、一旦下の広い道路に出ます。下の道に出たら左折し、僅かに登ったところの道路左側に「白糸の滝温泉」の小さな看板がありあますので、そこを左折します。市営の堀田温泉の横を通り、離合のできない狭い道を上がっていきますと、左の方の岸壁に滝が見えます。こちらが白糸の滝です。「白糸の滝温泉」の反対側(道路左側)に、車1台であれば駐車できます。

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 なかなか姿のよい滝です。滝壺には近寄りがたく、遠望にて楽しまれる方がよいでしょう。別府の市街地に近い滝としては、乙原(おとばる)の滝がよく知られています。ほかに裳裾の滝(河内谷)、不動の滝(乙原)、お滝湯(明礬)、黒岩公園の滝(朝見)がございましてそれぞれ歴史のある滝ですが規模としては小さく、こちら白糸の滝が、乙原の滝に次ぐ落差です。ところで、朝見の浄水場のところから櫛下(くしげ)に上がる道の途中に六枚屏風という景勝地がございます。高速道路の工事で景観が損なわれましたが、昔は別府名所として知られており杖を曳く方も多かったそうです。その六枚屏風の麓に鮎帰の滝という滝があったのですが、貯水池の造成により失われてしまいました。それなりの規模であったようで、戦前の絵地図や名所案内によく掲載されておりますほか絵葉書も残っております。反対に白糸の滝は古い名所案内には載っていませんし、今のところ絵葉書も見たことがありません。よい滝ですのに、どうしてでしょうか。

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 白糸の滝温泉の向かい側から少し細道を入ったところに、庚申塔と石仏が安置されています。こちらは近隣の方の信仰が続いているようで、いつもお賽銭があがっています。細道は山手の方に続いています。きっと昔の生活道路なのでしょう。

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 青面金剛6臂、ショケラ

 童子も猿も鶏もない、主尊と日月・瑞雲のみのごくシンプルな刻像塔です。舟形の碑面と主尊のバランスがよく、全体的に均整のとれたデザインです。お顔を見ますと目がつり上がっていて厳しい表情に見えますけれども、ほうれい線の目立つお顔立ちにはどことなく親しみやすさも感じられまして、宗像掃部の陣所跡にある怖い顔の庚申塔とはまるで雰囲気が異なります。実に堂々とした立ち姿ではありませんか。彫りが浅いところもあり、弓や宝珠、ショケラは不鮮明になっています。「天保三辰三月吉日」の銘があります。190年前から堀田の里を守ってくださっている、ありがたい庚申様でございます。

 

7 昔の堀田

 堀田温泉の戦前の絵葉書を1枚だけ持っているので紹介します。

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  右下から反時計回りに、堀田温泉、由布岳、市街地の景観、扇山、石垣原古戦場です。由布岳や扇山は堀田温泉とは無関係ですが、ちょうど温泉のところから遠望できる景勝地ですので「堀田温泉からの眺め」として紹介されているのでしょう。今は立ち寄り湯のみでありますが、昔の堀田温泉には数軒の旅館もあったそうです。この界隈は道路の新設・拡幅および高速道路の開通により景観の変化が著しいものの、白糸の滝あたりまで上がれば田んぼや畑の広がるのどかな風景が僅かに残っています。今回紹介した以外にも、たくさんの名所旧跡・文化財や古い神社、堂様などがありそうなところで、またいつか探訪したいと思っております。

 

今回は以上です。浜脇・朝見・乙原・観海寺・堀田を結ぶ山際の道路に沿うて、名所旧跡が数多くございます。その中から堀田温泉界隈の名所旧跡を紹介しました。