大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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諏訪の名所めぐり その3(野津原町)

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 久しぶりに諏訪シリーズの続きを書きます。これまで、第1回では大字下原は原村(はらむら)裏谷のうち都甲路(とぐろ)および台迫(でんさこ)、第2回では大字太田の火伏地蔵周辺をまわりました。それで、今回は再び大字下原の名所旧跡です。雨川(あめご)からスタートして、原村表谷経由で塩手野までまいります。道順としては、第1回とセットでご覧いただくと分かりよいと思います。

 

7 雨川入口の石仏

 野津原から国道442号を通って諏訪地区まで上ります。国道412号の分岐を右に見送って、右側の次の角を右折します。小さな橋で谷川を渡るところの右側に、コンクリートブロックでこしらえた御室の中に3体の仏様がお祀りされています(冒頭の写真)。ここは雨川部落の入口で、歩いて往来する方が多かった時代には通りすがりにたくさんの方のお参りがあったものと思われます。

 この道を直進すれば、第1回で紹介した都甲路の怒り庚申に至ります。今回はここで引き返して国道442号まで返り、三叉路を右折して先に進んでいきます。

 

8 地蔵元の石幢

 国道442号を進むと、道路左側に「笑楽庵」という飲食店があります。ここはお蕎麦や天婦羅がおいしくて、お勧めのお店です。近隣の名所旧跡を探訪される際の昼食に立ち寄ってはいかがでしょうか。石幢に行くには、この店のすぐ手前を左折します。少し進むと、右側に原村部落の公民館があります。その脇に石幢とお弘法様がございます。車は公民館の駐車場に停めさせていただくことができます。

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 地蔵元と申しますのはこの辺りのシコナで、石幢に由来するのでしょう。立派な石幢でありますが表通りからは見えづらい位置で、よほど興味関心のある方でなければ見学に訪れることはないようです。

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 この石幢は塔身(竿)がわりあいしっかりと残っているのに対して、笠がひどく傷んでいるのが気にかかります。軸がぶれていますし、以前落ちてしまったのでしょうか、欠損箇所もありました。

 なお、この塔の龕部は珍しいことに11面をなしており、10面には十王像が、残る1面には1体のお地蔵様が刻まれています。よく八角の石幢などで、六地蔵様で6面を使い、残る2面に閻魔様や十王様の一部を刻んでいるのを大野地方などで見かけます。ところが、こちらのように十王優先とでもいうべき配置をなしているものは珍しいと思います。

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 龕部の諸像も風化摩滅が著しく、その表情や衣紋などの細かい部分は分からなくなってきています。でも、最早シルエットを残すのみとなった今のお姿であっても、なんとなくありがたく、威厳に満ちた雰囲気が感じられます。

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 お弘法様の石祠は、石幢よりは新しいものです。こちらは南新四国の札所になっています。中のお弘法様は、失礼ながらとぼけた雰囲気にて愛嬌のあるお顔立ちの、ほんに親しみやすいお姿です。それに対して石祠は非常に豪勢かつものものしい印象の、さても立派な造りでありまして、特に御室の軒口の美しい曲線や唐派風のお花模様、宝珠が見事なものではありませんか。すぐ横には椿の木がありますので、花の時季は特によいでしょう。

 

9 聖観寺の石造物

 地蔵元の石幢を過ぎて、旧国道との交叉点を直進し下り坂を行きます。その坂道の半ば、右側に聖観寺の観音堂参道があって、そのかかりにお不動様と庚申塔、石灯籠が立っています。こちら側には駐車場がないのでこの参道は無視して一旦車道を下り、川べりの新道(2車線)に出る直前を右折、突き当りをまた右折しますと、正面に聖観寺の正面参道(石段)がございます。車は、この辺りの道幅が広くなっているところに邪魔にならないように停めましょう。

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 石段の下にもいくつかの石造物が点在しています。こちらなど、中野仏様の写実的な彫りはもとより、御室もなかなか凝った造りでございます。

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大乗妙典塔

 文政5年、200年ほど前の造立には見えない、良好な状態を保つ仏様でございます。そのお顔は優しそうで、朱や墨による彩色もよう残ります。こちらは、おそらく一字一石塔でありましょう。大分市以南にて、台座に「大乗妙乗一字一石」などと陰刻し、その上に丸彫りの仏様の乗っている塔を方々で見かけます。特に佐伯方面に多いようです。ところがこちらは、上部の仏様が半肉彫にて背面が台座から一続きになっているのが特徴です。このような造形の一字一石塔は初めて見ました。

 さて、石段を登れば正面に本堂がございます。大きなお寺ではありませんけれども歴史を感じますし、境内にはたくさんの石造物がございます。お寺の歴史は『原村小史』に詳しく、同書はインターネットサイト「NAN-NAN」で閲覧できますので興味関心のある方はぜひ読んでみてください。ちょうど庚申塔を見学しております際に、近隣の方に声をかけていただき地域の様子などを教えてもらいました。昔は供養踊りをお寺で踊ったほか、金毘羅講、庚申講、お接待などいろいろあったが、高齢化と人口の減少によりこれらの年中行事は衰えるばかりであるそうです。お寺も無住になっており、普段は近隣の檀家さんにより守られているとのことでした。

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 本堂に向かって右側には観音堂が建っており、こちらは南新四国の札所になっています。このぐるりにたくさんの石造物が寄せられています。

