大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上井田の名所めぐり その2(朝地町)

 前回に引き続き、朝地町は大字池田の名所旧跡を紹介します。今回紹介する田村の磨崖仏は、このシリーズの目玉です。インターネット上でも紹介されている史跡ですが、実際に訪れてみると思いの外道順が分かりづらく往生しました。その点も詳しく書いてみようと思います。

 

6 一萬田氏舘址(御廟様の石幢)

 前回紹介したサヤノ木の石造物からスタートします。車で坂道を下り、県道657号との交叉点(信号機無し)を直進します。道なりにくねくねと下っていくと、道路左側に「一萬田舘跡」の標柱が立っています。

 この標柱が目印です。この坂道は車では上がれません。上がりはなに駐車して歩いて行きましょう。急坂を上って、土塁状になったところを横切れば広場に出ます。

 今では草茫々のこの広場が、一萬田氏の舘址であるとのことです。説明板がなければそれと分からないような場所で、先ほど申しました土塁状の地形とこの後で紹介する石幢のほかには何の面影もありません。広々と気持ちの良い場所で、もし草が刈られていたら運動会ができそうなほどの広さがあります。

 説明板の内容を転記します。

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一萬田氏舘址

 延応(1240~)の頃、豊後守護職大友氏の同紋衆一萬田氏は、地頭職をこの地方に得て入部土着して有事に備え「鳥屋城」や「小牟礼城」を築いた。しかし平地の治安や貢納の業務、生活など不便であったので領地のほぼ中央にあたるこの台地に「居館」を営んだ。
 「城戸」「勢馬溜(せいまた)」「矢馬雑司(やまぞうし)」「武家(むけえ)」「武家台(むけんでえ)」「北口」「妙園寺」「御廟様」の「六地蔵塔」など名残の地名や石造文化財があって、舘址を「御屋敷」と呼び西の方に残る土塁の一部が往時を僅かに偲ばせてくれる。
 天正の始め(1574)、宗家大友宗麟もこの「居館」を訪れ「墨染桜」ほか満開の花の木蔭で能を催し盛大な観桜の宴を張ったと伝えられる。「花の馬場」もこの付近に地名として残っている。なお「舘」という地名も一萬田氏の「居館址」であることに起因する。

昭和57年3月 朝地町教育委員会

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 小字名や通称地名(シコナ)が忘れられつつある中で、説明板にたくさん記されているのは意義のあることです。それにしても「居館」はいつ頃まで建っていたのでしょうか。

 さて、説明板にも記されてある「御廟様の六地蔵塔」はこの傍に立っています。すぐ分かると思います。

 こちらが御廟様の六地蔵塔(石幢)です。残念ながら保存状態がよろしくなく、特に笠の破損が顕著です。軸がぶれてしまっており、地震や台風等による倒壊も懸念されます。龕部は、大野地方でよう見かける矩形のもので、六地蔵様のほかにもう2体、像が彫られています。傷みが激しく像容の判別も難しくなっています。おそらく閻魔様か、十王様のうち2体であろうと推察いたしました。

 説明板の内容を記します。読みやすいように一部改変しました。

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御廟様の石幢

 この石幢(六地蔵塔)は破損の為、中台、笠部(近くに落ちている)、宝珠などを欠いているが、龕部に「花渓紹芳大禅定尼 淑雲」の記銘がある。これは竹田市米納沢の田部家にある宝篋印塔台座銘「欽奉造立石塔一躯為花渓紹芳大禅定尼」「大永八年一一月十九日矣孝子敬日」という文面から、この塔で供養された女性は大永の頃、地頭一萬田氏の夫人と考えられる。
※大永8年=1528

朝地街教育委員会

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 近くには宝塔か何かの相輪尖端が落ちていました。石幢のものではないと思います。

 

7 田村社

 一萬田氏舘址から車道に戻って、車で先に進みます。延々と下り続けて、突き当りを右折します。すぐ道なりに橋を渡ったら田村部落です。道なりに行き「田村←」の青看板を鋭角に左折して、すぐ右折します。坂道を上っていき、掘割を抜けたところの先に左に下る道(自動車不可)があります。この道の下りはなに駐車します。そこから振り返ると小山の上にお社が見えます。車を停めたところから小道(旧道…次項で説明します)を少し歩けば、左側に鳥居が立ち参道の石段が伸びています。または、車道側からの新しい参道もあります。

 この奥から手前に車で上ってきました。写真の階段は新しい方の参道です。

 境内は広くはないものの草刈等の手入れが行き届き、こざっぱりとしています。特に由来書き等は見当たらず詳細は分かりませんが、村の名を冠していることから、田村部落の鎮守として崇敬を集めてきたものと思われます。お参りをしたら、また好きな方の道から下りましょう。

 こちらが元からの参道で、石段は短いものの立派な杉木立の中にて雰囲気があります。石段の緩み等は感じられず、安全に通行できました。

 

8 田村の旧道

 さて、田村社にお参りをして、いよいよ意気揚々と磨崖仏を目指しました。インターネットで事前に調べていた情報によれば、田村社参道下の小道を下りていくとあります。その道はいかにも昔の山越道といった雰囲気であり、浅い掘割状になった未舗装の道です。田村社の鳥居から下は枯れ竹が折り重なり通行に難渋しましたがどうにか抜け、それから先は草付の道になりました。クランク状に折れ曲がったかなりの急傾斜にて、道が荒れています。杖を持って来ればよかったと悔やみました。

