大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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合川の名所めぐり その2(清川村)

 このブログを始めて間もなくの頃、合川地区のうち大字左右知の名所を少し紹介しました(間ノ内の一字一石塔と一位樫)。ずいぶん久しぶりになりますが、合川の名所の続きを紹介していきます。

 さて、今回は大字六種(むくさ)と平石の一部をめぐります。当地区を代表する名所が目白押しで、盛りだくさんの内容になります。大野地方の石の文化と自然景勝地を両方楽しめる名所めぐりコースとして皆さんにお勧めしたいと思います。実際に探訪される際には近隣在郷の名所と組み合わせて、めいめいに道順を工夫してください。

 

3 石源寺石仏

 石源寺石仏は、大字六種(むくさ)は石原部落にある磨崖仏です。六種という大字名は、明治8年に丸小野・石原・泉園・蔵内・小原・宮津留の6か村が合併したことに由来します。

 道順を説明します。道の駅きよかわを起点に、国道502号緒方町方面に行きます。県道410号の標識に従って左折して、しばらく道なりに進みます。「石源寺石仏」の標識を右折して長い坂道を下りきったら左折、狭い道に入ります。次の二股は右にとって、山裾に沿うて右に田んぼを見ながら進んでいきます。道幅がさらに狭まりますが普通車までならどうにか通行できます(できれば軽自動車の方がよいでしょう)。また、農繁期には近隣の方の迷惑になりそうなので避けた方がよいかもしれません。車道の行き止まりに駐車場が整備されています。

 手前の石造物は笠塔婆でしょうか。その後ろの大岩の3面に磨崖仏が彫られています。大野地方の磨崖仏群の中では珍しい造立方法であるといえましょう。何はともあれお参りをしたら、説明板を参照しながら一体々々の造形を確認してみてください。

 説明板の内容は原文のままだと少し分かりにくく感じましたので、一部改変して掲載します。

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村指定史跡 石源寺石仏
指定年月日 昭和54年10月1日
所在地 大分県大野郡清川村大字六種字堂園1801番地2
所有者 石原区

 この石仏は四面石仏の一種と見られる。不動信仰の石仏として知られ、郡内はもとより、県内外から信者がおとずれ隆盛をきわめた。
 巨石の高さは3.5mで、幅は東側3.1m、南側3.5m、西側2.2mである。
 東面には薬師如来坐像(約74cm)が刻出されている。
 東面と南面の角に近い箇所には転法輪相の釈迦如来坐像(約75cmほど)が彫られているが、体躯に大きな亀裂が入り上下に分かれている。
 南面には不動三尊立像が刻出され、中尊は不動明王像(約1.7m)、脇侍は矜羯羅童子像(約90cm)と制吒迦童子童子像(約76cm)である。
 西面には阿弥陀如来坐像(約76cm)が刻出されている。
 終戦直後は、4家の屋敷神としてまつられていたが、現在では石原区の共有の不動様として親しまれ、旧の1月28日に不動様祭りが行われている。

清川村教育委員会

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 中央が不動妙法、左が矜羯羅童子です。傷みが進んで表情は分かりづらくなっていますが、全体の姿ははっきりしています。やせ形で、すらりと格好のよい仏様でございます。この面には石造の庇を設けてあり、ことさらに手厚くお祀りしてあります。

 左に写っているのは制吒迦童子、その隣には説明板のとおり、お釈迦様が上下に断裂してしまい痛ましい限りです。

 薬師様はお顔もよう分かります。残っている6体の像のうち、もっとも保存状態が良好です。こちらにも庇をかけてあります。

 阿弥陀様のお顔もよう分かりますが、地衣類の侵蝕が気になりますうえにやや彫りが浅めで、そのシルエットはぼんやりとしてきています。庇のつくりも簡易的なものです。

 裏側には崩れた岩が折り重なって、このように洞門状になっていました。もしかしたら北面にも何らかの仏様が彫られていたのかもしれませんが、現状では確認できません。

 それにしても、どうしてこの場所にこんなに立派な磨崖仏が残っているのでしょうか。石源寺の呼称からお寺の跡なのかもしれませんが、説明板にも言及されておらず詳細は分かりませんでした。

 

4 丸小野の霊場

 石源寺石仏から元来た道を後戻って、県道410号に出たら右折して道なりに行きます。丸小野部落のはずれ、道路右側の少し高いところに石祠が見えましたのでお参りに立ち寄りました。車は、路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかありません。

 お弘法様でしょうか。色鮮やかなおちょうちょをかけて、お花があがっています。信仰が続いているようです。

 仏様の左手には、何らかの石祠と石灯籠が立っています。何の祠かわかりませんでしたので、項目名は仮に「丸小野の霊場」としました。この石祠は台座の部分の彫刻が見事です。

