東山香のシリーズは「その3」で一応最終回としたのですが、前から一度お参りをしたいと思うていた西鹿鳴越の諏訪神社を訪ねる機会を得ましたので、今までのシリーズの補遺として「その4」を書くことにしました。道順としては、国道10号から西鹿鳴越の諏訪神社を目指して、その道中の名所旧跡を順々に紹介していくことにします。なお当日は夕方に逆の順路で巡りましたので、記事前半の写真は薄暗くなってしまいました。今の時季は藪や蛇、雀蜂の心配がないものの、日が短いのが玉に瑕です。
14 白髭神社
白髭神社と申しますと近隣では大田村の白髭神社が著名ですが、東山香にも白髭神社がございます。こちらには石灯籠が29基もあり壮観です。道路から一直線に幅の広い参道が続き、ほんに気持ちがよいところです(冒頭の写真)。
道順を申します。山香市街地から国道10号を日出方面に向かい、ファミリーマートの先の切通し手前を右折して旧道を進みます。道路端に踏切がありますのでその道に右折して道なりに橋を渡って、線路(上り線と下り線が離れています)のガードの直前を左折します。坂道をぐねぐねと上り、カーブミラーある角を左折すれば道路左側に鳥居が立っています。車を停める場所は十分にあります。なお、こちらの白髭神社は元禄15年以前は今の場所ではなくて田居(八坂川べり)にあったそうですが、大水で流れてしまったので現在地(殿山)に移転したとのことです。元の場所に再建しなかったのは、再度の水害を懼れたのでしょう。
このように灯籠がずらりと並んでいて、しかも幅広の参道が一直線に続いています。写真は薄暗うございますが、もっと明るい時間帯であればなおよいでしょう。この灯籠は年代に幅があります。長い年月をかけて、一つまた一つと寄進されて今の景観になりました。
あっという間に拝殿に到着しました。壁や屋根の状態もよく、立派な造りです。お参りをして、右から回り込んでみました。
この渡り廊下のところは後年寄進されたものとのことです。このあたりにも灯籠がずらりと並んでいて、しかもその造形が一つひとつ異なりますから順々に見学して見比べてみますのも楽しいことです。
右側の摂社には狛犬が安置されています。小ぶりながらも勇ましい雰囲気がよう出た秀作であると感じました。
裏から回って左側の摂社にも狛犬が安置されています。先ほどのものと対になっているようです。
工藤九郎翁頒徳碑
白髭神社神殿寄進 昭和48年11月吉日
白髭神社の祭日は11月25日で、以前は出店が並び宮相撲も催されるなど賑やかで、毛槍ひねりの御神幸も出ていたそうです。神社前のお旅所のほか、昭和初期までは田居の元境内地や瀬口の四所神社の御旅所に出たこともあったそうですが、今は途絶えています(毛槍は保管されている由)。
15 殿山の石造物
白髭神社を過ぎて道なりに行きますと、元の道に返って突き当たります。その手前、道路右側に立派な祭壇を設けて仏様が数体並んでいました。
おそらく道路工事か何かでこの場所に集められたものでしょう。風化摩耗が進んだものもございますが、このように鄭重にお祀りされていますから今も地域の方の信仰が続いていると思われます。ありがたくお参りをさせていただきました。
16 鍛冶屋坊の地蔵堂
元の道に突き当たったら左折します。ほどなく道路左側に南部公民館がございまして、この辺りは鍛冶屋坊部落です。公民館の駐車場に車を停めて、道路の反対側を見れば堂様が建っています。堂様の周囲は以前は鬱蒼としていましたけれども、最近広範囲に亙って伐採されまして明るく広々とした場所になりました。
地蔵堂の建物は軒口のところがやや傾いてきているようにも見えましたが、コンクリートブロック造りでありますから当面、破損する心配はなさそうです。お参りをする前に、境内の石造物を確認してみます。
境内右側には祭壇をこしらえて、お弘法様の石祠が5基も並んでいました。一つひとつが、少しずつ形状を異にしています。前にも申しましたが国東半島はお弘法様の信仰が特に篤く大小さまざまの石像を方々で見かけます。山香町もやはり国東半島の文化圏でありますからお弘法様の信仰が篤かったと思われ、今も3月のお彼岸お中日にお接待を出しています(鍛冶屋坊の現状は不明)。国東半島の多くの地域が旧の3月21日にお接待を出していますので平日になることも多く、これは小学生にとっては悩みの種でございます。ところが山香では必ず学校が休みなので、朝から思う存分お参りして廻ることができます。昔からの年中行事は、元は旧暦でしていたものを新暦の月遅れに変更した事例が多うございますが、亥の子や一部地域のお接待など、子供の学校の都合や農作業の都合その他を考慮して、別の日程に変更した事例もまま見られます。
