大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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夷の名所・文化財 その4(香々地町)

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 引き続き夷谷の名所・文化財を紹介します。今回は西夷の谷から蓑払・カンガ峠・西狩場界隈を取り上げます。このうち西狩場については以前「ウドンマエの庚申塔」の記事で一部を紹介しましたが、今回改めて紹介するものです。西夷の谷にはあまり観光の方は訪れないようですが、名所旧跡・文化財の密度は東夷にひけをとりません。特に石造文化財に興味のある方にはおすすめの場所でございます。

 

9 兄弟割石(西)

  中山仙境登り口、東西夷の追分を右にとりまして西夷の谷を上っていきますと、道路の右側に大きな岩が見えます。これが西の兄弟割石です。この辺りは蓑払(みのばらい)地区で、小字を割石と申します。東夷は旧霊仙寺墓地上り口のところにも同様の割石がございまして、どちら兄やら弟やら、ともかくこの割石は夷谷を象徴する景物として古くから親しまれております。 

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  立派な注連縄がかかっています。この注連縄は地域の方のお手製で、大勢でかけ替え作業をされているそうです。ですからいつも立派なシメがかかっているのです。

○兄弟割石の伝承

・東の割石が雉を食えば西の割石は人を食い、東の割石が人を食えば西の割石は雉を
食う。

・東西の割石の隙間は、中山仙境の地下を通って繋がっている。中に入ってしまうと、出ようとした方の割石の割れ目が狭まり、二度と出られなくなる。西の割石に落ちた人が外に出られず亡くなってしまい、その人のお墓が傍に立っている。

 このお話で思い出したのが、昔テレビ番組で見た、都市部の塀と塀の狭い隙間を鬼ごっこか何かで通り抜けようとした子供が出られなくなった話です。割石は恰好の遊び場になりそうです。事故を懼れて子供を近寄らせないようにとどなたかが大昔に考えたお話が、今に伝わっているのではないでしょうか。

 

10 カンガ峠

 兄弟割石を過ぎると、三叉路のところに1軒だけ民家が見えます。これを左折すれば西狩場に至りますが、先にカンガ峠を目指します。三叉路を直進しますと家はなく、次第に山越道の様相を呈してまいります。道路の左右には棚田跡が広がっています。最初の右カーブを曲がり、道路右側のガードレールが途切れたところから右の田んぼ跡を進んだところに庚申塔があります。自動車は、この入口を通り過ぎて左カーブを曲がった先にて路肩が広くなっていますので、邪魔にならないところに停めて歩いて戻ってください。

 ガードレールの切れたところから田んぼの跡に入って、車道と並行気味に奥に向かいます。イゼを跨いで進み、奥の崖上に庚申塔が立っています。塔の前の小道は、おそらく車道が開通する以前の旧道でありましょう。入口からほど近いので、適当に進んでいけばすぐわかると思います。

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 辺りは薄暗く、塔が後ろに傾いているうえに正面の余地がごく狭いため、写真を上手に撮ることができませんでした。付近の棚田はとうに耕作放棄されており、通う人もない旧道沿いにぽつんと忘れられたように立ち続ける庚申様です。

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青面金剛6臂、2猿、2鶏

 倒れたことがあるのでしょうか、折損の跡が痛々しいものの、諸像の姿は比較的よく残っています。これに似通ったデザインの塔が香々地町国見町に何基か見られます。夷谷に限って申しますと塔ノ本、横岳、白禿の3基は、これとよく似ています。ほかに国見町では伊美の清正公様や櫛海越などにも、似た塔がございます。このように似たデザインの塔がそれなりの数見られると申しましても、その分布は国見町香々地町に限られているのです。同一の作者によるものかは分かりませんが、これらは同じグループ・仲間と見て差し支えないと考えます。所謂「異相庚申塔」(潜伏キリシタンの仮託信仰の対象物であったのではないかとの説がある塔)の一端をなしております。

 こちらの塔は、主尊が頭巾かヘルメットをかぶっているように見えます。お顔の表情は分からなくなっていますが、なんとなく優しそうな雰囲気が感じられました。右手で大きな蛇を持ち、三叉戟などほかの持ち物も大きく立派です。猿と鶏はそれぞれ向かい合うて楽しそうな様子が感じられ、全体的に諸像の表現がいきいきとした秀作でございます。異相かどうかはさておき、地域の方に長い間親しまれてきたことでしょう。今は誰も通らない棚田沿いの旧道に立ち続けるけなげさに頭の下る思いがいたしました。豊年満作や道中の安全、または悪霊・病気の退散など人々の願いを受けて、地域を見守って下さった庚申様。もう倒れることなく、どうぞご無事でと余計な心配をしてしまいました。