 風になびく尾花の中を兎がはねているではありませんか。なんと可愛らしい彫刻でしょう。ただの台座に、これほど細やかな彫刻を施している例はあまりないと思います。お祀りされている神様に何か関係があるのではないかと思いましたが、兎と関係のある神様が思い浮かばず、一体何が何やらさっぱり分かりませんでした。

 

5 柏野の霊場

 道なりに行き、二股になっているところを「出合橋」の標識に従って左折します。曲がりくねった急坂を谷底に下り、大字平石は柏野部落に出てすぐ、右側に「柏野石仏」の看板があります。一旦通り過ぎて、この先の道幅の広いところの路肩に寄せて車を停めるとよいでしょう。

 看板のところまで戻って急坂を上がれば、途中から階段になります。獣害予防柵がありますので、通り抜けたら必ず元通りに閉めてください。

 上がり着いた正面には観音堂があります。自由に拝観できますので、お参りをしましょう。中のお観音様はなかなか立派で、特に蓮台のところなど細やかに造られています。

 観音堂から左に行けば、お稲荷さんの鳥居と磨崖仏が横並びになっています。秋は銀杏が落ちていて歩きにくいので、お参りは冬から春先がよいと思います。

 岩壁に舟形の龕をなして、腕白小僧のようなお不動様が彫ってあります。苔や羊歯が繁殖して元々のお姿が分かりにくくなってきていますが、長い間このお姿で親しまれていますし、自然と一体になった磨崖仏ならではの特徴でありますから、むやみやたらに苔を除去したりしない方がよいと思います。以前紹介いたしました緒方町の瑞光庵磨崖仏ほどではありませんけれども、こちらもなかなかのインパクトでございます。庶民の信仰のエネルギーが感じられる個性豊かな造形は、一度見たら忘れられません。

 説明板の内容を転記します。

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村指定史跡 柏野不動明王磨崖仏

 熔結凝灰岩を主体とする岩肌に、右手に剣、左手に索を持つ不動明王立像を半肉彫りする。像高113cm。作ぶりは、肉づけや衣紋表現など平板であるが、つぶらな瞳の童子の表情を示す相貌は愛くるしく、どことなく親近感がある。その儀軌にとらわれない自由な作風からして、江戸時代に入ってからの造立であろう。腕釧等に朱色を施す。
 近くに、戦国時代末頃の宝塔6基、五輪塔数基からなる石塔群がある。

清川村教育委員会

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 説明板を読んで、近くにあるという宝塔や五輪塔を捜してずいぶんうろうろしたのですが、とうとう見つけられませんでした。

 お稲荷さんへの石段は踏面が狭く、歩きにくく感じました。手すりはありますが、無理に上がらずに遥拝でもよいと思います。

 

6 杓子岩

 柏野から道なりに進んでいくと、轟橋(とどろばし)に出ます。橋は後回しにして、先に杓子岩から紹介します。轟橋手前の観光駐車場に車を置いて、轟橋を歩いて渡れば右側に大岩壁が見えます。

 奥岳川の清流と大岩壁の柱状節理が相俟って、当地区随一の景勝地といえましょう。この大岩壁の一部に貝杓子のように見える部分があることから、杓子岩と申します。

 説明板の内容を転記します。

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火砕流と柱状節理
 橋の両側には、縦にたくさんの割れ目が入った岩壁がそびえています。9万年前の阿蘇火山の巨大噴火では、高温の火砕流が豊後大野の大地を埋め尽くしました。厚くたまった火砕流は自分自身の熱で溶け、その後冷えて固まりました。火砕流が冷えて固まる際、体積が収縮するため、たくさんの割れ目ができます。このようにしてできた割れ目は、柱を束ねたように見えることから「柱状節理」と呼ばれています。

○杓子岩とエンタブラチャー
 轟橋の上流側の岩壁は「杓子岩」と呼ばれています。この崖では、下半分は垂直の柱状節理が発達していますが、上部には不規則な細かい割れ目が入ったエンタブラチャーと呼ばれる部分が見られます。この部分が貝杓子の貝の部分に、その下の柱状節理が柄の部分に見えることから、この岩が杓子岩と名付けられたといわれています。

平成28年熊本地震による柱状節理の崩落と修復工事
 平成28年熊本地震では豊後大野でも被害がありましたが、ここ轟橋でも橋の下の柱状節理が地震によって崩落しました。柱状節理は縦に割れ目が入っているため、崩落しやすいという特性があります。その後、修復工事が行われましたが、その際には景観をなるべく損なわないような工法がとられました。