宝塔の残欠が片隅に安置されていました。もしかしたらこの種の石造物ももっとあたのかもしれません。また、この境内に庚申塔もあると聞いていたような気がしたのですけれども、見当たりませんでした。わたくしの思い違いであったと願うています。
さて、いよいよ堂様の内部でございます。あっと驚くすてきな石像が密集していますので、近くを訪れる際にはぜひお参りをされることをお勧めいたします。
いかがですか。十王像をはじめとする、多種多様な仏様がずらりと並んでいます。しかも一つひとつが形式的な彫りではなくて、表情や所作をちょっとずつ変えておりたいへん生き生きとした、今にも動きだしそうなほど写実的な表現であるのが素晴らしいと思います。
上段の右から2番目の十王様をご覧ください。ふつう、十王様と申しますとめいめいに厳めしい表情をしていそうなものを、こちらはにっこりと笑うてさても朗らかなる印象でございます。
首のとれてしまった像もございます。ほかの像も、破損した首を修復している痕跡が見受けられるものが何体かございました。遠い昔、廃仏毀釈の煽りを受けたのでしょうか。または元の堂様が傷んでいて、転倒してしまったことがあったのかもしれません。
それにしても、これだけの石像、仏様が一堂に介しているのを見ますと、この場所には伽藍跡なのではあるまいかという気がいたします。鍛冶屋坊という地名も、所謂「坊地名」でありますからいかにもそんな雰囲気がございます。
17 西鹿鳴越の道祖神
鍛冶屋坊を過ぎて道なりにどんどん上ってまいりますと、次第に高原地帯のような様相を呈してまいります。広々とした牧場が気持ちようございますし、振り返れば遥か麓に山香の町が見えます。
この辺りを西鹿鳴越(にしかなごえ)と申しまして、戦後に長野県の方が入植して拓かれた開拓地でございます。詳しくは次項に記します。なお、鹿鳴越と申しますのは山香から日出に抜ける古い峠道で、西鹿鳴越と東鹿鳴越、2つのルートがあります。このうち西鹿鳴越に比較的近いので、部落名も「西鹿鳴越」としたのでしょう。戦後に拓かれた地域なので石造文化財は乏しかろうと踏んでおりましたが、道路端に道祖神を見つけましてヤレ嬉しやと思わず手を叩いてしまいました。
重厚な石組の御室に収められた道祖神は、近隣で見かけるものとはずいぶん造形が異なります。この地域の方々の故郷である長野県で見かける形式のものなのでしょう。下部には「子孫繁栄」と彫られています。賽ノ神・交通安全の祈願のみならで、豊年満作や子孫繁栄等、この地域の安泰を願うて造立されたものでありましょう。その意味で、広い意味では近隣の庚申様と同じような目的であると思われます。
寄り添うて立つ神様の表情が優しそうで、特に左側の方が首をかしげて何か話しかけているように見える点など、言葉が適切ではないかもしれませんけれども可愛らしい雰囲気が感じられました。
18 諏訪神社
西鹿鳴越中心部の二又を左にとれば沼津(日出町藤原)の方に抜けることができます。今回はこの二股を直進して、さらに上っていきます。道なりに行けば道路左側に鳥居が立っています。国道10号からかなり標高を上げて、やっと諏訪神社に到着しました。
道路から見えるのですぐ分かります。駐車場はありませんので、この手前から左に上がって、鳥居の裏に続く車道の端に停めるとよいでしょう。車で境内まで上がることもできそうでした。
鹿鳴越諏訪神社
こちらの諏訪神社は、入植30周年にあたる昭和59年に、長野県の諏訪大社より勧請して地域住民総出で建立したとのことです。諏訪地方から入植したことを後世に伝え、この地域の発展と安泰を祈念するものであります。9月27日が祭日で、7年に1回、寅の年と申の年には御柱祭が行われています。
ゆるやかな参道は整備が行き届いており、気持ちのよい道です。花の時季はなおよいでしょう。
原野を鍬や鶴嘴で拓く開拓生活は、当初は電灯もなければ井戸もなく、たいへんなご苦労であったことと思います。今は立派に農地が拓かれて、発展を続けています。同じ大分県の仲間として、地域の産業の発展に貢献されてきた開拓地域の方々の並々ならぬ努力には頭の下がる思いですし、お蔭様という心持ちで、ありがたくお参りをさせていただきました。
今回は以上です。東山香の名所・文化財としましてはこれまで紹介した以外にも、小武の磨崖仏、御入山の庚申塔、高取の庚申塔などたくさんございます。しかし写真が全くないのと、まだ行き当たっていない場所ばかりです。このシリーズは前回で一応最終回としたものの、前言撤回してある程度写真がたまればまた続きを書きたいと思いますが、それはずいぶん先になりそうです。次回は国東町は来浦地区の名所旧跡を紹介します。