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青面金剛1面6臂

 立派な御室に小型の庚申塔が収まっています。御室に収まった庚申塔は、国見町櫛海や宇目町神田、本匠村風戸山などで見たことがありますが、全体としてはごく少数にとどまると思われます。その意味でも貴重なものでありますし、この塔は像容がほんに個性的でありますので強く印象に残りました。

 まず、御室の屋根を見てください。なだらかなカーブが美しいし、唐破風のお花模様と上部から両脇にさがる葉の細やかな彫りがなかなかのものではありませんか。二重垂木がさても重厚で、見事なものです。中の庚申様は、鶏も猿も伴わないシンプルな造りになっています。鼻筋の通った細面のお顔、頭巾を被ったような御髪など、一見して歌舞伎役者のような印象を受けました。弓や三叉戟などはレリーフ状の浅い彫りですのに、細かい部分までよう残っています。また、ショケラが生首の状態であり、不気味です。

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 堂様の左手には壊れた宝篋印塔の部材などが安置されていました。

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 右側には多種多様な仏様がずらりと並んでおり、壮観です。特に馬頭観音様は見事な造りです。非常に細やかな彫り、立体感に富んだデザイン、碑面から浮き出るような存在感は、近隣在郷でも指折りの秀作といえましょう。下部には「上詰邑」「納経供養」などの銘がありました。邑は村と同義です。

 

10 原村のお不動様(旧)

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 観音堂の横から細道を辿れば、先ほど坂道を車で下るときに見かけたお不動さんや庚申塔のところに出ます。

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 このお不動様はやや傷みが見られるものの螺髪などよう残り、高い台座の上におわしますのでほんに堂々たる雰囲気でございます。こちらは明治39年の造立で、元は金毘羅橋を渡った先(シコナを不動様というそうです)に立っていたものです。金比羅橋がかかる前は丸木橋で渉っていたものを足を滑らして川に落ちたり、または稚児が水遊びで溺れたりすることが多かったので、災難除けを祈願して建立されたそうです。それが昭和3年の洪水で流されたので、昭和9年に新しいお不動様をこしらえて安置しました。ところがその数年後に金毘羅橋下流の川底にて元のお不動様が発見されたました。しかし元の場所には新しいお不動様が立っていたので、元々のお不動様をこの場所に移してお祀りし今に至るとのことです。

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青面金剛6臂、1猿、1鶏、ショケラ

 地衣類の侵蝕が目立つものの、彫り自体はほとんど傷んでおらず、良好な状態を保っている庚申様でございます。おそらく別の場所からここに移動されたものと思われます。主尊のお顔は真っ赤で、ほかに火焔光背や、体躯の両脇の縁取りなど、彩色がよう残っています。それがために、主尊のお顔立ちと相俟ってさても恐ろしげな雰囲気が感じられました。手の指、膝あたりのふくらみなど違和感のない写実的な彫りです。武器の類は小さめで、特に三叉戟はしじみ掻きで使う熊手に見えてまいります。

 この塔で最も注目していただきたいのは、ショケラです。先ほどの塔と同じく体は刻まれておらず、生首の状態でありますが、にこにこと楽しそうに笑うているではありませんか。このように笑顔を見せるショケラは、別府市は堀田でも見かけたことがあります(以前紹介しました)。どんな意図でこのように表現したのか、気になります。下部では大きめの猿と鶏が仲良う向かい合うています。

 

11 原村大師堂

 車に戻って、右に聖観寺を見送って急な坂道を上ります。旧国道に突き当たったら左折して道なりに行き、現国道との交叉点(原村大師堂の標柱あり)を直進して坂道を上ります。すこし進んで、鋭角に右折してなお上れば大師堂に着きます。駐車スペースは十分にあります。

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 広い境内は舗装され、圧倒されるような大きさの碑銘やいくつかの石造物のほか、プレハブ造りの堂様がございます。もとの堂様が傷んだので、このような形に建て直されたのでしょう。自由にお参りできます。中は清掃が行き届き、お弘法様、お観音様などいろいろな仏様が並んでおりますほか、木製の小さな三界万霊等(等は塔の意)、さらに千人針も置かれていました。後ほど紹介しますが、この奥に戦死された方々のお墓があります。千人針はそれと関連して置いてあるのでしょう。千人針の実物を拝見したのは初めてでしたし、わたくしの身内にも戦死者が何人かおりますので、いろいろと物思いに耽ってしまいずいぶん時間が経ちました。

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南新四国〇礼記念碑(○は読めませんでした)

 南新四国と申しますのは野津原町に点在する四国八十八か所の写し霊場で、こちらの大師堂はその本拠地になっています。昔は百万遍の数珠繰りなどがあって、参拝者も多かったそうです。また、千人参りなどで白装束の女性が御詠歌を流しながら列を組んで巡拝するのもしばしば見かけたと聞きました。時代の移り変わりでそのような巡拝者は滅多に見られなくなりましたが、各地の札所では今なお、月ごとの縁日に近隣の方が御詠歌をあげたり、お花をあげたりしています。

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 お弘法様は、衣紋のひだなど細かいところまで丁寧に彫られた秀作です。

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南新四国巡拝団開設百周年記念碑

 

今回は以上です。野津原町路傍の石造物、小さな堂様などがたくさん残り、短時間で次から次に名所旧跡を辿れるものですから、何度訪れても新しい発見があります。写真のストックがまだありますから、またいつか続きを書きたいと思います。