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7 轟橋と出会橋

 さて、いよいよ今回の本丸といってもよいでしょう、轟橋と出会橋です。この2つの石拱橋は至近距離に並んでおり、こんなに大規模な橋をどうして2つもかけたのか不思議に思う方も多いでしょう。それは、両者の使用目的が異なっていたためです。すなわち轟橋は林鉄(材木の運搬用の軽便鉄道)用、出会橋は人の通行用に架けられました。林鉄の廃止により轟橋は車道に転用されて今に至るというわけです。

 この2つの橋は、石造アーチ橋としては日本一の径間を誇ります。詳細は後ほど説明板を引用することにして、先に風景を紹介します。

 こちらは出会橋です。轟橋たもとの駐車場のところから、遊歩道を下っていけば簡単に橋の上に立つことができます。橋の全体像を見るには轟橋の上からがよいでしょう。

 この橋は大正13年の架橋で、日本で2番目に径間の長い石拱橋です。この谷の深さでは、2連以上のアーチをこしらえるのが困難であったのでしょう。土木技術の粋の結晶であります。素晴らしい自然風景によう馴染んだ橋で、一幅の絵画を見るような風情があります。

 出会橋の上に立って下流を見遣れば、素晴らしい渓谷美を楽しむことができます。澄み切った水がさらさらと流れ、柱状節理の岩壁が長く続いております。四季折々のよさがありまして、青葉若葉の頃は爽やかで特によいでしょう。

 こちらが轟橋です。出会橋の上から見れば、規模の大きさに驚かされること請け合いです。石拱橋としては径間が日本一の長大アーチで、しかも2連になっています。橋脚の造りの堅牢なること、よほど緻密な設計によるものと思われます。この橋は、先ほど申しましたように林鉄用に架けられたものなので高欄はありませんでした。それで、車道に転用した関係でガードレールをつけてありますので、この点がやや景観を損ねています。しかしながら橋の風情を壊さないように、ガードレールの色などできる限りの工夫をされているようです。

 この上を、材木を満載したディーゼル車が渡る様子は、さぞ壮観であったことでしょう。その当時の写真もきっと残っていると思うのですが、残念ながらまだ見たことがありません。

 説明板の内容を転記します。

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出会橋・轟橋

○日本一と日本二位の石橋
 出合橋と轟橋は、大正時代の終わりから昭和の初期にかけ作られた石橋です。巨大な石橋がすぐそばに並んでいるという一見奇妙な光景ですが、それぞれ建設された目的が違います。このような景観が見られるわけは、垂直に切り立った深い谷と、建設資材となった岩石の存在にあります。いずれともに深く関係しているのが、9万年前におこった阿蘇山の巨大噴火です。実は、この2つの橋のアーチの長さは日本一(轟橋)と日本二(出会橋)。自然の営みと人の営みが交差し誕生したジオサイトです。

○出合橋
 大正13年架橋。この橋の下を流れる、奥岳川の右岸にある轟地区と左岸にある平石地区を結ぶ、人道橋として建設されました。アーチ部分の径間は29.3mで、隣にある轟橋についで、日本第2位の長さになっています。石工には、当地の住人「界寿光」の名があります。端長32.2m、橋幅3.9m。

○轟橋
 昭和9年架橋。奥岳川の上流、傾山から木を切り出すため、営林署が鉄道を走らせました。そのときに建設された石橋です。鉄道が走るために橋は長く巨大になり、2連アーチの径間はそれぞれ32.1m(右岸側)、26.2m(左岸側)。水面から橋桁までの高さは27mあります。出会橋も轟橋も使われた石はすべてこの地で採れる阿蘇溶結凝灰岩。巨大噴火を起こした阿蘇山と関係の深い石です。

阿蘇野大噴火と川がつくった渓谷
 9万年前におこった阿蘇山の噴火による大火砕流は、阿蘇山に近いここ豊後大野の地のほとんどを覆い尽くした後、冷え固まり「阿蘇溶結凝灰岩」になりました。その冷える過程で入った縦方向のひびは、川によって削られることで、垂直に切り立ちまるで大きな溝のような渓谷を作りました(ボックスキャニオン)。この谷は川を渡りたい人々にとって困った存在でしたが、江戸時代になるとこの地方に石造りのアーチ橋を架ける技術が伝えられ、目の前にある崖から「阿蘇溶結凝灰岩」を切り出し、建設資材としました。

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 説明板には、轟橋を架ける際に木造の枠組みをこしらえたときの写真が掲載されています。

 

今回は以上です。大分県には石仏や磨崖仏、石塔類の数多いことはよう知られていると思いますが、実は石橋や古いトンネルの多さも全国有数です。あちこちに残っていますから、何かのついでにでも見学されてはいかがでしょうか。