 庚申塔を見学したら車道に戻って、峠を目指して登っていきます。いよいよ勾配が急になり見通しが悪いので、ゆっくり進みましょう。

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  カンガ峠に着きました。舗装工事も完了し、自動車で容易に通行できます。このまま進んでいけば真玉町は大岩屋に抜けます。この道を利用すれば大岩屋・黒土・夷谷の周遊ルートを設定することができます。名所めぐりの楽しみもひとしおというわけです。峠付近の道路端にはお地蔵様などが祀られています。

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  岩壁の小さな龕の中に並んでいますので、見落とさないように気を付けてください。今回は、こちらにお参りをしたら引き返します。

 

11 西狩場の五柱大明神(釣鐘狩場の由来)

 カンガ峠からもと来た道を帰りまして、兄弟割石手前を右折して西狩場に上がります。この道は二本松越と申しまして、昔は小河内に抜けるのに盛んに利用されたそうですが、自動車が途中までしか上がれないので今は尻付山・ハジカミ山に登る方以外はほとんど通らなくなっています。

 道なりに行きますと西狩場の集落に着きます。5軒ほどの民家が残っておりますが、今は無住となっているようです。道路右側に鳥居があり、その付近に自動車を停められます。ここが五柱大明神で、西狩場の村の神社でございます。

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 立派な鳥居の奥にかわいらしい仁王像が立っています。この仁王様は規模こそ小さいものの傷みが少なく、なかなか堂々としたものです。当たり前のように神社に仁王が立っているのがいかにも国東らしいではありませんか。奥に見える拝殿は岩壁に接しておりまして、岩壁に龕をこしらえて五柱の神様の石造が祀られています。

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 燈籠の左側に、ちょうど釣鐘の形に岩が飛び出しているのがお分かりでしょうか。この岩を釣鐘岩と申します。

●釣鐘岩の伝承 …ある日、五柱大明神のすぐ下手にある松造さんの家が火事になった。晴天続きで風もあり、あれよあれよと隣家に燃え広がってしまった。そのとき、釣鐘岩がジャンジャンと鳴り、それを聞いた近隣の村の人達が加勢に来てくれて火を消し止めることができた。

 釣鐘岩の霊験か、その後は西狩場では一切火事が出ないとのことで、村人の信仰を集めているそうです。これは、おそらくこの釣鐘の形をした岩こぶを秋葉様の依代としたものでありましょう。通称地名に「釣鐘狩場」の字が残るそうです。

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  釣鐘岩の左側にある石造物です、石段を上がると、高いところにめり込むように石の御室を設けまして仏様が並んでいます。その左側に見えるのは庚申塔で、自然石に「猿田彦大神」と刻まれています。大正5年の塔とのことです。夷谷では青面金剛の刻像塔が多いものの、猿田彦大神の文字塔もそれなりの数が残っております。青面金剛から猿田彦へと移り変わったのでしょう。また道園地区には猿田彦の刻像塔も残っております。

 

12 ウドンマエの石造物(西狩場)

 五柱大明神に車を置いたまま、向かい側に並ぶ民家の下から背戸道を入りますと墓地に出ます。古いめいめい墓が並ぶ墓原です。この辺りの通称地名をウドンマエと申します。このウドとは岩屋状の地形を指す古い言葉でありまして、「ウドの前」の意でしょう。

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 お墓の入口の六地蔵様です。舟形の塔の碑面に、上下2段に分けて3体ずつ浮き彫りにしています。国東半島では、このような形の六地蔵様は珍しいと思います。まず塔の形が優美でなかなかのものですし、お地蔵さんの彫りも丁寧で、見事な造形です。とても易しそうなお顔でございます。

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 墓地の中ほどに大きな岩があります。この岩の正面を五角形に彫りくぼめて、首の折れてしまったお地蔵さんが安置されています。そのお地蔵さんに隠れるように、ごく小さな像が岩に刻まれています。この大きさの岩ですから、磨崖仏・磨崖像と見てよいでしょう。よく見ますと五角形の彫り込みには縁取りがなされています。確証はないのですが、或いは、こちらは潜伏キリシタンの仮託信仰の依代であったのではないかとの説もあるようです。

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 墓地のところから折り返すように左奥に参りますと、ポツンと庚申塔が立っています。周囲に庚申石の類は一切見られませんでした。