 この奥から手前に下ってきました。ここからは道幅が広がり、傾斜も穏やかになりますので安心して通れます。

 この風景には、いかにも昔の道らしい雰囲気があります。水路を道に沿うて通すのではなく、半ばより崖の半ばを通しています。このような灌漑設備は、一見して地味ではありますけれども昔の方の智恵が感じられますし、かつての井路普請の苦労が偲ばれる立派な史蹟であります。もちろん旧道自体もそうです。

 さて、田村社から下って来たこの道は、車道開通以前の旧道である旨を地域の方に教えていただきました。かつてはこの道を小学生などが学校の行き帰りに通っていたそうです。車社会になって不便を託ちましたので、田村社の裏を通る掘割経由の現道を拓いた由、今ではこの旧道を歩く人はいません。

 この少し先で、X型の辻になっています。いま、Xの左下から下ってきました。磨崖仏に行くには鋭角に折り返して右下に下り、農道を進みます。田村社横から旧道を下るルートは通行に難渋しますので、次項にて別の道順を紹介します。

 

9 田村の霊場(磨崖仏)

 田村社の近くに車を停めたら、車道を歩いて後戻ります。右側1軒目の民家の屋根が見えてきたら、鋭角に右折して簡易舗装の道を進みます。道なりに下っていけば、X型の辻に出ます。これを直進して下り、農道に入ります。これまでの道中は車が通れる幅はありますが地域の方の迷惑になりそうですから、歩いて行きましょう。さて、この辺りで道が分からず右往左往しておりましたら、ご親切にも農作業をされていた地域の方が磨崖仏まで案内してくださいました。田んぼを数枚過ぎたら、軽自動車なら通れる程度の幅の畔道が左に分かれていますので、その道を進んで田村社の小山から田んぼを挿んで反対側の山すそに取り付きます。この道は、磨崖仏の旧参道が荒れて通行に難渋している現状を憂慮して、案内して下さった方が手弁当で造成された新道とのことです。道なりに左カーブすると竹藪と岩壁の間の細道になります。

 細道に入ってほどなく、岩壁に岩屋状の穴がほげているところに出ます。岩屋の中には石塔か仏様が鎮座していたと思われる台座が残り、その横に葉小さな仏様が安置されていました。その横には上部が破損した三界万霊塔と思われる石塔が立っています。霊は、異体字(ヨの下に大)、その下は片仮名の「ホ」に似た字ですが、よう見ますと横画が縦画を貫いていないようです。この字の読みは調べてもわかりません。

 岩屋のすぐ先、岩壁のやや高い位置に磨崖仏が彫られています。実は、以前も何度か田村の磨崖仏を捜して行きつかなかったものですから、今回ご親切にも案内をしてくださったお陰様でやっと拝観することができ、その感激も一入でございました。傷みが進み、お顔の表情や衣紋など細かいところは全く分からなくなっていますけれども、一見してお不動様であることはすぐわかります。いかり肩で脚を広げ、堂々たるお姿ではありませんか。案内してくださった方のお話では、以前はもう少し状態がよかったそうです。

 さて、この磨崖仏は文化財に指定されていないので案内標識の類は何もないばかりか、近隣の方のお参りも稀になっている状況であります。近隣在郷の磨崖仏、たとえば普光寺、瑞光庵、切小野谷、柏野などの磨崖仏(お不動様)は「大野川流域不動尊霊場」の札所になっています。田村の磨崖仏はその札所にもなっていません。けれども磨崖仏単体のみならで周囲の石仏群や岩屋等も含めて、仏跡とでも申しましょうか、貴重な史蹟であると存じます。それで、項目名としては磨崖仏に限定したくなかったので「田村の霊場」としました。今後も粗末になったり今以上に破損が進んだりすることなく、長く残ってほしいものです。

 磨崖仏の先には別の岩屋があって、この岩屋から人が這うてやっと通れる程度の洞窟が穿たれています。いったいどのような意図でこしらえたのでしょうか。

 洞穴の上部には龕を斜めに連ねて、めいめいの中には仏様が安置されていました。「南無阿弥陀仏」と彫られた小さな石塔や、「延」ただ1字のみ彫られた矩形の石が収まった龕もあります。きっと、わたしが気付いた以外にもこのような龕・石造物がもっとあるのでしょう。現状では周囲が荒れており、これ以上の確認はできませんでした。

 元は、田んぼの畔からこの辺りに直接上がる道があったとのことです。ところが今は笹薮で通行できませんので、先ほど申しましたように案内して下さった方が拓かれた新しい参道を通らないとこの霊場に近付くのは困難です。

 

今回は以上です。田村の磨崖仏の探訪にあたっては、地域の方の案内がなければとても辿り着けませんでした。よそからの見学者は稀であると存じますのに意を汲んでくださり農作業の手を止めて案内してくださったばかりか、旧道のこと、地域の農業のことなどいろいろ教えてくださり、感謝しています。今回に限らず、地域の方に教えてもらわないと分からないこと・知り得ないことがたくさんあります。聞き覚えた内容はきちんと記録していきたいと思います。