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青面金剛?6臂、2童子、3猿、2鶏

 見れば見るほど珍妙なデザインでございます。思えばこちらは、わたくしが庚申塔にこれほどまでに興味を持つきっかけになった塔でございます。主尊はまるで風呂上りのように、頭に手拭でも乗せているのでしょうか?大きなどんぐり眼、やせ細った体、ガニ股の脚など、宇宙人のように見えてまいります。全体としての構成(日月・三猿など)は明らかに庚申塔であるわけですが、主尊は本当に青面金剛なのかしら、「おめが様」ではないかしらなど、さきほど墓地で見かけた謎の大岩の印象も相俟っていろいろ空想が膨らみますが、詳細は分かりません。向かい合うて立つ童子の髪型の奇抜さも見逃せませんし、猿のかわいらしさも印象に残ります。そして主尊以外の像は、全てめいめいの四角い部屋の中に刻まれているのも特徴的です。

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 庚申塔のすぐ近くには、岩壁を彫りくぼめた龕の中にお地蔵さん?がございます。苔むしていますが、よく見ますと衣紋のひだや指など、とても細かい彫りで緻密に表現されています。両手で五角形のもの(絵馬か何かでしょうか)を大事そうに持っているのが気になりました。あまり見かけない表現だと思います。

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 近隣の岩壁には、このように仏様が何か所にも見られます。自然地形を利用したところもあれば、意図的に彫りくぼめたと思われる岩屋もありました。これらが「ウドンマエ」の「ウド」でありましょう。この一帯には石仏その他の石造物が甚だ多く、近隣の方の信心のほどがうかがわれました。

 

13 西狩場の金毘羅様

  庚申塔のところから墓地に返って、イゼに沿うて上手にまいります。立派な石垣をこしらえた棚田跡が上の方まで続いておりまして、今から左側の岩壁に沿うて数段あがります。石垣が緩んでいるところがありますので、よく気を付けて段差の低いところから上がってください(右の方から回り込むとよいでしょう)。

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 かなりの規模の棚田です。いつ頃まで耕作されていたのでしょうか。植林が育ってきております。

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 棚田を数段あがりますと、左側の岩壁にこのような石組が見られます。こちらが金比羅様です。この上に行く参道は明瞭ですが、よく滑りますので注意を要します。

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 小さな仁王像が立っています。小さいながらも、この急傾斜の参道の半ばにて、下から見上げるとなかなか堂々とした立ち姿ではありませんか。立地が不安定で、特に向かって左は転落が心配になりました。その上の燈籠がまた見事でございます。石垣は大小さまざまの切石をうまく組み合わせて立派にこしらえてあります。

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 石垣の上部に長い石材を配して、間隔をおいて前面に突き出した上に横長の石を配しています。この急傾斜の立地にあって、もしかしたらお祭りなどのために上部を少しでも広くしようとしたのかもしれません。すごい技術でございます。

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  金毘羅様の祠です。かわいい狛犬が並んでいます。金毘羅様は船の安全の神様のように言われていますが、昔はそれ以外のお願い事をする方もあったようです。国東半島では、海から遠く離れた山の上に金毘羅様がお祀りされているところが方々にございまして、それらの一部には山立て(※)の関係で船舶・漁業に関係のあるものも含まれましょうが、明らかに海とは無関係と思われる事例も多うございます。こちらも後者で、今となってはどういう意図で勧請したのかも分からなくなっておりますが、地域の方の信仰を集めていたようです。

※山立てとは、海上において自分の舟の位置を確認する方法です。昔、海上からよく目立つ2つ以上の山を舟の上から見て、その視線の角度などから漁場等に当たりをつけたもので、舟に乗る方には必須の技術でありました。今はGPSその他の便利なものがありますが、昔の方は親から子へとその技術を伝え、めいめいに自分の山(山立ての目印になる山)があったそうです。

 冒頭の写真は、こちらから棚田跡を見下ろした景色です。参道を下るときは転ばないように気を付けてください。落ち葉が積もっているときは杖などで予め払っておくとよいでしょう。

 この金比羅様のところよりもさらに上の方の田んぼ跡にも、適当な写真がありませんが道祖神などいくつかの石造物が確認できました。私の気付かなかった石造物もあると思います。藪に埋もれているところもあり、なんとなく寂しい雰囲気が感じられました。

 

今回は以上です。夷谷の名所旧跡はまだまだたくさんございます。ときどき別の記事も挿みながら続きを書いていこうと思っています。